4 家出の理由










        剣心と薫が京都に行く度世話になっている「葵屋」。
        現在の店の主人は、翁こと、柏崎念至である。

        その翁は、ゆくゆくは自分の後は蒼紫に任せようと考えているらしい。
        と、なると自然、店に縁のある人たちに彼を紹介する機会というものも出てくるわけで―――



        「同業の、お付き合いのある料亭にご挨拶にいったとき、そこのお嬢さんが蒼紫様に一目惚れしちゃったらしいんだ・・・・・・」



        泣くだけ泣いて、ようやく涙のひっこんだ操は、ぽつりぽつりと蒼紫の「縁談」について話し出した。
        「最初は、あたしも爺やも店のみんなも何かの冗談かと思った。でも、ちゃんと人を介して向こうから『申し込み』があって」
        先方の娘さんは、すっかり蒼紫を気に入っているという。店の格もちょうどつりあいがとれている。これは双方にとってまたとない良縁では、と―――
        そんなわけで、あれよあれよという間に見合いの席が設けられ、その「縁談」は進み始めてしまった。

        「でも、そうは言っても蒼紫さんでしょ? あのひと、そんな普通の娘さんとうまく行くようなひととは思えないんだけど・・・・・・あ、悪い意味で言ってるんじゃな
        いからね?」
        「うん、わかるよ、薫さんの言いたいことは」
        蒼紫は、ただの「料亭の若旦那」ではない。御庭番衆の御頭として、苛烈な道を歩んできた男だ。彼の過去や生き方や信条すべてを、「普通」の娘が受け
        入れて理解して、ましてや夫婦になることなど―――できるのだろうか。


        「けど、それを言ったら薫さんだってそうでしょ?」
        操は、すっかり赤くなった目を薫に向けた。その眦には、まだ涙が残っている。
        「緋村だって、たくさん重いものを背負ってる。こう言っちゃなんだけど、あいつだって普通に平穏な人生送ってきたわけじゃないでしょう」
        蒼紫様と同じように、と操は付け加えた。剣心も蒼紫も、闘いの人生を歩んできた点については共通している。


        「けれど・・・・・・薫さんは、それでも緋村のこと好きになったんでしょ? あいつのこれまでの生き方とか全部含めて、好きになっちゃったんだもんね」


        薫は、揺らがなかった。
        剣心から過去を告げられても、敵や復讐者との戦いに巻き込まれても、何があっても彼を好きでいることをやめなかった。

        それが、剣心にとっての最大の幸福だった。
        彼がこの地で出逢って恋をした少女が、揺るがずに、彼のことをずっと好きでい続けたことが。
        そうして剣心は、長い長い旅の末―――此処で薫という「帰る場所」を手に入れたのだ。



        「緋村が薫さんに逢えたみたいに、蒼紫様のこと全部理解したうえで、それでもちゃんと好きだってひとが、現れないとは限らない、でしょ・・・・・・」
        操は再び、下をむいて黙り込む。
        確かに操の言うとおり、その想いが本物ならば相手の背負うものも何もかも受け止めて受け入れて、添い遂げることはできるだろう。薫が、そうだったよう
        に。しかし、薫は食い下がった。

        「全然違うわよ。だって蒼紫さんには、操ちゃんがいるじゃない」
        操の肩が、ぴくりと震えた。
        「もうとっくの前に、蒼紫さんは操ちゃんと出逢っているじゃない。操ちゃんほど蒼紫さんのことを好きなひと、これからだって他に現れるわけないわよ」
        操は、ぶんぶんと首を横に振って否定する。
        「だからって、あたしと蒼紫様は薫さんと緋村みたいにはなれないよ・・・・・・やっと再会できた二年前から、あたしたち、なんにも変わっていない」
        「そうかなぁ・・・・・・? そんなことないと思うけれど」

        少なくとも傍から見る限り、蒼紫の操に対する接し方は、他の者に対するそれとは異なっていると思うのだが。
        と、言っても、薫にしてみれば蒼紫はそもそもが掴みどころのない人物なので、どこがどう異なっているのかを訊かれたら返答に窮するのだけれど。


        「あたしは、ずっと前から蒼紫様のことが大好きで、蒼紫様が、心から笑えるようにしてあげたいって、ずっと思ってた。でも・・・・・・」
        声に、また涙が混じる。操は喉の奥から絞り出すようにして、東京に着くまで、そして着いてからもずっと封じ込めていた気持ちを吐き出した。

        「今回の縁談で、もう、訳がわからなくなっちゃったの。蒼紫様を探していたころから、あたしは全然先に進めてない。なんにも変わっていない。蒼紫様は
        近くにいるのに、探して、追いかけていたときと、変わってない」



        それは、悲痛な叫びだった。
        薫は、腕を伸ばして操の小さな身体を抱きしめる。
        以前もこんなことがあった。
        そうだ、あの時も、操は蒼紫のことが原因で泣いていた―――


        「だから、あたし、逃げてきたんだ」
        「逃げて・・・・・・?」
        操は、薫の肩先に濡れた頬を押しつけながら、言った。




        「追いかけるのも、何も変わらないのも、苦しくて辛くてたまらないから・・・・・・蒼紫様から逃げるために、東京に来たの」




        それが―――家出の理由だった。









        ★









        空の明度がだんだんと低くなり、日暮れが近づいてくる。
        昼間の暑さは随分と和らいで、道場の庭に吹き込む風は涼しさを感じさせた。
        ぼんやりと佇んでいた操は、先程薫と一緒に選んで購入した朝顔の鉢を眺めながら、本日幾度目かのため息をつく。


        「ぼーっとしてるでござるな、暑さにのぼせたでござるか?」
        縁側で簾を巻き上げていた剣心が訊いた。
        「平気だよ、もうそんなに暑くないし、それに、京都のほうが夏は厳しいし」
        「確かに、そうでござったな」
        操はしゃがんで膝の上に頬杖をつくようにして、じっと朝顔のつぼみを見つめた。白い筆に青い絵の具を滲ませたような、尖ったつぼみ。明日には鮮やか
        な蒼い花が咲くだろう。

        「薫さんから」
        「うん?」
        「家出の理由、聞いた?」
        「・・・・・・ああ、聞いたでござるよ」
        剣心は、沓脱石の上の下駄に足を入れて、庭に下りる。操はしゃがみこんだまま剣心の足音が近づくのを背中で聞いていた。
        「茶店で長々と話しこんだとか。甘いもののお代わりも貰ったのでござろう?それなら、西瓜は明日にしたほうがよさそうでござるな。夕飯が入らなくなる」
        「すいか?」
        「さっき、門下生の親御さんから差し入れに頂いたんでござるよ」
        「門下生、かぁ」
        操は、更にひとつ長いため息をついた。頬杖を崩して、膝頭に顔をうずめながら、息を漏らすように呟く。


        「あたしさぁ・・・・・・実のところ、緋村って格好いいなーって思ってたんだよね」
        操から剣心にむけて賛辞の言葉が飛び出すのは珍しいことだった。しかし剣心は胡乱なものを見るような目で操の背中を見下ろし、やがて重々しく息を
        つくとゆっくり首を左右に振った。
        「操殿、いくら蒼紫が望み薄だからといって拙者に乗り換えられては困るでござる。拙者には薫殿という大事な妻が―――ぐはっ!」

        おもむろに立ち上がって無言で数歩剣心から距離をとった操は、思い切り助走をつけて剣心の脇腹めがけて鋭い蹴りをぶちこんだ。
        先程酔っ払いに見舞った蹴りよりも、余程力がこもっていた。

        「・・・・・・み、操殿・・・・・・今の攻撃には明らかに殺気が感じられたのだが」
        「殺されてもしょうがないような悪趣味なこと言うからだぁぁぁっ!」
        「冗談を言うのも命がけでござるか・・・・・・まぁ、案外元気があるようでよかったが」
        げほげほと咳き込みながら剣心は体勢を整える。どうやら今のは元気づけるための冗談のつもりだったようだが、それにしても趣味が悪いと操は謝らなか
        った。望み薄だなんて、縁起でもない。そりゃ、逃げてきたわけなんだけど。


        「格好いいってゆーのは、そーゆー意味じゃなくって・・・・・・つまり、なんだかんだいってもあんたは強いじゃない。あたしだって世が世ならくの一になってる
        筈の身なんだから、緋村の力量が尋常じゃないのはよくわかるし、一目置いてるんだよ? これでも」
        その後に、でもまぁ蒼紫様のほうがすべてにおいて上だけどね、と付け足すのを操は忘れなかった。誉められてばかりなのは気持ち悪いので、むしろそ
        れくらいがちょうど良いか、と剣心は苦笑する。

        「ってゆーか、あたし単純に、強い人間って凄い!って思っちゃうんだよね。芝居や読み本の武将や英傑のことをステキーって思うみたいにさ」
        強い者への憧憬、それは誰もが持つ感覚だろう。ましてや操は普通の娘と違い、戦うことのできる人間だ。その感情は人より更に強いことだろう。
        「で、あたしあんたが戦っているところ、実際に見たこともあるけど、やっぱ、そこを見てると純粋に凄いって思っちゃうわけ。しかも緋村は飛天御剣流の継
        承者じゃん。今や使えるのはあんたと比古師匠だけっていういにしえの剣術のさ」
        「いや、それはそんな大したことでもござらんが・・・・・・」
        剣心は居心地の悪さを感じつつ、中途半端に頷くしかなかった。面と向かってそのような事を言われるのは、本人にとってはただ面映いばかりである。


        「あんたはそう言うけど実際凄いんだってば! それなのによ!?幻の古流剣術の使い手のあんたが、他の流派の剣術を子供たちに教えてるってゆーの
        が、あたしにしてみれば結構衝撃的だったわけよ!」
        「おろ、そんなことが衝撃でござるか?」
        「そんなことじゃないわよー! だってあまりにも気軽すぎない?!あんたは自分の受け継いだ流派へのこだわりとか誇りってものはないわけー?!」

        剣心は、まだ微妙に痛い脇腹をさすりながら、「門下生に稽古をつけている」と言った際の操の反応を思い出す。成程、妙に驚いていたのは、そういう事だ
        ったからか。
        これまで口に出して言ったことはなかったが、操は操なりに「強い剣客」として剣心に抱いていた確固たるイメージがあったようだ。それがあっさり崩れてし
        まったことが、操にしてはショックだったのだろう。しかし―――


        「しかし、そうは言っても・・・・・・薫殿が今あの身体で稽古ができぬのだから、拙者が助けるのは当然でござろう?」


        何の気負いもなく、至極普通のこと、というように、剣心はさらりとそう言った。
        操はかくんと口を開けたまま言葉を失い―――やがて、ふっと肩の力を抜いて、笑った。

        「あはは、そうか、そうだよね・・・・・・当然、なんだよね」
        「と、言っても、それこそ流派が違うから、拙者は薫殿が休んでいる間の繋ぎのようなものでござって・・・・・・」
        ともかくも、操の嘆きを多少は申し訳なく感じたのか、剣心は弁明らしきものを始める、しかし、操は剣心の「当然」という言葉で、既に納得をしていた。



        妻と、生まれてくる子供のために、自分にできることをする。それは剣心に限らず、世の「父親になる男性」が皆やっていることなのだろう。
        それは、とても「普通」であるが―――とても、格好いいことだ。



        「・・・・・・緋村、ほんとにお父さんになるんだね」
        「おろ? 何でござるか、改まって」
        「あーあ・・・・・・なんか、むかつくっ!」
        操は叫ぶなり、どか、と剣心に当身を食らわせた。突然だったのと先程の蹴りのダメージもまだ残っていたのとでよろめいた剣心は、なんとか転ばないよ
        う踏みとどまる。

        「むかつくわー! あたしは蒼紫様のことでこんなに打ちひしがれているのに! そんな当たり前のように堂々とのろけちゃってさー!」
        「は? 別に拙者のろけたつもりは・・・・・・」
        「はじめて会ったときはいかにも幸薄いって顔してたくせに! それが今じゃすっかり幸せ一色のめでたい顔つきになっちゃってさー! むかつく!ほんっ
        とーにむかつくー!」
        「ちょ、操殿!それはただの八つ当たりでござろう!」
        どかんどかんと肩先に続けざまに体当たりをされて、剣心は抗議の声をあげる。




        後悔と罪の意識に苛まれてきたこの男は、長い流浪の末に確かな幸せを手に入れた。
        新しい命を授かったことは、彼にとって大きな赦しになるだろう。

        これからも彼は剣を手にしつつ、同時に「普通の父親」になる。
        それは、なんて喜ばしいことだろう。




        操はそんな祝福の想いを抱きながらも、天の邪鬼に「むかつく」を繰り返した。
        やがて縁側から薫の「ちょっと操ちゃん、剣心をいじめないでー!」という声が飛び、ようやく剣心は操の攻撃から逃れることができた。














        5 「変わらぬ想い」 へ 続く。