3 朝顔市にて







        「・・・・・・操ちゃん?」



        薫の声に、操ははっとして顔を上げた。
        ぼんやりと現実から遠ざかっていた耳に喧騒が、肌に夏の暑さがよみがえってくる。

        「大丈夫? 気分、悪いんじゃないの?」
        通りに面した縁台の隣に座った薫が、気遣わしげに顔を覗きこんでくる。操はぶんぶんと大きく首を横に振ってみせた。
        「違う違う! ちょっとぼーっとしていただけ! 薫さんこそ大丈夫? 暑くない?」
        「ありがとう、大丈夫よ」
        操の目には、そう言って微笑む薫の表情が、一年前に会った時に比べて随分大人びて映った。









        操が東京にやって来てから数日が過ぎた。

        いつものことながら、するりと神谷道場での暮らしに溶け込んだ操は、弥彦を連れて街に遊びに出かけたり、家事を手伝ったり、門下生の子供たちにクナ
        イの持ち方を教えたり(そして薫に怒られたり)して、悠々と日を潰していた。
        「そろそろ家出の理由を教えろ」と剣心と薫から問い詰められることもあったが、その度に操はのらりくらりと質問をかわし、結局、理由についてはまだ語っ
        ていなかった。

        「疲れたらすぐに言ってね。薫さんに何かあったら、あたしが緋村にとっちめられるんだし」
        「はいはい。剣心ったら最近、心配性に磨きがかかってるのよねー」
        薫は手にしていた器から白玉を口へと運びながら、楽しげに目を細めた。



        操と薫は、今日から始まった朝顔市に連れ立って繰り出していた。剣心は少年たちが稽古に来るため留守番である。操は出がけに剣心から「薫殿をよろ
        しく頼むでござる」としつこい程に繰り返されていた。
        ふたりは明日あたりに花を咲かせそうな朝顔を選んで一鉢求め、今は茶店で一休みをしているところである。

        「赤ちゃんがお腹に座ってからは、動いたほうがいいってお産のお医者様からも言われてるから、このくらい平気よ。実際、ちょっと前まで普通に稽古だっ
        てつけていたんだし」
        そう、実のところ薫は、産まれるぎりぎりのところまで門下生たちを教えるつもりでいたのだ。しかし、いいかげんお腹が大きくなってくると剣心から「頼むか
        ら無茶はしないでくれ」と泣きつかれ、更には門下生たちも「何かあったらと思うと怖いですぅぅ」と口々に訴えてきて―――そんなわけで、薫は「産休」を余
        儀なくされた。


        「薫さんもさー、結構無茶するほうだから、緋村も心配なんだよ」
        「あら、結構無茶するのは操ちゃんだって同じでしょう」
        「・・・・・・それもそうだね」
        ふたりは顔を見合わせて、あははと笑った。
        そして操は、器に残った白玉の最後の一個を口にしてから、少し声を落として、言った。

        「薫さん、なんか、ごめんね」
        「え? 何が?」
        「初めてのお産の直前ってときに、いきなり転がりこんじゃって」
        「なんだ、そんな事」
        薫はくすりと微笑んで、大きなお腹を撫でてみせた。
        「むしろわたしは、来てくれて嬉しかったわよ? 今年はわたしがこんなだから京都に行けないし、操ちゃんにもしばらく会えないものと思っていたから」


        昨年の夏は、剣心と薫は巴の墓に参るため、ふたりで京都を訪れた。しかし今年はちょうど、薫の産み月が八月である。
        「剣心に、なんだったらひとりで行ってきたら、って言ってはみたんだけど・・・・・・えらい剣幕で怒られちゃった」
        「緋村に?」
        「うん、こんな大事なときに、ひとり置いていけるわけないだろうって」
        「緋村、そんなふうに薫さんのこと怒ったりすることあるんだ」
        「うん、本気で怒ってた」
        「でも、薫さん、嬉しかったんでしょ」
        「・・・・・・うん、嬉しかった」
        「・・・・・・いいなぁ、愛されてて」

        そうやって怒るのは、薫がそれだけ剣心に真剣に想われていて、大事にされている証拠だ。
        操は、かくん、と首を前に倒してつまさきに視線を落とした。それきり、黙り込んでしまう。

        薫は、「ああ、まただわ」と心の中で呟いた。
        この度東京にやってきた操は、いつもどおり元気で明るく振舞ってはいるのだが、時折こんなふうに沈んでしまうことがある。
        それは大抵僅かな間のことで、すぐにまた快活さを取り戻しはするのだが―――おそらく、これは「家出」の原因と関係があるのだろう。


        薫は、俯いた操の肩にそっと触れようとした。
        しかし、それより先にがらがらがしゃんと派手な物音と悲鳴が通りに響き渡り、操は弾かれたように立ち上がった。


        首を巡らせ、音がしたほうに顔を向ける。
        操たちがいる茶店と同じ並びに建つ、飯屋のほうからだ。

        雑踏の人波が割れて、その中心にひとりの男の姿が見えた。
        闇雲に振り回している手に、きらりと光るものが握られている。明らかに―――ただごとではない。


        操は手にしたままだった空の器を縁台に置こうとして、とどまった。厚い硝子でこしらえられた器はずっしりと持ち重りがする。使えそうだ。
        「操ちゃん?」
        「薫さん、ちょっと行ってくる」
        「気をつけてね!」

        薫の声を背に、操は走り出す。「危ないから」と止められないのがありがたかった。操がこういうときに黙っていられない気性だというのを薫は百も承知だろ
        うし、よく考えると彼女もその点については操と似たりよったりである。身重じゃなかったらふたりして飛び出してたかもしれない、と思って、操は走りながら
        つい口元を緩ませた。






        「どうしたの?! 何があったの?!」
        騒ぎから逃れてきた男性をつかまえて尋ねる。男は操の脚をむき出しにした格好に驚いた様子だったが、「どうもこうも、あの店で飯を食っていたら酔っぱ
        らいが暴れ始めてあの有様だよ」と解説してくれた。
        「板場から包丁まで持ち出しやがった、危ないからお嬢ちゃんも早く逃げな!」
        「わかった! ありがとう!」
        「って、ちょっと、おい! そっちに行っちゃいけねぇってー!」

        操は制止の声を無視して、逃げまどう人々の流れに逆らって走る。
        くだんの飯屋の前で騒いでいるのは、坊主頭の中年の男性だった。大柄で、身体の幅は操の倍はあるだろう。訳のわからないことを叫びながら、下手な
        踊りでも踊っているように包丁を振り回している。店の前には戸口から落ちた暖簾や倒れた看板、割れた皿やら何やらが散乱しているが、まだ怪我人は
        出ていないようだ。操はひとまずその事に安心した。
        店の客や通行人はあらかた逃げてしまい、男の近くに人はいない。これは操にとって丁度良かった。


        「ちょっと! そこのおっさん!」
        高い声は、酔っぱらいの耳ににもしっかり届いたらしく、坊主頭がゆっくりと操のほうに動く。
        「あぁん? なんだ貴様ぁ」
        暴れるのを止めた男が、操のほうを向く。その一瞬で充分だった。
        操は手にしていた硝子の器を、渾身の力をこめて投げつけた。

        「ぐぁっ!?」
        狙いは正確だった。ごっ、と鈍い音をたて、器は男の手首に命中する。衝撃に、男は包丁を取り落とした。

        「はぁぁぁっ!」
        すかさず操は、男に向かって放たれた矢のように掛け出した。男が包丁を拾おうとするより早く、懐に跳びこむように蹴りを入れる。
        大きな身体が地に倒れる様子を目撃した人々の間から、どよめきが起こる。操は着地するなり、地面に落ちた包丁を男の手が届かない位置まで蹴飛ばし
        た。
        「ち、畜生・・・・・・」
        男はしぶとかった。這うようにして地面を探り、転がっていた暖簾がその手に当たると、ひっつかんでよろよろと立ち上がった。


        「ちょっとー、もうやめときなよ。ふらふらじゃん」
        「うるっせぇ! ぶっ殺してやる!」
        男は暖簾から布を抜き取り、棒を握ると操に殴りかかってきた。
        大きく振りかぶって、力任せに振り下ろす。そんな大きな動きを避けられない操ではなかった。
        がっ、と。暖簾の棒の先は、地面にめり込む。

        それより先に、操の姿は男の視界から消えていた。
        たたらを踏んだ男の目の前が、ふっと陰った。

        棒が振り下ろされるより早く跳躍していた操は、そのまま棒の上めがけて「着地」する。
        ぼき、と音をたてて棒が折れた。
        地面に足をつけた操は、腰を落として、そのままつま先を跳ね上げた。
        首を下から蹴り上げられて、男の身体がのけ反る。ぐるりと白目をむき、どぅ、と大きな身体が仰向けに地面に転がった。



        わっ、と歓声があがる。
        遠巻きに操と酔っぱらいの「対決」を見ていた人々は、大の男を完膚無きまでにやっつけた小柄な娘に、驚きと賞賛の拍手を贈った。操はさすがに少々
        あがった息で、それでも「いやーどうもどうも」と見物人たちににこにこ手を振って応える。


        「大丈夫ですか?! お怪我は?!」
        と、人垣を割って現れた一人の男性が操に駆け寄った。
        「あー、あたしは大丈夫。むしろこの人、気絶しちゃってるから・・・・・・」
        声の主の方へ振り向いた操は、おや、と首を傾げる。涼しげな白いシャツを着た、細い目のその男性に見覚えがあったからだ。誰だったかと思い出す前
        に、茶店から小走りに走り寄ってきた薫の声が、その疑問の答えになった。

        「操ちゃん、大丈夫だった!?―――あら、署長さん?」
        そうだ、あの人の良い警察署長の浦村だ。前に何度か会ったときと違って制服を着ていなかったから、とっさに思い出せなかった。


        「やあ、緋村さんの奥さんもご一緒でしたか。こちらの方は、確か京都のご友人の」
        「はい、巻町操ちゃんです。今、東京に遊びに来ていて・・・・・・」
        薫に対する「奥さん」という呼称が、操にとっては新鮮だった。自分のことを覚えていてくれた署長に、操は「お久しぶりですっ」と挨拶をする。酔っぱらいが
        倒れ伏している横でだから、少々妙な具合ではあったが。
        「いやぁ、わたしが到着するより早く落着させてしまいましたね。さすがは奥さんのご友人だ」
        これまた奇妙な賛辞であった。薫も女だてらに剣術道場を背負って立っている身なので、その友人である操が見せた活劇も、署長には納得のものだった
        のだろう。でも別に、友人皆が戦う術に長けているわけじゃないんだけどな、と、薫はこっそり苦笑した。

        「署長さんみずから、駆けつけて来たんですか?」
        「いや、わたしは今日は非番でして。たまたま家族で朝顔市を見に来ていたらこの騒ぎが―――ああ、やっとのお出ましだ」
        通報してくれた者がいたらしい。押っ取り刀で駆けつけた巡査ふたりが、署長に向かって敬礼をした。
        「後は彼らに任せるとしましょう、大事にならなかったのは巻町さんのおかげですな、お手柄ですよ」
        署長は薫と操を促して、見物人の輪の外に出た。騒ぎの中心から少し離れたところで署長を待っていた浴衣姿の細君とおさげ髪の娘が、ふたりに会釈す
        る。


        「見ておりましたよ、凄い活躍でしたねぇ」
        笑ったように目の細い、署長と似た雰囲気の細君が素直に感心する。操は「やー、それほどでも」と照れたが、その後すぐに「でも、あまりに無鉄砲なこと
        をしてはいけませんよ? 年頃の女の子なんですから、残る傷でもついたら大変ではないですか」と諌められた。
        あまりに昔のことで記憶に薄いが、操はまるで母親に叱られたような気分になって、くすぐったそうに小さく首をすくめて「はい」と頷く。そんな操に細君は
        微笑み、そして薫のお腹を見やって更に笑みを深くした。

        「随分大きくなりましたね、もうそろそろですか」
        「お腹の中で暴れまわっているんで、きっと男の子じゃないかと思うんですけど」
        「わかりませんよ? お顔つきが優しくなってますから、女の子かも」
        そういうものなのか、と思いつつ操が会話を聞いていると、署長から「遠くからよくお越しになりましたねぇ」と話しかけられた。
        「あの背の高い方・・・・・・そうそう、四乃森さんはお元気ですか?」
        「あっ、はい、その・・・・・・蒼紫様は、元気です・・・・・・」
        「そうですか、それは何よりです」

        と、署長は細い目を更に細めてにこにこと笑っていたのだが―――不意に、操の顔を見ながら、何かに気づいたような表情をした。
        なんだろう、と操が怪訝な顔をすると、奥方が横から不思議そうに「あなた? どうかしましたか?」と尋ねた。
        「・・・・・・あ、いや、何でもありません、失礼しました。では、四乃森さんにもよろしくお伝えください」
        署長はそう言って丁寧のお辞儀をすると、奥方と娘もそれに倣った。
        三人の後ろ姿が雑踏に紛れてから、操は深く息をついた。




        ・・・・・・久しぶりだ。
        蒼紫様の名前を、口にしたのは。


        毎日、いちばん沢山呼んでいる人の名前だったのに、ここしばらく、ずっと声に出して呼ぶことがなかった名前。
        どうしよう、たった一回口にしただけで、たまらなく会いたくなってきてしまった。


        でも、あたしは、蒼紫様から―――



        「お店に、戻りましょうか」
        遠くを見るような表情で立ち尽くす操の肩に、薫はそっと手を置いた。











        茶店の店主は操の顔を見るなり「お嬢ちゃん、小さいのにやるもんだねぇ!」と賞賛の声をあげた。どうやら彼も、店を放って野次馬の群れに加わっていた
        らしい。誉められたのは嬉しいが小さいというのは余計だと、操は複雑な気分になる。

        凄いものを見せてもらえたからと言って、店主はふたりにみつ豆の小鉢と冷えた麦湯を饗してくれた。
        薫と操はありがたく厚意を受け、もう少しだけお喋りを続けることにする。



        「ね、薫さんは、赤ちゃん男の子と女の子どっちが欲しいの?」
        みつ豆をつつきながら、先程の署長の細君との会話を思い出し、尋ねてみる。
        「んー、わたしは、ひとりめは男の子がいいかなぁって思ってる。剣心はどちらでもって言ってるけど」
        「二人以上産むの、前提なの?」
        「うん、やっぱり男の子と女の子と両方が欲しいもん」

        ―――きっと、緋村もそう言っているんだろうな。
        薫は、そう口に出しては言わなかったけれど、操にはそれが当然のように思えた。
        

        「ねぇ、赤ちゃんできたってわかったとき、緋村どんな反応したの? めちゃくちゃ喜んだんでしょ?」
        「そうねー」
        その時の事を思い返しているのだろうか、薫の表情が、ふわりと幸せそうにゆるんだ。
        「やったぁ、って、声をあげて喜んでた。子供みたいに」
        「緋村がぁ?」
        まるで想像がつかなくて、操は首を傾げた。あの男に、そんな一面があったとは。蒼紫様程ではないにしろ、そこまで感情の起伏を露わにしない質だと思
        っていたのに。

        「意外でしょ? わたしもそんな剣心見るの初めてだったから、驚いたなぁ」
        「まぁでも、そんなに喜んでくれるなんて、嬉しいよね」
        「うん、お赤飯炊いてくれたし」
        「・・・・・・え、それって、どうなの・・・・・・?」
        「あら、おいしかったわよ?」
        「いや、そういう意味じゃなくて・・・・・・」


        めでたい出来事なのだから決して間違ってはいないのだろうが、妻の懐妊に手ずから赤飯を炊く良人など聞いたことがない。いや、でも緋村は家事が得
        意なのだから、むしろ彼らしい行動というべきなのだろうか。しきりに首をひねる操を眺めていた薫は、くすりと笑って操に顔を近づけた。

        「あのね、これ内緒よ? 弥彦にも誰にも言ってないんだから」
        「え、何なに?」
        内緒、という魅力的なフレーズにぴくりと反応した操は、目を輝かせる。
        薫は、耳元で小さく、とても優しい声音で囁いた。



        「剣心ね、声をあげて大喜びして―――そして、泣いてた」
        操の目が大きくみはられる。

        「泣きながら、ありがとう、って・・・・・・言ってくれたの」
        薫の顔が、そっと離れた。



        操は剣心の泣き顔を、咄嗟には想像できなかった。けれど、涙の理由は察することができた。
        かつて、大勢の命を奪った剣心は、それを自分の「罪」として背負って生きている。
        彼が刀を振るったのは、新しい時代を創るためだったのに、真面目で優しすぎる彼は、そのことを割り切って考えることが出来なくて。

        だからこそ、嬉しかったのだろう。
        薫との間に、新しく、命が生まれてくることが。
        命を奪うのではなく、「与える」ことができることが。



        「わたし、その時思った。絶対に、無事に元気な赤ちゃんを産まなきゃって。そして、剣心に抱かせてあげなきゃ、って」
        薫は、愛おしげに自分のお腹を撫でた。
        その横顔からは、優しさと、そして確かな強さが感じられて、操は胸が苦しくなった。

        「・・・・・・薫さんは、凄いなぁ」
        声が、揺れる。鼻の奥がつんと熱くなる。
        「あたしと、一つしか違わないのに、もうすっかり・・・・・・お母さんの顔になってる」

        語尾が揺れて、泣き声になる。
        薫は、操の小さく丸まった背中をそっと抱いた。
        「薫さんだけじゃない・・・・・・緋村も弥彦も、どんどん変わっていってるのに。あたしは二年前から、どこにも進めてない・・・・・・」
        こらえきれず溢れた涙が、ぽたぽたと膝に落ちる。
        小さくしゃくりあげる操に寄り添うようにして、しばらく背中を撫でていた薫は、やがて静かな声音で、尋ねた。



        「操ちゃん、京都で―――何があったの?」
        今度は、操ははぐらかしたりはしなかった。
        手のひらで涙を拭いながら、泣き止まないまま、家出の理由を口にした。





        「・・・・・・蒼紫様に、縁談が来てるの・・・・・・」












        4 「家出の理由」 へ 続く。