わき目もふらず、背中を追いかけている。
追いかけても、追いかけても、頼もしい広い背中に手が届かない。
先をゆくその背中が、遠ざかることはない。
ただ、もどかしいこの距離が縮まってくれないだけ。
追いかけることは、嫌いじゃない。
だけど、あたしは―――いつまでこうやって、追いかけ続けるのだろうか。
ちりん、と風鈴を鳴らした涼風が、操の頬を撫でた。
目蓋の裏が白く明るい。もう朝かと思って目を開ける。
いつもと違う、布団の感触。いや、そういえば布団で寝たのは久しぶりだったような。
今がいつでここが何処なのか、すぐに思い出すことはできなかった。
操は目覚めきらない頭のまま混濁した記憶の池の中をゆっくりと探り、やがて、眠りに落ちる前の出来事を意識の底からすくいあげる。
「・・・・・・そうだ、東京に着いたんだった」
昨夜は殆ど徹夜で歩いた(いや、最後のほうは半ば走っていた)。明け方神谷道場に転がりこんで、置いてくれと頼みこんで、その後風呂を貸してもらっ
た。汗と汚れを落としてさっぱりして、用意してもらった客用の布団の上に、飛び込むように身体を投げ出した。口には出さなかったけれど、ずっと歩き通し
でくたくたに疲れていたので、剣心と薫の厚意に感謝しつつすぐに眠りの淵へと沈んだ。
あとは泥のように、昏々と、夢も見ずにぐっすり眠って―――
「・・・・・・いや、夢なら見たかぁ・・・・・・」
枕に頬を押しつけながら、ひとりごちる。
あんなに深く眠っていたのに、目覚める直前に、夢を見た。
夢に出てきた蒼紫の背中が脳裏によみがえる。一度も振り向かなかった彼は、どんな表情をしていたのだろうか。
そろそろと身体を起こし、布団の上でうーんとのびをする。身につけているのは、風呂上りに薫が貸してくれた紫陽花柄の浴衣だった。
「どーしよっかなぁ・・・・・・」
簾越しにでも、部屋の中に射し込む陽光が強い熱をもっているのがわかる。おそらくもう朝ではなく、とっくに昼をまわっているのだろう。熟睡したおかげ
で、疲れはかなり回復していた。
そろそろ起きて、改めて緋村と薫さんにお礼を言わなくちゃ。でも、家出の原因を問いただされるのは嫌だな―――
そんなことを考えていると、ふいに、賑やかな気配に気づいた。
操は常人より耳がよい。これは―――道場のほうからかな、と思いつつ、浴衣の襟元と裾を整えて立ち上がった。
下駄を突っかけて、庭から道場のほうへまわろうとしたら、途中の井戸端でよく知る顔と出くわした。
「わー! 弥彦だ! 久しぶりー!」
「げっ操、来てるって本当だったのかよ」
「ちょっと、『げっ』って何よ失礼ねー!」
稽古が済んだばかりなのだろう、ばしゃばしゃと豪快に顔を洗っていた弥彦は、濡れた顔のまま操の方を向いて憎まれ口を叩く。
「今頃起きたのかよ、もう昼過ぎだぜ?」
「しょーがないじゃん、明け方まで歩き続けてくたくただったんだからさ」
「あー、でもほんと久しぶりだな。剣心と薫の祝言以来か?」
弥彦は首にかけていた手ぬぐいで顔を拭うと、屈めていた腰を伸ばして操に向き直った。
「そうだよー、あんたもたまには京都まで遊びに来な・・・・・・さ・・・・・・」
来なさいよ、と続けようとした操は絶句する。
昨年会ったときは、せいぜい操の肩くらいまでしかなかった、弥彦の身長。
それが、目線が操と殆ど変わらない高さになっている。
「無茶言うなよ、ほいほい行き来できる距離じゃねーだろ・・・・・・って、何固まってんだ?」
「弥彦、あんた・・・・・・背・・・・・・」
「おっ? そーだろ、結構伸びただろ。見てろよ、そのうちお前を追い抜いてやるからなっ」
弥彦は明らかに驚いている操に向かって、得意気に胸を張ってみせた。この一年程で弥彦は身長がぐんぐん伸びている。しかしながら、毎日顔をつきあ
わせている面々にしてみればその変化も見慣れてしまったものなので、これほど新鮮な反応をされることはない。だから弥彦は操の驚きっぷりに、まんざ
らでもない気分になったのだが―――それは一瞬のことだった。
「・・・・・・い」
「ん?」
「いやー! 気持ち悪いー!!」
「はぁ?!」
「だって弥彦のくせにチビじゃなくなってるー! 変! 絶対に変ー!」
「アホかー! 成長期の男子の背が伸びるのは当たり前のことだろうがー!」
「いやー! 気持ち悪いー! 縮めー!」
「不吉なこと言うなー!」
「おろ、操殿、起きたでござるか」
ぎゃあぎゃあ喚きあっていると、そこにのんびりした声が重なった。操がそちらを見ると、剣心と、そして道着姿の少年たちが十名ほど。
そうか、そういえば門下生が増えたんだったっけ―――道理で賑やかなはずだと操は納得する。少年たちから口々にこんにちはーと挨拶をされ、操は神
谷道場が以前より活気づいているのを目の当たりにして、なんだか嬉しくなった、が。
「ではみんな、気をつけて帰るでござるよ」
「はい! 剣心先生、さようならー!」
操は、再び言葉を失う。
今、あの子たちは何と挨拶をした?
「・・・・・・緋村、今、先生って呼ばれてなかった?」
子供たちの背中が見えなくなってから、操はおそるおそる尋ねた。しかし、答えた剣心の声はあっけらかんとしたものだった。
「ん? ああ、ここ最近は拙者が薫殿の代理で稽古をつけているでござるから」
「・・・・・・あんたが?!」
「と言っても、拙者は活心流の型は出来ぬゆえ、基礎の基礎しか教えられないでござるが」
「まー今のところ支障はないよなー。門下生はあのとおり殆どが子供だしさ。薫もしょっちゅう顔出して檄とばしてるし」
「ああ、あれは拙者のほうが身が引き締まる思いでござるよ。人に教えるというのは難しいものでござるな」
「って、基礎の基礎でこれなんだからなぁ」
「先生と呼ばなくてもよいと言っているのだが、子供たちにしてみればそのほうが呼びやすいようで・・・・・・どうも柄ではないが、仕方ないでござるなぁ」
「薫だって、あいつらから『薫先生』って呼ばれてるからな。クセみたいなもんだから、そこは諦めろよ」
剣心と弥彦は呑気に笑っていたが、操は、何か言いたげに口を開きかけ―――また閉じて、俯いた。
確かに、身重の薫があの大きなお腹で稽古をつけるというのは、難しい話だろう。剣心は流派は違うものの、剣術の基礎を指導するくらいなら問題はない
のだろうし。以前からちょくちょく弥彦に稽古をつけていたとも聞いているし、薫もしっかり監督しているようだし。
でも―――
「そうだ、操殿、こっちに着いてから何も食べていないでござろう。腹が減っているのでは―――」
「牛鍋」
「おろ?」
「疲れちゃったから、思いっきり精のつくものが食べたい。弥彦、赤べこ連れてって!」
「へ? 今からかぁ?」
「いーじゃん! 今の時間なら混んでなさそうだし、燕ちゃんにも会いたいし」
「ったく、しょーがねーなー。どうせお前言い出したら聞かないんだろ?」
「やった、ありがとっ! じゃああたし着替えてくるから!」
操は言うなり縁側に飛び上がり、着替えをするため奥へと駆け込んだ。
「相変わらず慌ただしい奴だなぁ」
「ああ、操殿らしいでござるな。では弥彦、操殿のことは任せたでござるよ」
弥彦は「了解」と言って剣心に手ぬぐいを放った。
「いってきまーす!」
自前の丈の短い着物に着替えた操は、弥彦とふたり赤べこにむかって出発した。
門のところまで見送った剣心が庭づたいに縁側に戻ると、ひょいと薫が顔を出す。
「あらら、操ちゃんほんとに出かけちゃったんだ。はい剣心、お疲れ様」
縁側に腰掛けた剣心に、薫は冷たい麦湯を差し出す。
「ああ、かたじけない。まったく、元気がありあまっているでござるな、操殿は」
「操ちゃんらしいといえば、らしいけどねー」
答える薫の声が遠ざかる。台所の方に向かったようだ。剣心は冷えた麦湯を喉に流しこんで、縁側から空を振り仰いだ。目に染み入るような濃い青。風が
庭の葉末をさやさやと涼やかに鳴らし、剣心の短くなった髪を揺らした。
「で、家出の理由について、何か言ってた?」
縁側に戻ってきた薫は、青えんどう豆が山盛りになった籠を抱えていた。お腹を庇いながら、よいしょと腰を下ろす。
「まだ何も。問いただす間もなく飛び出して行ったでござるよ」
「そっか。まぁ、話したくなったときに自分から話してくれるのが一番いいんだけれど・・・・・・やっぱり心配よね」
剣心は麦湯を飲み干すと、薫の隣に座った。
「莢から出すのでござるか?」
「うん、前川道場の門下生の子からのお裾分け。明るいところでやろうと思って」
「手伝うでござるよ」
「あら、大丈夫よ。剣心稽古終わったばかりじゃない」
「ふたりでやったほうが早いでござろう?」
確かに、結構な量だったので、薫は「ありがとう、じゃあお願いしちゃう」と剣心の前に笊を置いた。
「もう、お豆の季節も終わるから、今年最後の豆ご飯にしようと思って」
「全部剥いていいんでござるか?」
「うん、操ちゃんもいるし、弥彦も今日はうちに食べにくるよう言っておいたから。沢山炊いちゃいましょうね」
賑やかな夕飯になるわねー、と薫は笑った。しかし、先程の操と弥彦の言い合いを思い出した剣心は、賑やかすぎなければよいがと苦笑した。
豆を莢から出すたびに、新鮮な青い香りが立つ。視線を手元に落とし、作業を続けながら、薫は剣心に尋ねた。
「操ちゃんって、家出の常習犯だったの?」
「ああ、初めて会ったとき―――京都に向かう途中でござったな。あのとき、まさに家出の真っ最中でござった」
蒼紫たち御庭番衆の行方を追っていたころの操は、たびたび葵屋を出奔しては連れ戻されるのを繰り返していたという。その後事態は二転三転し、操が
捜していた蒼紫は今、葵屋にその身を置いている。
「あの時も、操殿は追い剥ぎの真似事をしていて・・・・・・まったく、二年経ってもやることに変わりがないのでござるからなぁ」
今回の財布の始末はどうしたものかと首をひねる剣心の横で、薫は何かを考えているように視線を宙にさまよわせていたが、やがて、大きな瞳をくるりと
剣心のほうへ向けた。
「操ちゃんと初めて会ったのが二年前で、わたしたちは、そのちょっと前よね」
「ああ、そうでござったな」
「ねぇ剣心」
「んー?」
「わたしたち、もう夫婦になってからのほうが、長いんだわ」
剣心は、莢を剥く手をぴたりと止めた。
ゆっくりと瞬きをしてから、頭の中で月日の数をかぞえてみる。
出会いは、明治十一年の冬の終わり。
ちょうど一年後に祝言を挙げて。
それから更に、一年半が過ぎようとしていて―――
「・・・・・・あ」
「ね?」
「本当だ、もうそんなになるんでござるなぁ」
新しい発見をしたかのように驚く剣心を見て、薫は楽しげにうんうんと頷く。
「なんだか・・・・・・不思議な感じでござるな」
「そうね、わたしもよ」
すぐ隣で、にこにこと微笑む薫。
剣心は、その笑顔を見つめているうちに、不意に苦しいくらいの愛しさがこみあげてくるのを感じた。
今は、そうしているのが当然というふうに、夫婦として、一緒に暮らしている薫。
しかし、その当たり前の日常に辿り着くまでに、自分は何度も彼女を諦めた。危険な目に遭わせたくなくて、別れを決意したこともあった。
けれど様々な出来事を経て、今、こうして薫は此処にいる。新しい命を、その身に宿して。
「・・・・・・剣心?」
急に、身体を傾けて。ことり、と肩に頭を預けてきた剣心に、薫は手にとろうとした青えんどうを籠に戻す。
夏の陽の熱を孕んで、暖かい剣心の髪が頬に触れる。
薫は自身も首をかたむけ、剣心に寄り添って、瞳を閉じた。
「どうか、無事に―――丈夫な子を、産むでござるよ」
「・・・・・・うん」
小さな顎に指を添えて、慈しむように、口づける。
今ここにいてくれることに、感謝の気持ちをこめて。
これから先の未来もずっと、決して彼女を離さないことを誓うように。
唇をはなすと、初めてそうされた時と変わらぬ初々しさで、薫ははにかむように笑った。
つられて剣心も、妙に気恥ずかしくなって―――照れ隠しのように、ふたりは同時に豆の盛られた籠に手を伸ばした。
3 「朝顔市にて」 へ 続く。