わき目もふらず、あなたの背中を追いかけている。
        追いかけて、追いかけて追いかけて、走り続けるのは嫌いじゃない。





        けれど―――










      家出娘の夏休み




     1 早朝の客










        梅雨が明け、一日ごとに暑さが増してくる七月。夏至は過ぎたといえども、まだ日の出は早い。
        早朝、空が白んできた頃、剣心は目蓋をぴくりと震わせた。



        空気が、揺らいだような気がした。
        誰か、来たのだろうか―――しかし、こんな時間に?

        少しだけ頭を起こして、耳を澄ます。何も、聞こえない。
        気のせいだったのだろうか。かすかに聞こえるのは隣の布団で眠る薫の寝息だけだ。


        ぐっと身体を近づけて、そっと、寝顔をのぞきこむ。
        最近、もともと白かった彼女の肌が、更に透き通るような質感になってきたような気がする。
        単なる自分の思い込みか錯覚だろうか、それともこういう時期の女性はそうなるものなのだろうか。
        そんな事を思いながら顔を眺めていると、その視線を感じとったかのように、薫が小さく身じろぎをした。


        「けんしん・・・・・・?」
        「おはよう」
        「・・・・・・もう朝?」
        身体を起こそうとする薫の肩を支えながら、剣心は首を横に振る。
        「まだ、寝ていて大丈夫でござるよ」
        「う、んー・・・・・・」

        長い睫毛に縁取られた目蓋が、開きかけた瞳を再び隠す。浮かせた頭をもう一度枕に落ち着けて、薫は細く息をついた。
        剣心は、指をのばして薫の顔にかかる髪を後ろに流し、緩やかな弧を描く頬に唇を寄せる。

        「んっ・・・・・・」
        小さく肩が震え、薫の目が細く開く。
        「寝てて・・・・・・いいんじゃなかったの?」
        「ちょっとだけ」
        「んー・・・・・・」


        額に唇に口づけを繰り返しながら、剣心は薫のお腹をうっかり押しつぶしてしまわないよう気をつける。
        まだ半分眠りの淵に沈んでいた薫もようやく頭がはっきりしてきたのか、ゆるゆると腕をのばして彼の首に絡めた。

        「・・・・・・ねぇ」
        「んー?」
        「今日は、随分早起きなのね」
        「ああ、誰か訪ねて来たような気がしたのだが・・・・・・気のせいだったようでござる」
        「気のせい・・・・・・」
        「そう」
        「じゃ、これも?」
        「え?」


        剣心は、薫から唇を離して身を起こす。
        どん、どん、と。玄関のほうから戸を叩く音。
        最初は聞き逃してしまうくらい控えめな小さな音だったが、返事がない所為か、だんだんとその音は大きくなってゆく。


        「気のせい・・・・・・では、ないようでござるな」
        ふたりは近い距離で顔を見合わせ、同じ方向に首を傾げた。












        どん、どんと戸を叩く。
        結構なボリュームの筈だが、中からの返事はまだ無い。



        まだ寝ているのかな。こんな時間だしなぁ。
        仕方がない、ご近所迷惑になるかもしれないけれど、こうなったら。

        すぅ、と胸を反らして息を吸う。
        腹の底まで深く空気が行き渡ったところで、それを、声とともに吐き出して―――


        「たのも・・・・・・」
        「こらこらこらっ!」

        最後まで叫ぶ前に、がらりと勢いよく戸が開き、それと同時に突き出された手に口を塞がれた。


        「今何時だと思っているでござる! 近所のひとたちが驚くでござろう!」
        「しょーがないじゃん、だってなかなか返事がなかったから」
        ぺし、と口に貼りついた剣心の手を自分のそれで叩き落して、早朝の闖入者は悪びれない様子で答えた。
        「まったく・・・・・・道場破りかと思ったでござるよ」
        「なによー、久しぶりに会ったってゆーのにご挨拶だなぁ。こんな可愛い道場破りがいるわけないじゃん」



        そう言って、早朝の客は―――操は、肩に掛けていた荷物をふたつ、どさりと上がり框に下ろし、にかっと笑った。



        「一年ぶりくらいだよねっ、元気だった? 緋村」
        「いや、元気でござるが操殿、なぜいきなり東京に? 蒼紫も一緒なんでござるか?」
        「あーっ!?」
        質問を遮るように、操は素っ頓狂な声を上げる。剣心は慌てて「しーっ」と口の前に人差し指を立てたが、操はお構いなしに剣心の顔をびしっと指差した。

        「緋村・・・・・・髪がない」
        「おろ? ああ、これでござるか」
        剣心は肩の上までの長さになった髪に触れた。この髪型にしたのは、つい最近のことだ。
        「切ったんでござるよ、ちょっと心機一転と思ってな」
        操は、何か奇妙な生き物を観察するような顔で剣心をまじまじと見て、そして眉根に深い皺を寄せて「なんか、変」と評した。


        「剣心ー? なぁに、お客様なの?」
        「あー、薫さんだー!」
        軽い足音をたてて玄関まで出てきた薫に、操の顔がぱっと明るくなる。
        「えっ?! 操ちゃん?!」
        「わぁぁぁぁっ! 凄いー! 赤ちゃんできたってほんとだったんだ! おめでとー!」
        操は薫のすっかり大きくなったお腹を見て、驚きの声をあげた。しかし、驚いたのは薫も同じである。

        「あ、ありがとう・・・・・・え、でもどうして操ちゃん東京にいるの? ひとりなの? 蒼紫さんは一緒じゃないの?」
        「うん、あたしひとりで来たから蒼紫様はいないよー。ねぇねぇもうすぐ産まれるんだよね、いつ頃なの?」
        「来月、だけど・・・・・・」
        「八月かぁ、じゃあそのくらいまでこっちにいようかなぁ。薫さんも初めてのお産なんだから、きっと大変なんでしょ? あたしも色々手伝うから―――」
        「・・・・・・操ちゃん」


        がし、と。
        薫は操の肩を両手で掴んだ。


        「ひとりで来たって事は、蒼紫さんや翁さんは、知っているの?」


        じっと目を見て、ゆっくり一音一音に力をこめて訊く。
        操は、少しの間「えーと、それはー」と意味を成さない言葉をぼそぼそ繰り返していたが、やがて開き直ったように明るい笑顔で、元気いっぱいに答えた。




        「家出、してきちゃった!」




        薫も、「変」と言われたことにぐっさり傷つき壁に向かって「の」の字を書いていた剣心も、かくんと口を開けて操の顔を見る。
        ふたりとも、あっけにとられてしばらくは声を発することができなかった。








        ★








        「お願いっ! ねっ? このとーりっ!」



        ぱん、と勢いよく両手を合わせ、思い切り頭を下げる。
        居間に通された操は畳の上に座るなり速攻で、剣心と薫に「しばらくここに置いて欲しい」旨を嘆願した。

        「ちょ、あの、操ちゃん、頭あげて?」
        「置いてくれるのっ?!」
        「その姿勢では話を進めづらいんでござるよ・・・・・・で、蒼紫や翁殿は知っているんでござるか? 操殿が東京に来ているということを」
        「そんなの、知るわけないよ。家出だもん当然じゃん」
        あっけらかんと言われて、剣心は脱力する。

        「大丈夫だよー。あたし蒼紫様を探していた頃はしょっちゅう家出してたんだから、爺やはもう慣れっこだってば。もっともその度連れ戻されてたけど」
        「いくら常習犯だったとはいえ、流石に東京まで家出してきたことはないでござろう・・・・・・」
        微塵の罪悪感も持たない様子の操に、剣心は呆れたように宙を仰ぐ。その後の台詞は薫が引き取った。
        「じゃあ、操ちゃん。今回はどうして家出なんかしたわけ? なにか理由があっての事なんでしょ?」


        ほんの僅かにだが、操の笑顔が固まる。しかし、それは一瞬のことだった。


        「まー、あたしも難しい年頃だからね。それなりに色々事情があるんだから、家出のひとつもして当然でしょう」
        「うちの薫殿も操殿と同じ年頃だが、家出などしたことはないでござるよ」
        「なにそれ揚げ足とったつもり? とにかく、あんまり詮索しないでよっ、悩める乙女に根掘り葉掘り訊くなんて無粋だと思わない?」
        「どこに乙女がいるのでござるか」
        「・・・・・・あんたって意外と失礼なこと平気で言うよね。もー、あたしの事情はどーでもいいから! とにかく、ほらっ!」

        はぐらかすことは難しいと思ったのか、操ははねつけるようにそう叫ぶなり、傍らに置いていた荷物のうち、ひとつの袋をひっくり返した。
        中からどさどさと落ちてきたのは―――財布の数々。

        「ねっ、タダでとは言わないから! 宿泊費はちゃんと払うから何も訊かずににしばらく置いて!」
        「操殿・・・・・・まさかまた追い剥ぎの真似を?!」
        「大丈夫! 悪人からしか盗ってないから良心の呵責の必要なし!」
        「だからー! そういう問題ではなく・・・・・・!」
        「お願いっ!」


        操は、もう一度手を合わせて、頭を下げる。
        このままだと土下座でもしかねない勢いに、剣心と薫は顔を見合わせた。

        操の言っていることは滅茶苦茶だったが―――ただ、彼女が真剣であることは、ちゃんとふたりに伝わっていた。



        僅かな沈黙の後、剣心が立ち上がる。
        「薫殿、昨日の風呂の湯、そのままでござったよな」
        「あ、うん」
        「追い焚きしてくるでござる。操殿、その財布は受け取れないから、手をつけずにちゃんと元に戻すでござるよ」
        「緋村、それじゃあ・・・・・・!」
        操ががばりと頭を上げる。きらきら輝く目を向けられて、剣心はため息をつきながら首を横に振った。


        「泥と汗まみれでござろう、とりあえず風呂に入るでござるよ。そんな汚いなりでいられたら、薫殿の身体にもお腹の子にも障るからな」
        「ちょっと! 言うに事欠いて女の子に汚いって!」


        操がひっつかんで投げつけた財布を、剣心はひょいと危なげなく避けて、部屋を出て行った。













        2 「『今』の道場」 へ 続く。