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        弥彦に言われたとおり、燕は道場の片隅にちょこんと座って稽古が終わるのを待つことにした。
        先程のやりとりを目にしていた年少の門下生たちが「喧嘩したのー?」「夫婦喧嘩だー!」などと薫の袴にまとわりついて囃し立てたが、「はいはい、私語
        はつつしむ!」と薫は彼らをたしなめて稽古に戻らせる。
        燕はそんな薫と、道場の戸の向こうで庭掃除をしている剣心の姿を順に見やって、そして不安げに自分の膝を抱き寄せた。

        弥彦は「あいつらの事を心配するなんて物好きだよなぁ」と呆れるように言いながら門下生たちの輪に戻っていったが、燕としては心配するのは当然のこ
        とだった。
        何故なら―――彼らは燕の「憧れ」なのだから。



        以前に比べてましになったとはいえ、燕はどちらかというと気が弱く、弥彦から「元気が足りない」と言われたこともあるように大人しい性格である。だから
        単純に、強くて明るいひとには憧れる。だから―――優しくて、しっかりと自分を持っている剣心と薫は、燕にとっては尊敬できる年上の友人だ。
        それに彼らは、「いつかわたしも好きな人とこんなふうになりたい」と思わせる、憧れの夫婦なのだ。

        燕が彼らに初めて出会った頃、剣心と薫はまだ「いい仲」未満だったそうだけれど、それでもふたりの間に何かあたたかい、互いを慈しむような空気が流
        れているのは感じとれた。その後、ふたりは一度別れて。ようやく再会できたと思ったら今度は薫が殺されて―――いや、それは手の込んだ狂言だった
        のだが、あの時の「壊れてしまった」剣心の姿は、未だに脳裏にしっかりと焼きついている。燕にとって、そのくらい大きな衝撃だった。


        優しく穏やかながらも強靭な精神を持った彼が、まるで抜け殻のようになってしまって。その、あまりにも残酷な変わり様が痛々しくて、悲しくて。
        それと同時に、こんなにも―――心が壊れてしまうくらいに、ただひとりの女性を愛することができるのか、と。その想いの深さに、衝撃を受けた。

        薫が無事に彼のもとに戻ってきて、ふたりが祝言を挙げたのは年が明けてからのことだった。燕は、彼らが辛い思いをしたり苦しんだりしているところを何
        度も見てきた。だから、ふたりが皆からの祝福のなか結ばれたことがとてもとても嬉しかった。



        あんなに強い気持ちで、薫さんを想っている剣心さん。
        それと同じくらいに剣心さんを好きで、彼の何もかもを優しく受け止めている薫さん。

        辛いこと苦しいことを一緒に乗り越えてきたからこそ、あのふたりは前よりもはるかに強い絆で結ばれた。
        わたしも、いつか誰かのお嫁さんになれる日が来たとしたら、そうしたら剣心さんと薫さんみたいに―――



        と、燕はそう思いながらじいっと稽古中の弥彦の姿を目で追っている自分に気づいて、ひとり赤くなって慌てて頬に手をあてた。
        いや、そうではなくて、だから憧れのあのふたりに、喧嘩などしてほしくはないのだ。あのふたりがいがみ合っている姿なんて、見たくないのだ。

        「弥彦くん、ちゃんと仲裁してくれるのかな・・・・・・」
        稽古が終わるまで待っていろと言った割には、先程の弥彦の声にはいまいち熱意が感じられなかったが、燕としては彼を信用するしかなかった。









        ★









        「薫せんせい、さようならー!」
        「燕さんも、さようならー!」

        その日の稽古はつつがなく終了し、燕は薫と一緒に庭先で門下生たちを見送った。
        「燕ちゃんが見学なんて珍しいわねー。どう?弥彦、前よりも様になってきたでしょ」
        燕は剣術に関してはまったくの素人だが、今日の稽古を見て確かにそう思ったので―――正確に言うと、「弥彦くんかっこいいな」と思ったので、「は
        い!」と素直に頷いた。元気な返事に薫は笑い、家の中に戻ろうとした。と、その時。
        湯呑みを持った剣心が、ふたりの前にひょいと顔を出した。


        「おろ、もう皆帰ったのでござるか・・・・・・はい、お疲れ様」
        そう言って、ごく自然な口調と仕草で水の入った湯呑みを差し出す。
        「ありがとう。今日は天気がいいから、急いで帰って午後からたっぷり遊びたいんじゃないのかしら」
        薫はやはり自然にそう言って、するりと湯呑みを受け取り水を口にした。

        「おろ?どうしたでござるか、燕殿?」
        目をまんまるにして、ついでに口も半分開けて、明らかに「驚きに言葉を失っている」有様の燕に、剣心は気遣わしげに声をかける。
        いや、どうしたのかと言われても、むしろそれはこっちの台詞で―――



        「あの・・・・・・喧嘩・・・・・・してたんじゃ、なかったんですか・・・・・・?」



        燕がようやくそれだけ言うと、剣心と薫はきょとんとして―――それから全く同時に我に返ったように「いや!そうじゃなくて!」と声を揃えた。
        「喧嘩は、しているでござるよ?しかしこれはつい習慣でというか・・・・・・ほら、疲れているところに水を持ってゆくのは当然ではござらんか。だから、そうい
        う訳で思わず・・・・・・」
        「そ、そうよ!わたしもついいつもの癖で受け取っちゃっただけなの!それに、何かしてもらったらお礼を言うのは人として当然でしょう?だから・・・・・・」
        「そういう、習慣だとか当然だとかがどーでもよくなっちまう事態を、普通は喧嘩って呼ぶんじゃねーのか?」

        剣心と薫の必死の弁解に、弥彦の呆れたような声が重なる。井戸端で洗った顔を手ぬぐいで拭きながら、弥彦は燕に「な?言ったとおりだろ?」と言い、
        燕はこくこくと繰り返し頷いた。


        「こいつらふたりに喧嘩なんか無理なんだって。だから、心配するだけ無駄なんだよ」
        噛んで含めるように、弥彦は燕に言い聞かせる。剣心と薫は顔を見合わせたが、先程までの剣呑な空気は既に消えてしまっていた。
        そのかわりとでも言うように、ふたりはばつが悪そうな顔になって「とりあえず」というような感じで、互いにまた目を逸らした。








        ★









        弥彦が「稽古が終わるまで待っていろ」と言ったのは、「その頃には自然に仲直りしているから待っていろ」という意味だった。
        あれこれ説明するより、ふたりの様子を見せるのが一番手っ取り早いと思ったのだろう。そして実際にすっかりいつもどおりの雰囲気に戻ってしまった剣心
        と薫を目にして、燕はひとまず安心することができた。

        「どうしても駄目なのよねぇ・・・・・・気がついたら、あんな感じになっちゃうの」
        燕は閉じた襖に寄りかかり、薫の声を背中で聞きながら、彼女が普段着に着替えるのを待っていた。


        ふたり暮らしを始めてから、そして夫婦になってから、剣心と薫は何回か喧嘩らしきものをした事はあったらしい。しかし、それはいつも長続きしなかった。
        喧嘩を始めても、すぐにどちらかが角突きあわせている状態に我慢できなくなり「ごめん」と謝ってしまう。すると大抵相手も同様の気持ちでいるから、「こっ
        ちこそごめん」で喧嘩はあっさり終息する。
        もしくは、今回のようにどちらかが折れるわけでもなく、うっかりいつもの調子で会話するなり普段どおり振る舞うなりして―――
        「『あ、そういえば喧嘩してたんだっけ』って一拍遅れて思い出すんだけどね、そうなると、なんかもう馬鹿馬鹿しくなっちゃって・・・・・・」
        そのままなし崩しに仲直りをしてしまう、というのが、今回のようなパターンらしい。

        「燕ちゃんには、恥ずかしいところ見られちゃったなぁ」
        襖越しに聞こえた薫の情けない調子の声に、燕は向こうには見えていないことを忘れてぶんぶんと勢いよく首を横に振る。
        「そんなことないですよっ!わたし、剣心さんと薫さんが喧嘩しているところなんて見たくないですもんっ!だから、ちゃんと仲直りできたところを見られて、
        安心したっていうか・・・・・・」
        喧嘩するほど仲がよい、と言われるように、剣心と薫だって夫婦喧嘩をすることはある。しかし、それが長く続けられないというのがなんともこのふたりらし
        くて―――燕は無性に嬉しくなって頬を緩めた。


        「それにしても、一体なんの勝負が原因で、喧嘩になったんですか?」


        既に彼らが仲直りをしてしまったことに安心して、燕は気安く尋ねることができた。背後で薫が「勝負?」と聞き返してくる。
        「さっき剣心さんが言ってましたよ、薫さんは負けず嫌いだから、って。だからわたし、何かの勝負でもしたのかなぁ・・・・・・って」
        「ああ・・・・・・そうなのよ。でも、負けず嫌いなのは剣心のほうよ。どうしても自分の方が勝ってるって言って、譲ろうとしないんだもの」
        大人気ないったらありゃしないわ、とため息をつく気配に、燕はつい口許をほころばせる。剣心がそんな「大人気ない」姿を見せる相手は、世界に薫ただひ
        とりなのだろうから。

        「じゃあ、薫さんもその勝負に負けたくなくて、それで怒って喧嘩になっちゃったんですね」
        燕は先を促しつつも、肝心の「喧嘩の原因」が判らずに心の中で首を傾げた。「勝負」とは、はたして何を競い合ったのだろうか。
        「そうね、確かに納得いかなくて怒っちゃったわけだけど・・・・・・でも・・・・・・」


        ふいに、薫の言葉が途切れた。
        中途半端なところで黙りこんでしまったのを不審に思って、燕は「薫さん?」と声をかけながら遠慮がちに襖に手をかけた。ほんの少し隙間を作って覗くと、
        普段着をきちんと身につけた薫の姿が見えた。あとは帯揚げを結わえるだけであらかた着替えは終わっていたので、燕はそのまま中に入る。


        「違うわ・・・・・・わたし、負けるのが嫌だったわけじゃないのよ」


        喋っているうちに、自分の心の中で何かが整理できたのだろうか。薫は結んだ帯揚げの端を帯の内側に畳み込みながら、独り言のようにつぶやく。
        「剣心が、わたしの方が負けているって断言する事が、嫌だったの・・・・・・ううん、悲しかったのよ」
        話の要となる部分はまだ見えてこない。燕はとうとう痺れを切らして、もう一度尋ねた。
        「いったい、何の勝負をしていたんですか?」





        薫は燕の顔を見ると、ゆっくりと、形の良い唇を動かした。















        3 へ続く。