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        「弥彦くんっ!」



        廊下の向こうから近づいてきた足音と妙に弾んだ声音に、弥彦はびくりと肩をすくませる。おそるおそる振り向くと、頬を紅潮させた燕がそこにいた。
        普段、弥彦が彼女に対してそんな反応をすることは滅多にないのだが―――今日に限っては嫌な予感がした。
        「あのね、弥彦くんの言うとおりだった!剣心さんと薫さん、喧嘩なんかできっこないんだね。喧嘩しても、すぐ仲直りしちゃうから心配しなくていいんだね。
        それにわたし、今薫さんから喧嘩の理由を聞いたんだけど、その理由もね・・・・・・」
        と、燕がそこまで口にしたところで、弥彦は彼女の目の前にばっと手のひらを突き出した。明らかに「聞きたくない」と主張するジェスチャーである。

        「わかった、お前が安心したってことも今喜んでいるってことも、よーくわかった。だから喧嘩の理由は言わなくていいぞ俺は別に聞かなくても構わないから
        それはお前の胸にしまって―――」
        「あのね!剣心さんと薫さん、どっちの『好き』が勝っているかを競って、それで喧嘩になったんだって!」



        残念ながら、今の燕の耳には弥彦の言葉はまったく届いていなかった。







        ★







        それは今朝のこと。ふとした会話の折に、薫は剣心に「剣術もお料理とかの家事の腕も、わたしは何一つ剣心には勝てるものがないのよねぇ」とこぼした
        らしい。剣心はすぐさま「そんなことはないでござるよ」と反論しようとしたが、それは薫の次の台詞に遮られた。

        「でも、これはわたしの方が勝っているわ」
        「え?」
        「わたしが、剣心のことを好きだっていう気持ちよ」
        言っている意味がわからず、剣心はきょとんとする。そんな彼の目の前で、薫は得意気に人差し指をぴんと立ててみせて、続けた。


        「剣心がわたしのことを好きな気持ちよりも、わたしが剣心を好きな気持ちの方が大きいわ。『好き』の大きさに関しては、間違いなくわたしの勝ちよ」


        自信たっぷりに薫が宣言すると、剣心は驚いたように目を丸くして―――
        そして、猛然と反論した。


        「違うでござるよ、それは・・・・・・それこそ、拙者の方が勝っているでござる。拙者が薫殿を好きだという気持ちのほうが、ずっとずっと大きいでござるよ!」







        ★







        「・・・・・・で、お互いに自分のほうが大きいって言い合いになって、ふたりとも譲らないうちに喧嘩になっちゃったんだって」
        「聞きたくなかったー!!!」


        燕は喧嘩の「真相」にいたく感銘を受けたらしく、きらきらした瞳で弥彦に語って聞かせたが、弥彦は思わず頭を抱えてその場にしゃがみこんだ。
        「何だその甘ったるい理由は!どうやったらそんなふざけた事がきっかけで喧嘩が出来るんだよあいつら馬鹿か?!馬鹿なのか?!」
        自分が男として尊敬する相手と、剣を教えてくれた師匠。その彼らのあまりに恥ずかしい一面を知らされた弥彦は、繰り返し「馬鹿だー馬鹿すぎるー」と唸
        る。
        「え、全然馬鹿じゃないよ?こんなことを競うなんて、とっても仲のいい証拠でしょ?」
        燕は邪気のない顔で首をかしげたが、弥彦は「それは認めるけど、嫌すぎる・・・・・・」と苦悶する。何が嫌って、彼らがその喧嘩の理由を馬鹿馬鹿しいとか
        恥ずかしいとかは微塵も思っておらず、本気で競い合っているところが嫌すぎる。つまるところ、またもや思い切りあてられたというか、本人たちの自覚は
        ないまま強烈なのろけを食らわされたようなものだ。それに―――


        「わたしは、素敵だと思うな。どんな理由であろうと喧嘩するなんて駄目だって思っていたけれど、あんな理由の夫婦喧嘩なら・・・・・・わたしも、憧れるな」
        燕はうっとりとした瞳でそう言うと、「じゃあ、わたしそろそろお店に行くね」と言って踵を返した。

        「弥彦くん、稽古終わるまで待ってろって言ってくれて、ありがとうね」
        帰り際に振り向いた燕は、そう言ってはにかむように笑った。



        「・・・・・・俺は絶対にしねーからな、そんな喧嘩」




        玄関の引き戸が閉まる音がして、燕が道場を出たのを確認してから、弥彦はひとりつぶやいた。







        ★








        栗の実をひとつ、つまんでまな板の上に置いてみる。
        指先で、小さく弾く。
        ころころと転がり、まな板から台の上に落ちたところで、栗は転がるのをやめる。

        もう一個、同じようにしてみる。
        更にもう一個、と弾いたところで、力を入れすぎてしまい栗の実は台から落ちて台所の床に転がった。


        薫が拾おうとする前に、いつの間にかそこにいた剣心が、身を屈めて拾い上げる。
        剣心は薫の横に立つと、そのまま栗をまな板の上に戻した。



        「ずいぶん沢山、貰ったでござるな」
        まだばつが悪いのか、すぐ隣にいながらも剣心は薫の顔を見ずにそう言った。しかし、ばつが悪いのは薫も同様である。
        「栗ご飯にしたら、きっと美味しいわよ。皮を剥くのが手間かもしれないけれど」
        「なに、ふたりでやれば早いでござるよ」
        そこでようやくふたりは顔を見合わせて、照れくさげに笑みを交わした。

        「ねぇ」
        「うん?」
        「剣心って、負けず嫌いよね」
        おもむろに指摘されて、剣心は「そうでござるなぁ」と苦笑する。基本的に、彼は周囲からは穏やかで柔和な人柄として認知されている。しかし、余程の負
        けず嫌いでないと、あの鬼神と呼ばれる剣の腕を身につけることはできなかっただろう。
        「でも、負けず嫌いは薫殿も一緒でござろう?」
        「うん、それは認めるわ」
        そこでもう一度、ふたりはくすりと笑みをこぼす。


        「ねぇ」
        「うん?」
        「わたしね、剣心に『自分のほうが、好きだという気持ちが大きい』って断言されたこと・・・・・・嬉しかったの」
        それは当然のことだ。大好きな相手から、こんなに力をこめて「好きだ」と宣言されて、嬉しくないわけがない。剣心は薫の言葉に、「拙者もでござるよ」と
        相槌を打つ。

        「でも・・・・・・それと一緒にね、どういう訳か悲しくなっちゃったの」
        「・・・・・・うん」
        「悲しくて、むきになって、それであんな喧嘩になっちゃったんだけど・・・・・・燕ちゃんと話しているうちに、どうして悲しかったのか、わかったの」
        薫は再びまな板の上で栗をはじく。転がった栗を、剣心が指で受け止める。



        「剣心が、わたしの『好き』の方が負けているって思ったってことは・・・・・・剣心は、わたしの『好き』を、そんなちっぽけなものとしか思っていないのかな
        ぁ・・・・・・って」

        こんなにこんなに好きなのに、この気持ちは届いていないのかしら、と。
        わたしの「好き」は、その程度のものと思われているのかしら―――と。



        「そう感じたから・・・・・・悲しくなっちゃったんだわ」
        剣心は、薫の手をとって栗の実を握らせた。そして、じっと彼女の目をのぞきこむ。
        「拙者も、同じでござるよ。同じ理由で悲しくなって・・・・・・つい、腹を立ててしまった」

        大人気ないでござるなぁ、と剣心は苦笑したが、薫はむしろ嬉しそうに目を細める。
        薫は籠の中からひとつ栗の実を選ぶと、剣心の目の前にかざしてみせる。彼から握らされたものと、そっくり同じくらいの粒の大きさだった。



        「じゃあ・・・・・・この勝負、引き分けってことでどうかしら?」



        互いが相手を想う気持ちを、「好き」の大きさを、目で見て比べることはできないけれど。
        それは何かをもって、証明するようなものでもないけれど―――



        「それが、正解でござるな」



        それでもきっと。いや、間違いなく。ふたりが抱くこの「好き」の大きさは、寸分たがわず同じだろう。
        負けず嫌いなふたりだが、この勝負に限っては、引き分けが最も幸せな結末だ。
        微笑んだ剣心が、そっと首を傾けて顔を近づける。薫も唇に、彼とよく似た笑みを乗せたまま、静かに目を閉じた。





        ころん、と。
        まな板の上に、栗の実がふたつ転がった。







        ★







        「剣心!薫ー!俺長屋に帰るからなー!」



        玄関で下駄を突っ掛けながら、弥彦は大声で叫んだ。
        少し間を置いて、ぱたぱたと台所のほうから慌てたような足音が聞こえてきて、ひょいと薫が顔を出す。
        「お疲れ様!弥彦、今日夕飯食べにきなさいよ。これから栗ご飯作るから」


        ・・・・・・と、いうことは完全に仲直りをしたということか。


        何をしていたのか、もしくはされていたのか。薫の頬は見事に真っ赤に染まって、目はしどけなく潤んでいる。
        「・・・・・・ああ、ありがとな。ごっそーさん」
        ご馳走になる前からのこの返答は、妙なものかもしれないが―――この場合は、これで正しいのだろう。





        何にせよ、栗ご飯は大好物である。
        恥ずかしい夫婦喧嘩にあてられた代償としては妥当だろう、と。弥彦はそう思った。
















        夫婦喧嘩と秋の空 了。







                                                                                      2015.11.13






        モドル。