たとえば剣だって料理をはじめとした家事全般の腕前だって、わたしより剣心の方が断然勝っている。
それは、紛れもない事実だと、薫はそう認めている。しかし―――
「でも、これはわたしの方が勝っているわ」
そう、薫が得意気に宣言すると、剣心は驚いたように目を丸くして―――そして、猛然と反論した。
「違うでござるよ、それは・・・・・・それこそ、拙者の方が勝っているでござるよ」
それが、争いの嚆矢となった。
夫婦喧嘩と秋の空
1
「おはようございまぁす・・・・・・」
訪う声がやや控えめになったのは、既に神谷道場では稽古が始まっていたからだ。
邪魔になってしまうかな、と燕は遠慮がちに挨拶をしたが、その声はちゃんと道場主に届いていたようだ。
「あら、燕ちゃん?」
門下生たちの向こうから薫の声が聞こえ、次いで道着姿の本人がひょいと顔を出す。
「おはようー、これからお店?」
「あ、今日は午後からなんでゆっくりなんです。それで、赤べこに行く前にこれを届けようと思って・・・・・・」
「え、なぁに?」
下駄を突っ掛けて庭先に下りてきた薫に、燕は手ぬぐいを上にかけた籠を差し出した。受け取った薫は手ぬぐいを取り去ると、わぁ、と小さく声を漏らす。
籠いっぱいに詰まっていたのは、つやつやと輝く立派な栗の実だった。
「すごーい!こんなに沢山、どうしたの?」
「昨日、お友達や近所の小さい子達と、栗拾いをしたんです。そしたら、どれだけ拾えるか競争しようって、みんなで盛り上がっちゃって」
一心不乱に拾ううちに、それぞれの家庭だけでは食べきれないくらいの量が集まってしまった。そんなわけで、燕は「お裾分けに」と神谷道場にやって来
たわけだが―――
「うわぁ、ありがとう!栗ご飯にしたら美味しいだろうなぁ。でも、皮を剥くのが面倒かしら・・・・・・」
「剣心さんとふたりでやれば、あっというまに終わりますよ」
薫のつぶやきに、燕はごく自然に笑って返した。きっと薫は笑顔で頷くことだろうと思ったのだが、その予想とは大きく違った反応が返ってきた。
「あー・・・・・・そうね、剣心とね」
ふっ、と目を半眼にして。殊更に渋い顔で良人の名前を口にした薫に、燕はおやっと首を傾げる。
「今はちょっと・・・・・・一緒にそういう事をするのは難しいかしら」
ひとりごちるようにそう言ってから、薫はぱっと燕に笑顔を向ける。
「ほんとにありがとう。弥彦、稽古してるから、声かけていってあげてね」
押しいただくようにして、薫は栗の籠を胸に抱えると台所に向かった。燕がその背中を困惑しながら見送ると、そこに、入れ替わるようにして剣心がやって
きた。
「おろ、燕殿。おはようでござる」
ちらほら散り始めている落ち葉を掃除していたらしく、剣心の手には竹箒が握られていた。「これから店でござるか?」と細君と全く同じことを訊いてきた
剣心に、燕は「薫さん、どうかしたんですか?」と質問で返す。
「薫殿が、何か?」
「えっと、今栗のお裾分けを持ってきたんですけど・・・・・・なんだかちょっと、薫さんいつもと違う感じがしたので」
剣心は「栗でござるか、それはかたじけない」と礼を述べてから、やれやれというふうにため息をついた。
「燕殿にまで心配をかけるとは、困ったものでござるなぁ・・・・・・大丈夫、大したことではないでござるよ」
「え・・・・・・?」
「まったく・・・・・・薫殿は負けず嫌いでござるから」
それは燕に聞かせようとしたのではなく、つい思った事がこぼれてしまった、というような一言だった。眉根を寄せてのその呟きには、微かに怒ったような
響きが含まれていた。剣心はもう一度「ほんとに、大丈夫でござるよ」と笑顔を見せて言ったが、燕としては全然大丈夫とは思えなかった。
燕は剣心の目の前でくるりと踵を返すと、一直線に道場へと向かう。あとに残された剣心は、小さく肩をすくめた。
「弥彦くんっ!」
下駄を脱ぎ捨て道場に駆け込んだ燕は、弥彦の姿を見つけると門下生たちをかき分けるようにして彼のもとに進み、道着の腕に取りすがった。彼女らしか
らぬ妙な勢いのついた行動に、弥彦は咄嗟に声も出せずぎょっとする。
「ど・・・・・・どうしよう弥彦くん!」
「・・・・・・って、何がだよ・・・・・・?」
一拍の間を置いて、弥彦はようやくそれだけを言う。燕は他の門下生たちが興味津々という視線を向けてきている事にも気づかない様子で、弥彦に必死
な瞳を向けた。
「剣心さんと薫さん、喧嘩しちゃったみたいなの!」
燕の悲壮な訴えに、しかし弥彦や目をぱちくりさせると「なんだ、そんなことか」と肩から力を抜くように息を吐いた。
「大丈夫だよ。そんなん、どうせたいした喧嘩じゃねーんだから」
「ええっ?!で、でもっ・・・・・・」
と、その時。台所から戻ってきた薫と、開け放った道場の戸のあたりを掃除していた剣心の視線が、少し離れた距離でばちっと合った。
常のふたりならば、うふふと平和に微笑んで目と目で語り合うことだろうが、今日は、そうはならず。
視線がぶつかった瞬間、なんともひんやりした空気がふたりの間に流れ―――彼らはすぐに、ぷいっと顔をそむけるようにして目を逸らす。
「ほらー!充分たいした喧嘩でしょー!?」
燕はもはや泣きそうな声になって、弥彦の袖をむやみやたらに引っ張ってきた。思いのほか強い力にがくがくと身体を揺すられながら、弥彦は「わわわわ
わかったから少し落ち着け!」と、恐慌をきたす燕をなだめにかかる。
「お前、今日店は午後からだろ?だったら、稽古が終わるまで此処で待ってろよ」
言い聞かせるような口調に燕は力任せに揺さぶるのをやめて、不安げな瞳で弥彦を見つめる。
稽古が終わるまで、ということは稽古が終わってから―――
「弥彦くん、仲裁してくれるの・・・・・・?」
弥彦は引っぱられた袖を直しながら、肯定とも否定ともとれる曖昧な角度で首を動かした。
「って言うか、どうせあいつら喧嘩なんてできっこねーんだよ」
2 へ続く。