「―――あ、ごめんなさい!」
鼻先をかすめた、甘い香り。
廊下にて、出会い頭に剣心にぶつかりかけた薫は、彼の胸に衝突する寸前で慌てて急停止をした。
「・・・・・・いや、大丈夫でござるよ」
心臓がひとつ、どきりと跳ねたのを気取られないように、剣心はにっこり鷹揚に笑顔を返した。
つい先程、風呂から出たばかりなのだろう。
色白の頬はうっすら桃色に染まり、長い髪はつややかに濡れており、湯上りの香りがする身体にまとっているのは淡い色の寝間着一枚で―――
若い娘の、不意打ちのこの姿である。男だったら、動揺するのが当然であろう。
「あの、お部屋にお布団出しておいたから・・・・・・敷くのは自分でお願いね」
それを伝えるつもりで自分を探していたらしい。剣心は「ああ、かたじけない」と礼を言いながら、不思議なものだな、と思う。
今日から、この道場に世話になることになった。
つまり、これから彼女とのふたり暮らしが始まるのだ。
あてがわれた部屋に用意された布団を敷いて、その上に寝転がってみる。
視界に映るのは、見慣れない天井。着ているのは彼女の亡父が使っていた寝間着である。
「明日、丈は直すから・・・・・・今晩はこのままで我慢してね」と薫は言っていた。確かに、着丈も袖丈も自分には少々大きく出来ていたが、それでも何度も
洗って水にくぐらせた綿の寝間着の肌触りは柔らかくて、着心地よく身体になじんだ。
普段は、基本的に野宿の旅暮らしである。納屋や物置を借りて夜露をしのぐ事はあるが、きちんとした宿に泊まることは滅多にない。
人助けをして、それに感謝をされて宿や料理を饗されることは時折あった。長の滞在をと引き止められたこともあったが―――実際に、こうしてとどまった
のは今回がはじめてだ。
どうして、この度はこんなふうに心が動いてしまったのだろう。
いや、動いたというより、動かされたというべきか。「ここにいてほしい」という、彼女の言葉に。
「・・・・・・危なっかしかったから、かな」
寝転がったまま、小さくひとりごちる。そうだ、父親亡き後ひとりで道場を守っているというあの娘を、危なっかしいと感じたからだ。
気が強くてお人好しで、行き倒れていたからという理由で女ひとりの家に喜兵衛のような素性もしれない男を招き入れて、結果あんな危ない目に遭って、
そんな彼女を放っておいてはいけないような気がして―――
「・・・・・・おろ?」
そこで剣心は、自分の胸に手をあてた。
なんだろう、もやもやする。
胸のあたりに、妙な違和感。と言っても、これは身体的な不調ではない。
これは―――この感情は、「面白くない」とか「腹立たしい」とかいう類いのものだ。
なんだろう、俺は彼女に腹を立てているのだろうか。
そんなはずはない、だって彼女は流れ者の自分に、こうして住まいと寝床を提供してくれたのだ。だから、感謝こそすれども「腹立たしい」などと感じるわけ
がないではないか。
そう、流れ者の、素性も知れない流浪人の自分などを。ましてや彼女は俺が人斬りだと知ってしまったのに、それなのに―――
「・・・・・・きゃあっ!」
もやもやの理由がわからず困惑する剣心の耳に、薫の声が飛び込んできた。
いや、声というよりは―――小さいけれど今のは確かに、悲鳴だ。
弾かれたように起き上がった剣心は、そのまま部屋を飛び出した。廊下を走り、薫の部屋の襖の取っ手に指をかける。
悲鳴が聞こえたということは非常事態だ。とはいえ、うら若い女性の部屋にいきなり踏み込むのも躊躇われる。
「薫殿、大丈夫でござるか?!開けるでござるよ?!」
ひと声かけてから、剣心は襖を開けようと手を動かした。しかし―――それは叶わなかった。
がきっ、と。指に返ってきた思わぬ抵抗。何かがひっかかるように邪魔をして、襖を横に引くことができない。
剣心はたたらを踏んだが、襖の向こう側から「剣心・・・・・・?」と薫の声が聞こえた。
「だ、大丈夫だから・・・・・・今開けるから、ちょっと待って・・・・・・」
弱々しい、怯えたような声。一体何が起きたのだろうと気を揉む剣心の前で、「がたん」と何か硬いものを動かしたような音がして、襖が開き―――
と、同時に。小さな生き物が隙間から飛び出した。
「・・・・・・ねずみ・・・・・・?」
呆気にとられる剣心の足元をかすめて、ねずみは廊下の先の暗がりへと走り去る。
と、いうことは、さっきの薫の悲鳴の理由は―――
「い・・・・・・行っちゃった?」
棒を一本握りしめ、襖に寄りかかるようにしてへたりこむ薫が、おずおずと訊いてくる。
「ああ、行ってしまったでござる」
「よ・・・・・・よかったぁ・・・・・・」
大きく安堵の息をつく薫に、剣心はつい、くすりと笑みをこぼす。
「ねずみ、苦手でござるか?」
「得意、ではないわ・・・・・・今のねずみ、大きかったし」
「ねずみは小さいものでござろう」
「ねずみにしては、って事よ!って、こんなにねずみねずみって連呼していたら戻ってきたりしないかしら・・・・・・」
「それは・・・・・・ないと思うが」
子供みたいな発想が可愛らしくて、剣心はまたくすくすと笑う。薫はそんな彼を軽く睨んでから、「起こしちゃった?」と尋ねる。
「いや、まだ寝ていなかったでござるよ」
「そう・・・・・・でも、騒がしくしちゃってごめんね。おやすみなさい」
少し口調がぶっきらぼうなのは、「ねずみごときで騒いでしまった」ことの照れ隠しなのかもしれない。剣心は出来る限り笑いを引っ込めるようつとめなが
ら、「おやすみでござる」と返した。
するりと、目の前で襖が閉まる。
そして、「かたん」と乾いた音が続く。
剣心はその音を聞き届けてから、踵を返して部屋に戻った。
先程までの腹立たしい気分は、きれいさっぱり消えていた。
翌日、ふたりで朝食の準備をしながら、剣心は薫に「襖に、つっかい棒かけているんでござるか?」と訊いてみた。
昨夜、手をかけてもすぐには動かなかった襖。中から出てきた彼女は、棒を手にしていた。と、なると答えはひとつである。
「してる、けど・・・・・・」
ばつが悪そうに語尾を濁したのは、つまりそれが剣心を「警戒」しての行為だからであろう。しかしすぐに、「でも、わたしだって一応女の子なんだから、そ
れくらいするのが普通でしょ?」と、開き直ったように言い返す。
「いや、それが当然でござるよ」
剣心は真面目な顔で頷いて、それから「喜兵衛が居たときも、そうしていたのでござるか?」と訊いてみた。そして、「当然よ」という彼女の返事に、頬を緩
める。
昨晩、どうして彼女に対して「腹立たしい」などと感じてしまったのか。
あれは、正確には彼女の「無防備さ」が腹立たしかったのだ。
若い娘のひとり住まいに、自分や喜兵衛のような見ず知らずの異性をあっさり上がりこませて居候させて、何か間違いでも起こったらとか考えないのだろ
うか。そこはもっと用心深く行動して自分を大切にするべきではないか。いやむしろ彼女は俺のことを地蔵か何かとでも思っているのだろうか男性としてま
ったく意識していないのだろうか―――
そんな事を、自分でも気づかないうちに意識の下で考えていたらしい。
だから、彼女が俺のことをちゃんと「警戒」していたことが判ってからは、腹立たしさは霧消した。
「あの、別に、剣心のことを信用していないとか、そういうわけじゃないのよ?でも、えーと・・・・・・」
これから、この家で暮らしてゆく。
今までも、引きとめられたことはあったけれど、そのままとどまるのは初めてで―――とどまる事を選んだ自分に、我ながら驚いた。
でも、お人好しすぎる彼女が危なっかしくて、ひとりにしておくのは心配だと思ったから。
そして、「過去にはこだわらない」と言われたことが、嬉しかったから。彼女からのあの言葉が、すごく―――嬉しかったから。
とどまった理由なんて、きっとそれで充分なのかもしれない。
「でも、昨夜心配して来てくれたことはありがたかったっていうか・・・・・・って、ねぇ!剣心聞いてるの?」
「ああ、すまない。聞いているでござるよ」
気の強そうな瞳に睨まれて、剣心はくすぐったそうに目許をゆるめつつ、謝罪する。
「ここにいてほしい」という目の前の少女の言葉に、確かに心が動かされた。
それは「直感」ともいえる衝動かもしれないけれど、今はそれに素直に従うことにしよう。
そう思いながら、剣心は朝食の支度を再開した。
★
「入っても、いいでござるか?」
声をかけると、襖の向こうから薫の「どうぞー」という声が返ってくる。
襖に手をかけると、それは抵抗なくするりと開いた。
「ちょっと待っててね、すぐに終わるから・・・・・・」
鏡台にむかって、洗い髪に丹念に櫛を入れる後ろ姿に目を細めつつ、寝間着姿の剣心は布団の端に腰をおろした。
「なんだか、うちの中が静かでござるな」
「ほんとねぇ、ひとり少なくなっただけなのにね」
「まぁ、じきに慣れるだろうが」
「・・・・・・でも、ちょっと寂しいかな」
「・・・・・・そうでござるな」
数時間前、弥彦が神谷道場を出ていった。
移り住む先は、左之助が住んでいた破落戸長屋である。
もともと弥彦の身の回りの物はそんなに多くはなかったし、左之助は長屋に家財道具の一切合財を残していった。そのため剣心と薫とが手伝っての引越
しはあっけないほど簡単に済んでしまい、弥彦は「手伝いありがとなー、じゃあまた明日!」と、あっさりふたりにむかって手を振ったのだった。
帰り道、剣心と薫は揃って「子供が巣立った後の親はこんな心境なんだろうか」と歳に似合わない感慨にひたり、帰宅後はうっかり夕飯を三人分作ってし
まいそうになって「そういえばいないんだ」とやはり揃ってつぶやいて―――そして、今に至っている。
「弥彦、赤べこで飲み過ぎていなければいいけど・・・・・・」
「まぁ、多少酒が過ぎても燕殿も妙殿もいることだし。今日のところはあちらの店の皆に世話を任せるとするでござるよ」
今夜は赤べこで、弥彦を主賓とした「引越しお疲れ様の会」が開かれているそうだ。引越しの片付け中に薫は「わたしたちも参加したいわ」と弥彦に言った
のだが、「水入らずの初日なんだから、ゆっくりふたりで過ごしてろよ」と真面目な顔で返された。それに対し剣心が「では、そうさせてもらうでござるよ」と
いやに嬉しそうな顔で言ったものだから、薫は頬を赤く染めながら彼の背中をばしっと叩いたのだった。
「・・・・・・初日って言ってたけれど、違うわよね」
「え?」
「弥彦がうちに来る前も、短い間だったけれど『水入らず』だったじゃない」
髪を緩い三つ編みに結った薫が、剣心の横にちょこんと座る。
「そんな頃も、あったでござるなぁ」
腕を伸ばして、細い肩を抱く。
当然のように、柔らかい身体が寄り添ってくる。
水入らずとはいっても、今と違ってあの当時のふたりの関係は、まだ居候と家主のそれだった。出逢って間もない頃から互いのことを意識していたのは確
かであるが、こんなふうに薫の寝所を訪れて布団の上で彼女を抱きしめることなど、出来るわけもなかった。
「今日からまた、ふたりになったんでござるな」
「これからも、よろしくね」
そう言って微笑みあって、どちらともなく唇を重ねる。剣心は緩く編んだ薫の髪の中に、指を差し入れた。
つややかな髪の感触を心地よいなと思いながら、指の腹でそっと地肌を撫でるようにしてやる。こんなふうに触れあうことができるようになったのは、つい
最近のことだ。
はじめて出逢って、ふたりの暮らしが始まって。
そこに弥彦が加わって、新しい友人や仲間がこの家を訪れるようになって。
一度別れて、ふたたび帰ってきて、そして―――今夜からまた、ふたりになった。
出逢ったときとは、まったく違う意味をもつ「ふたり」に。
「寝室、今夜から一緒にしようか」
「・・・・・・え?」
唇の上で小さく囁くと、薫が驚いたように身じろぎをした。
「ああ、いや・・・・・・もちろん薫殿が嫌でなかったらでござるが・・・・・・」
これまで夜の逢瀬は、弥彦の目を気にして互いの部屋を行ったり来たりしていたけれど、これからはそんな必要もなくなる。剣心が少し顔を離して大きな
瞳を覗きこむと、薫は羞ずかしそうに頬を染めながらも、「・・・・・・嫌なわけ、ないわ」と答えた。
「嫌どころか、嬉しい。だって・・・・・・それってなんだか夫婦みたいだもの」
「みたい、は余計でござるよ」
「・・・・・・だったら、尚のこと嬉しい」
笑顔で抱きついてきた薫を抱きしめ返して、そのまま布団の上に倒れこむ。
「今日からは、声をあげても大丈夫でござるよ」
耳に唇を押しつけながらそう言うと、薫はうなじまで真っ赤になって「・・・・・・そういう事を言われるのは、嫌」と小さく苦情を申し立てた。
その様子がまた、たいそう可愛らしかったものだから―――もう少し、からかってみたくなる。
「・・・・・・薫殿、襖につっかい棒かけていたでござろう?あれ、いつ頃から外すようになったんでござるか?」
「え?どうして、そんな事訊くの・・・・・・?」
「いやちょっと気になって。いつ頃から薫殿は拙者が夜這いをかけるのを許す気でいたのだろうかと・・・・・・」
「し・・・・・・知らない知らないっ!っていうか、剣心かける気でいたのっ?!」
「おろ、これは失言だった」
この話はこれでおしまい、とばかりに、剣心は薫を敷布の上に押さえこんで深く口づけた。
あの頃―――はじめて君に逢った頃、君のもとにとどまろうと決めた自分に、自分でも驚いた。
お人好しすぎる君が危なっかしくて心配だったからとか、色々と「とどまったこと」に対する理由を考えてもみたけれど、結局は「ここにいたい」という直感に
従ったと言えるだろう。その直感のおかげで、人生が大きく変わることになった。
自分でも思いがけない方向へ―――間違いなく、よい方向へと。
「・・・・・・よかった」
細い腰の線をてのひらで辿りながら思わず呟いたその言葉に、薫はきつく閉じていた瞳を開ける。
もの問いげな視線を向けてくる薫に、剣心は彼女にしか向けることのない表情で微笑みかける。
「薫殿に出逢えて・・・・・・よかった」
薫の目が驚いたように大きくなる。そして「わたしも」と言って、剣心に向かって腕をのばした。
優しい微笑みの形をとった唇に口づけを落としながら、剣心はそっと心の中で感謝する。
君と出逢えた、この奇跡に。
君とふたり、新しい日々を共に歩んでゆける、この幸福に。
了。
2015.03.05
番外4コマはこちらから・・・ その1 その2
モドル。