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        「ただいまー」



        玄関から聞こえてきた声は、ふたりではなくひとりだけのものだった。
        出迎えにゆくと、上がり框で草履を脱いでいる薫の後ろ姿が見えた。

        「おかえりでござる、弥彦は一緒ではないのでござるか?」
        「うん、向こうの道場の子たちとそのまま遊びに出かけちゃったわ。原っぱか川にでも行ってるんじゃないかしら」
        「元気でござるなぁ」
        「ほんと、稽古したすぐ後だっていうのにね・・・・・・あら、剣心もうご飯の支度してたの?」
        振り向いた薫は、剣心の袖をくくっている襷を見てそう訊いた。

        「ああ、でも早くから手をつけすぎたので、ちょっとひと休みでござるよ」
        「じゃ、後からわたしも手伝うわね」
        剣心に笑顔を向けた薫は、履物を脱ぐのに床に置いた竹刀袋を再び手にすると、そのまま自室に向かおうとした―――が。


        かくん、と後ろから力が加わって、足を止められる。
        「え?」
        ふりかえると、剣心の手が竹刀袋の先をしっかりと掴んでいた。


        「剣心、どうかしたの?」
        「うん、いや・・・・・・」
        不思議そうな面持ちで薫が尋ねると、剣心はすぐに竹刀袋から手を離した。
        「なぜ引き止められたのだろう」と首を傾げる薫に対し、答を返せず目を泳がせる。言葉を探しながら間を繋ぐように、襷の結び目を指でほどいた。
        「・・・・・・その、左之にはしばらく出入り禁止を言い渡しておいたから」
        「へ・・・・・・?」

        一瞬、意味がわからずに薫は目をぱちくりとさせた。
        しかし、先程の出がけの一騒動の事を言っているのだと一拍遅れて気づき、つい笑ってしまった。
        「やだ、剣心そこまでしてくれたの? まぁ、わたしもずいぶん怒っちゃったけど、左之助もただの冗談のつもりだったでしょうに・・・・・・」
        ころころと笑った薫は、その後に「でも、ありがとね」と照れくさげに付け加える。

        ―――しかしながら、剣心は左之助の「処分」について報告するためだけに、自分を引き止めたのだろうか。
        それだけにしては今の彼は、何か思いつめたような妙な雰囲気を身にまとっているような気がするのだけれど―――



        「って・・・・・・え、何っ?!」



        それは、前触れもない突然の行動だった。
        外した襷を懐に押し込めた剣心は、ずいっと一歩、薫の方へと足を踏み出した。
        その様子がちょっと尋常ではなくて―――薫はぎょっとする。

        まるで、剣の間合いを詰めるような、鋭い踏み込み。
        驚いた薫は胸の前で竹刀袋を抱きしめて、反射的に後ずさる。


        「剣心?! やだ、ちょっと、どうしたの?!」
        剣心は無言のまま、後ろに下がった彼女を追いかけるようにして、更に一歩前へ出る。
        じっと真剣な目で見据えられて、薫の瞳が怯えて揺れた。
        なんだろう、よくわからないけれど、今の彼はいつもの彼と違うように感じれられて―――なんだか、怖い。
        「ちょ・・・・・・ねぇ、ほんとに何が・・・・・・剣心!?」

        ふいに、剣心は素早く薫の背後に回りこむように動いた。薫は驚いて、身体を反転させる。
        そのまま後ろに逃れようとしたが、そこにあったのは廊下の壁だった。


        「きゃ・・・・・・!」
        背中が、壁にぶつかる。
        どん、と両脇に手を突かれて、薫はびくっと身を竦ませる。


        立ちふさがる剣心の身体のせいで、暗く翳る視界。
        壁際に追い詰められた薫は、剣心の両腕に「閉じこめられた」格好になった。



        ―――何、これ?



        薫はこの状況に困惑しながら、急速に鼓動が速まってゆくのを感じていた。
        顔の横に突かれた腕で、塞がれた逃げ場。近すぎる彼との距離が落ち着かなくて、胸が苦しくなってくる。
        真っ正面から注がれる視線を感じるが、薫は目を合わせることができず、竹刀を抱いたまま縮こまるようにして俯いた。

        何故、自分が突然捕まえられたのかその意図がわからなくて。
        これから、剣心が何をしようとしているのかを知ることが怖くて―――

        と、視界に映っている剣心のつま先が、じりっと自分の方へにじり寄るのが見えた。
        おずおずと薫が顔を上げると、すぐ近くに剣心の顔があった。
        強い視線をまっすぐに受けて、射すくめられたように動けなくなる。



        「剣、心・・・・・・?」



        どうすればよいのかわからなくて、薫はただ彼の名前を呼ぶ。
        その、頼りなげな声音と、不安そうに揺れている瞳に引き寄せられるようにして、剣心は壁に突いた手の片方をそっと動かした。
        触れるか触れないかの距離で、薫の身体の線を辿るように、下へ下へと右手が降りてゆき―――目指す場所で、止まる。


        袴越しに、剣心の指が腰のあたりをかすめるのを感じた。
        薫は驚いてもう一度びくっと身を震わせて―――その拍子に、胸に抱きしめていた竹刀袋を取り落とす。

        竹刀袋は、重力に従い落下した。
        そして、真下にあったのは―――



        「いっ・・・・・・?!」



        剣心の引き攣った声が廊下に響いた。
        それに重なって、がしゃん、と竹刀が足の甲に命中した渇いた音も。


        「きゃあぁぁぁぁっ! うそっ、ごめんなさい剣心だいじょうぶっ?! しっかりしてっ!」
        一拍遅れて、薫が賑やかな悲鳴をあげる。剣心は壁についた手を離して、痛みにその場にうずくまった。
        「い・・・・・・いや、大丈夫でござるよ。と言うか、当たったのが薫殿じゃなくて拙者で、よかったで・・・・・・」

        足をさすっていた剣心は、中途半端なところで言葉を途切れさせる。
        顔をあげると、膝をついて気遣わしげな表情で覗きこんでくる薫と目があった。

        「かおる、どの・・・・・・」
        「はい?」



        純粋に心配をしてくれている、曇りのないまっすぐな瞳。
        そんな彼女に―――俺は今、何をしようとしていた?



        「・・・・・・すまない、薫殿」
        「え?」
        「拙者が、悪かったでござる」
        「・・・・・・へ?」


        痛みで我に返った、というか正気に戻った剣心は、廊下に転がった竹刀袋を薫に渡した。
        そしてそのまま一歩ならず二歩三歩とずるずる後退し、彼女からできるだけ距離を取る。

        「さすがに、これはなかったでござる。ちょっと拙者どうかしていた・・・・・・本当に、すまない」
        「これ以上は何もしない」という事を証明するように、両手をぱっと開いた形のまま上に向けて、剣心は神妙な顔で何度も「すまない」を繰り返す。
        しかし薫は、今の行動はいったい何だったのかも、剣心がここまで真剣に謝罪をする意味もさっぱりわからず―――



        「あの・・・・・・謝るのはいいから、説明、してほしいんだけど・・・・・・」
        と、途方に暮れたように言った。








        数分後、縁側には身体を折り曲げて肩を震わせながら笑う薫と、隣に座って彼女が落ち着くのを待っている剣心の姿があった。













        3 へ続く。