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        どういう意図で薫に何をしようとしていたのか、剣心は洗いざらい白状した。



        きっと怒られるか笑われるかのどちらかだろうなと予想していたが、薫の反応は思った以上の「大笑い」だった。
        そんなわけで剣心は彼女の笑いの発作がおさまるまで、しばらくのあいだ隣で手持ち無沙汰に過ごさなくてはならなかった。




        「・・・・・・薫殿、そろそろ大丈夫でござるか?」
        「ご・・・・・・ごめん、もうちょっと待って・・・・・・お、お腹痛くて・・・・・・」
        笑いすぎて目尻に滲んだ涙を拭いながら、薫は息も絶えだえに返事をする。真っ赤になってしまった顔で、袴の上からお腹のあたりを苦しげにさすって
        いる彼女の姿に、剣心は情けなく眉を下げて苦笑した。
        「そんなに、可笑しかったでござるかなぁ」
        「お、可笑しいわよ・・・・・・だってまさか、左之助と同じことって・・・・・・それで、あんな・・・・・・」

        あんな、思いつめた表情で迫ってくるものだから、いったい何事かと思ったのに。
        まさかその訳が「お尻をさわろうとしていました」だったなんて、思いもよらないにも程がある。


        「あああ・・・・・・笑ったわー。こんなに笑ったの、東京に帰ってきてからはじめてかも」
        ようやくまともに喋れるようになってきた薫に、剣心はもう一度「本当に、すまなかった」と頭を下げる。しかし薫はふるふると首を横に振った。
        「別に怒ってないんだから、謝らないでよ。ん?それとも怒った方がいいのかしら・・・・・・」

        そもそも剣心は薫を怒らせるために「さっきの左之助と同じ事をやってみよう」と思い立ったのだ。
        直前で「いくらなんでもそれはないだろう」と我に返って、未遂には終わったが―――


        「でも、もしそんな事されたら、確かにわたし怒っただろうけれど・・・・・・やっぱり、殴ったりはできないわよ。剣心の事は」
        「よそよそしくされるのが寂しくて、あんな事をしようとしました」という理由も白状済みである。その上でやはり「殴れない」と言う薫に、剣心は落胆したよ
        うにすとんと肩を落とす。しかし薫はそんな彼に、「でも、そんなこと言ったら剣心だって同じでしょう?」と返した。
        「同じ、とは?」
        「剣心だって、前に比べてわたしによそよそしくなったじゃない」
        「おろ? いや、拙者は別にそんな事は・・・・・・第一、拙者は薫殿に手などあげたことはないでござるよ?」
        剣心は反論したが、薫は首をぐっと傾けるようにして、隣にいる剣心の顔をのぞきこんだ。

        「手はあげられてないけれど、髪」
        「へ?」
        「前みたいに、ぐいーって髪を引っぱったりしなくなったじゃない」
        「・・・・・・」


        確かに、そんなこともあった。
        何か騒動が起きた時、突っ走りそうになった薫を止めようとして、肩を掴むかわりに結った黒髪を引っぱったことが何度か―――


        「・・・・・・言われてみれば、そうでござるな」
        「ほらねー?」
        傾けた薫の肩から長い髪が流れて、庭から縁側に吹きこむ風にさらさらと揺れる。
        以前は、無造作にそこに触れることができた、けれど。

        「別にわたし、剣心に怒ってることがあって、よそよそしくしてるわけじゃないのよ? っていうか、よそよそしくしているつもりなんて全然なかったし」
        わたしが剣心にそんなことするわけでしょう、と薫はちょっと拗ねたように唇を尖らせた。こんな時ではあるが、剣心はそんな子供のような表情に、つい
        「可愛いな」と心の中で呟く。
        「わたしはこんな性格だから、かっとなったら今でもやっぱり手が出そうになっちゃうけど、でも」
        薫はうつむいて、視線を下に落とす。小さな白いてのひらをきゅっと握って、また開いて。その動作を何度か繰り返してから、唇を動かした。



        「・・・・・・触れたら、どきどきするんだもん。前と違って」



        握った手をそっと自分の胸のあたりに押しつけながら、小さな声で言った。俯いた頬が赤く染まっているのは、先程笑いすぎた所為ではないだろう。
        「だからね、もう今までと同じようには、できなくなっちゃったの。別に、よそよそしくしてるわけじゃなくて、むしろ・・・・・・」
        語尾は、ごにょごにょと不明瞭に口の中に消えてしまったけれど、聞かなくてもわかるような気がした。だって―――俺もまったく同じだったから。

        こんなに「好き」という気持ちが育ってしまう前は、まだ戯れに髪を引っぱることぐらい出来た。けれど、だんだんと君を意識するようになって、こんなにも君
        を好きになってしまった今ではもう、そんな軽い気持ちで触るだなんてとてもじゃないが出来やしない。


        「確かに、拙者も薫殿と同じでござるな」
        「ね、そうでしょう? わたしだって剣心と同じように、寂しいなって思ってたんだからね?」
        そう言って、薫は照れくさそうに笑う。つられて微笑みを返した剣心は、そっと、横に座る彼女に向かって手を差し出した。

        「なぁに?」
        「髪・・・・・・引っぱってもいいでござるか?」
        「え?」


        思わぬ発言に、薫は驚いたように瞳を大きく開いた。
        しかし、ほんの少しの間の後、「・・・・・・どうぞ」と承諾する。

        手を、伸ばす。出稽古の後だからリボンは結っていない髪に指を差し入れて、軽く絡めるようにしながら下へ引く。
        繰り返し、頭を撫でるようにして。首の後ろを伝って、背中の方へ手を下ろす。
        痛くしないように、注意深く。できるだけ、優しく。その手つきに、薫はくすぐったそうに目を細める。


        「・・・・・・これ、引っぱるのと、ちょっと違うわ」
        「そうでござるかな。やっぱり、前とまったく同じにはできないでござるよ」
        そう言って笑った剣心の顔を、薫はちらりと上目遣いに見る。そして、小さく握った拳を示してみせた。

        「じゃあ、わたしもいい?」
        「叩くのを?」
        「うん」
        「どうぞ」
        「・・・・・・えいっ」


        ぽん、と胸のあたりに降ってきた拳。
        けれど、全然痛くもなんともない。先程左之助に見舞った強烈な一撃とは、天と地ほどの違いである。

        「こんなの、叩いたうちに入らないでござるよ」
        拳を胸に押し当てたまま、薫は「確かに、そうね」と笑った。
        「左之がこれを見たら、差別だと言って抗議するでござろうな」
        「仕方ないわよ、さっきはほんとにびっくりしたんだから・・・・・・って・・・・・・え?! きゃあっ!」


        でも、ここからの場面は見られたくはないかな―――などと思いながら、剣心は薫の髪に触れていた手をすっと手前に引いた。
        おもむろに抱き寄せられた薫は、驚きに悲鳴をあげる。


        「ちょ・・・・・・ちょっとちょっと、剣心っ?!」
        そのまま、腕の中に包み込む。薫は慌てたように剣心の名を呼んだが、振りほどこうとして暴れたり、それこそ殴って抵抗するような気配はない。
        「どきどき、するでござるか?」
        「当たり前でしょー! するに決まってるじゃないー!」
        「うん、拙者もしている」

        すっぽり腕におさまってしまう、細い肢体。
        ああ、柔らかいなと思いながら、心地よい感触をもっとしっかり確かめるために、抱きしめる両手に力をこめる。
        重ねた彼女の頬が、どんどん熱くなってゆくのを感じる。いや、むしろこれは自分の体温なのだろうか。
        鼓動が、だんだん早くなってゆくのがわかる。うるさい心臓の音が伝わってしまいそうだが、構わない。どきどきしているのは、彼女も同じなのだから。


        「ねぇ、剣心・・・・・・これ、一体どうしたの・・・・・・?」
        なかなか腕を離そうとしない剣心に、薫は困惑しながら尋ねる。
        「慣らしていこうかと思って」
        「え、慣らすって・・・・・・ひょっとして、触れるのに?」
        「うん。そうしたらいつかきっと、以前のように叩いたり引っ張ったり出来るようになるでござるよ」
        「・・・・・・そういうものなのかしら・・・・・・」

        この姿勢だと互いの顔は見えないのだが、疑わしげな声から察するに、訝しげに眉を寄せているのだろう。
        まぁ、実のところ「慣らす」というのは、こうやって抱きしめるための言い訳のようなものなのだが。


        突然の抱擁の、理由を訊いてきた薫。でも本当は、抱きしめあうのに理由なんていらない筈なのだ。だって、これは溢れそうになってしまった大好きという
        気持ちや、言葉では伝えきれない愛しさを表現するための手段なのだから。
        今はまだ、ぎこちなく距離を縮めるのが精一杯で。互いの気持ちを上手く言葉にも行動にも表すことができなくて、触れ合うのにもいちいち理由を探してし
        まうけれど、でも―――。


        「慣れるまで、時々こんなふうにしてもいいでござるか?」
        「・・・・・・どうぞ」
        腕の中で、薫は羞ずかしさに消え入りそうな声になりながらも了承してくれた。
        剣心は「かたじけない」と礼を言って、抱きしめる腕はそのままに彼女の髪を撫でた。


        笑いかけられたり、泣き顔を目にしたり、時には怒って手をあげられたり。そんな、彼女との「近い距離感」が心地よいなと思っていた。
        でも、いつまでもその距離のままではいられない。だって、俺はもっと彼女に近い存在になりたいと思うようになってしまったから。
        ただ愛しいという理由だけで、思うままに抱きしめることができる、彼女のただひとりの存在に。

        そのためには―――俺からも、ためらわず手を伸ばして、近づいていかなくては。
        君が、迷いのない眼差しをまっすぐ向けてくれるように。俺を、追いかけてきてくれたように。



        「・・・・・・しかし、まぁ、さっきのような手の伸ばし方は完全に間違っていたでござるが」


        左之を真似て、危うく馬鹿な真似をしてしまうところだったと呟いた剣心に、薫が「え、何か言った?」と身じろぎをする。
        「ああ、いや、独り言でござるよ。ところで薫殿」
        「なぁに?」
        「その―――いずれ慣れたとしても、今後は殴るときには加減をしてもらえるとありがたいのだが」

        左之助の顎に決まった先刻の一撃を思い返しながら、剣心は割と本気で頼んだ。
        流石にあそこまで薫を怒らせる事態は滅多にないと思うのだが―――あれは歴戦を経てきた剣心の目からも見ても、相当の威力だったから。




        剣心の真剣な声が可笑しくて、薫は肩口に顔を押しつけたままくすくす笑って「うん、気をつけるわね」と答えた。









        ★









        三日後の、やはり昼時。
        左之助は様子を窺うようにしながら神谷道場に顔を出した。剣心は露骨に眉をひそめたが、追い帰されることはなかった。

        出禁が解かれたということは、薫との例の問題は解決したということだろうか。
        大いに好奇心を刺激されたが、下手に藪をつついたらまた叩き出されかねないと思い、何も訊かないでおくことにした。













        ふれてほしい 了。








            
                                                                            2014.01.29






        モドル。