「もうっ! 剣心ってばまたそうやって・・・・・・」




        怒った顔と怒った声で、薫は拳を振り上げた。
        けれどそれは振り下ろされる事なく中空に留まり、そのまま勢いを失って―――ぱらりと、握った手がほどかれる。


        「・・・・・・剣心の、ばか」
        きっと、眉根を寄せた、拗ねた表情で睨まれる。
        小さく悪態をついた薫は、くるりと回れ右をして足早に去っていった。




        結果として、殴られることはなかった。







      ふれてほしい






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        「・・・・・・で、なんだよ。それのどこが不満なんだ?」
        殴られないに越したことはないじゃねぇか、と首を捻る左之助に、剣心は深刻な顔で答えた。
        「いや、なんというか・・・・・・寂しい、と言ったらいいのか」
        その日、例によって昼飯時に道場にやってきた左之助が縁側でくつろいでいたら、おもむろに剣心に「ちょっと相談に乗って欲しい」と切り出された。



        薫が最近、手をあげてこない、というのだ。



        「以前はまぁ、うっかり怒らせてしまったら口より早く手が出るというか、そんな感じでござったが・・・・・・どうも最近、そういう事がなくて」
        「は? それが寂しいってこたぁ・・・・・・何だ、お前実は特殊な性癖の持ち主か?」
        ひやり、と氷の刃のような視線を向けられて、左之助はうそ寒い気分で「だとしても、嬢ちゃん限定みてぇだな」と付け加える。剣心は、それは否定しなか
        った。

        「よそよそしくされているようで寂しい、という意味でござるよ・・・・・・何か拙者、薫殿を怒らせるような事をしてしまったのでござろうか」
        「ん? 言ってる事がおかしいぞ、殴られるのは怒っているからだろ? いや、殴られてないからそれでいいのか? いや・・・・・・」
        混乱してきた左之助は首を傾げたが、剣心はいよいよ思いつめた顔でため息をつく。
        「もっと、根本的なところで拙者を怒っているのでは―――という意味でござるよ」
        「根本的?」
        「拙者、薫殿に酷いことをしてしまったから」


        心当たりといえば、五月の離別だった。
        あの別れがあったからこそ、結果として互いの気持ちを確認することが出来たとも言える。しかし、あの時一方的に薫を突き放して泣かせてしまったこと
        も、彼女を傷つけてしまった事も事実なのである。
        最近のよそよそしさはあれに起因しているのだろうか、と剣心は嘆息したが、左之助はそれを馬鹿馬鹿しいとばかりに一笑に付した。

        「阿呆か。そんな昔の話が原因のわきゃねーだろう」
        「昔ではないでござろう、あれはつい三ヶ月前の・・・・・・」
        「状況が思いっきり変わっているだろうが。お前はもう嬢ちゃんのところに帰ってきてんだから、そうなりゃ昔も昔、大昔の話だよ」
        左之助は立ち上がると、縁側からおりてこきこきと首を鳴らす。
        「ってゆーか・・・・・・嬢ちゃんの性格から言って、もし何か怒っている事があるとしたら、余計にどつき回されそうなもんだろ」
        「薫殿はそんなに粗暴ではござらんよ」
        明らかにむっとした様子で反論する剣心に、左之助は天を仰いで「恋は盲目たぁこのことか」とぼやく。

        まぁ大体にしてこの相談自体が馬鹿馬鹿しいことこの上ないのだが―――と、左之助が内心で呟いていると、そこに道着姿に竹刀袋を担いだ薫がひょい
        と顔を出した。


        「あ、剣心も左之助もここにいたのね? わたしと弥彦、これから出かけてくるから・・・・・・」
        「おう、これから出稽古かい?」
        「うん、今日は午後からなの」
        「そうかい、気ぃつけて行ってこいよ。ところで嬢ちゃん・・・・・・」



        左之助はすっと薫の後ろに立つと、「ちょっと最近太ったんじゃねーか?」と言って、ぱあん、と薫の尻を叩いた。



        「きゃあぁぁぁぁっ! 何すんのよこの馬鹿助平ー!!」
        悲鳴が上がるのと、拳が突き出るのはまったく同時だった。
        下から繰り出した固く結んだ拳は顎に綺麗に命中し、衝撃に左之助の長身がよろめいた。


        「馬鹿っ! 変態っ! 太ってないもんむしろ京都に行ってから痩せたくらいだもんっ!」
        後ろに跳びすさるようにして左之助から距離をとった薫は、怒り心頭といった真っ赤な顔で怒鳴り、ぷいっと男ふたりに背を向けた。そのまま竹刀を担ぎな
        おし、ずんずんと足音も荒く立ち去りかけたが―――途中で立ち止まりくるっと剣心の方にふりむいた。
        「じゃあ剣心、行ってきます!」
        律儀にそう言った声は、しっかり怒りに満ちていた。薫の後姿は玄関の方に消えて、弥彦の「どうした?何怒ってんだよ?」という声がかすかに聞こえた。


        「・・・・・・いやー、歯に響いた。ずしっと重いぜ、あれが女の一撃かよ・・・・・・な? 今の見たろ? 嬢ちゃんなら本気で怒ってたらやっぱり・・・・・・」


        左之助としては身体を張って「怒っているなら尚のこと手が出る」ことを証明したつもりだったのだが、いかんせん方法に問題があった。
        顎をさすりながら振り向いた左之助の目に映ったのは、無言ですらりと逆刃刀を抜き放つ剣心の姿だった。







        ★







        しかるべき制裁を加えられた左之助は、そのまま道場から叩き出された。
        それでもまだ腹立たしさはおさまらなかったので、剣心は思考を分散させるつもりで早めに夕飯の下ごしらえにとりかかった。

        しかし、野菜を洗っていても包丁を使っていても、ついつい思い出してしまうのは薫の事である。非常にむかつきはしたが、先程の左之助の例を見る限り
        ―――確かに薫なら、何か怒っているのならばああやって素直に態度に表すことだろう。だとしたら、別に「怒っているからよそよそしい」という訳ではない
        らしい。


        「・・・・・・だとしたら、余計寂しいな」


        今、家には自分ひとりなのをいいことに、剣心はぽつりと声に出してみる。
        誰に聞かれることもなく、呟きは台所に小さく響いて消えた。

        怒った薫から手が飛んでくる事は、出逢ったばかりの頃から何度かあった。本気で怒っているときもあれば、冗談混じりに軽く小突かれることも度々だっ
        た。まぁ左之助の言うとおり殴られないに越したことはないのだが、今にして思うと、それを少しばかり嬉しいと感じていたのかもしれない。
        妙な性癖どうとかではなく、彼女との「近い距離感」が心地よかったのだ。


        自分のような人間の懐に、迷いなく飛びこんできた薫。
        彼女から笑いかけられるのが嬉しかったし、泣き顔を見せるのも心を許してくれているからと思っていた。
        怒って手をあげられるのだって、親しい間柄だからこそできることだし―――


        そこまで考えたところで、左之助が薫を「怒らせた」先程のシーンを思い出してしまい、剣心は顔をしかめた。
        あれは少し、いやかなり面白くない場面ではあったが、しかし―――




        「・・・・・・同じ事をしたら、どうなるかな」




        誰にも聞かれていないのをいいことに、剣心はその思いつきをそのまま声にして呟いた。
        もし誰かが聞いていたら、呆れつつも「馬鹿なことはよせ」と諌めたことだろう。



        しかし―――残念な事にそれを思いとどまらせようとする人間は、その場には誰もいなかった。













        2 へ続く。