「・・・・・・さっき言ったこと、嘘なの」
星空に近い場所
志々雄との決戦を明日に控えた夜。
最初は剣心ひとりきりだったのに、気がつけば何故だか皆が集合してしまい、葵屋の屋根の上は時ならぬ壮行会のような状況になった。
賑やかに檄を飛ばしあい気勢のあがったところで、「じゃあ後は若い者同士で」と、操と翁がぱんぱんと手を叩いた。
それを合図に、一同は示し合わせたかのように身軽に屋根から降りはじめ―――あれよあれよという間に、剣心と薫だけが残される。
「明日の事もあるんだから緋村、悪さしちゃダメだよっ」
最後に降りた操は、忘れずに忠告をしてから首を引っ込める。
その言葉に剣心と薫は顔を見合わせて、ふたり同時に赤面した。
皆が顔を揃えた時と同様に、唐突に静かになった屋根の上。
頭上で輝く星々は、人の世の騒乱などには微塵も揺るがされずに、繚乱たる光を夜の街に降らせている。
操の台詞の所為もあってか、なんとなくふたりは並んで座ったまま暫く無言でいたが、先に沈黙を破ったのは薫だった。
「・・・・・・さっき言ったこと、嘘なの」
「え?」
「その、用を足しに起きたなんて、嘘。ほんとはずっと眠れないでいたの」
剣心の顔を見ずに、まっすぐ夜の街並みに視線を向けながら、薫が言う。
確かに、薫は寝間着こそ身につけていたが、長い髪はきっちり結い上げられたままで乱れもなく、その様子からするに彼女がずっと起きていたことは明白
だった。
「明日のことが気がかりで、眠れなかったでござるか?」
「ううん、その事もあったけれど、今のみんなを見ていたら安心できたし・・・・・・だから、そうじゃなくて」
ぱっ、と。思い切ったように薫は首を横に向けて、隣にいる剣心の顔を見据える。
「まだ、言わなきゃいけないことを全部言えてなかったから、気になって眠れなかったの」
「・・・・・・拙者に?」
きり、と正面から見つめてくる瞳の力は強い。
そんな顔をする薫を目にするのは、久しぶりなような気がした。
「わたし、謝らないから」
「・・・・・・へ?」
「剣心、比古さんのところで、怒ってるかって訊いたら『半分』って言ったじゃない。でも、わたし、謝らないからね」
ばし、と言い切った薫は、すぐに顔をまっすぐ前方に戻して唇を引き結んだ。
「その、薫殿、拙者はもう・・・・・・」
怒ってなどいないから、と続けようとしたが、再び口を開いた薫にその先は遮られる。
「だって、剣心も怒ったかもしれないけれど、わたしたちだって怒ってたんだもの。左之助にだって、会うなり殴られたんでしょう?左之助も弥彦も、あなた
が出ていっちゃったこと怒っていたんだから・・・・・・だから、お互い様なんだから謝らないからねっ!」
一気に言い放った薫に、剣心は目を白黒させる。そして、ふっと肩から力を抜いて、ぱし、と片手で顔の半分を覆い隠した。
久々に聞いた、薫の勝気な物言い。
それがひどく懐かしいものに感じて―――奇妙なくすぐったさと嬉しさに緩んでしまう口許を、彼女に気取られないようにするために。
ちらりと横目で、隣の彼女を盗み見る。
星明りに浮かび上がる白い輪郭。つんと唇を尖らせた横顔。そんな少し拗ねた顔も、剣心の好きな薫の表情のひとつだった。
どうも京都で再会して以来の彼女はしおらしい雰囲気が先に立っていたのだが、漸くいつもの気の強さを垣間見ることができて、なんとなく安心する。
ゆったりとした夜着越しにも、背筋のすらりとした様子が見てとれて、長い髪が夜風にさらりと揺れて―――ああ、綺麗だなぁと心の中で呟いた。
「・・・・・・そうでござるよな。何も言わず勝手に出て行ったんだから、それは怒って当然でござるな」
もっとも、薫だけには「何も言わず」ではなく、別れを告げた。
今にして思うと、あれは、あまりに身勝手なさよならだった。
「・・・・・・わたしは、むしろ怒ったのは京都に着いてからだったんだけど」
「え、どうしてでござる?」
「あー・・・・・・ええと、それはもういいの。ちょっとした誤解があったんだけど、もう解決したから」
冴の茶々が原因で、剣心と操の仲を疑った―――なんて馬鹿なこと、言えるわけがない。そこは口をつぐんでおくことにして、かわりに薫は「怒ったという
より、悲しかったし」と、ぽつりと呟くように言った。
「・・・・・・薫殿」
「なぁに?」
「謝るのは、拙者のほうでござるよ」
そうだ、理由はどうあれ、東京を出たあの夜に自分は薫を泣かせてしまった。
それについてまだ謝っていなかったことに今更ながら気づいた剣心は、改めて謝罪の言葉を口にした。
「あの時は、一方的に言うだけ言って、薫殿を悲しませてしまって・・・・・・すまなかった」
「もう、いいのよ。だって剣心は、わたしたちを巻き込まないようにと思って、ひとりで京都に行こうと決めたんでしょう?」
「それは、そのとおりでござるが、でも」
「ほんとにもういいんだってば・・・・・・あの時のことをあんまり思い出すと、自己嫌悪に陥っちゃうし」
「へ?」
何故そこで「自己嫌悪」なのか意味がわからず首を傾げた剣心に、薫はかくんと頭を前に倒して両手で顔を覆った。
「わたしね、剣心が行っちゃったあと、二日間くらいぐずぐず泣いて過ごしたの。お布団かぶって部屋に引きこもって」
「・・・・・・そうでござったか・・・・・・」
ああ、俺はそんなに彼女を悲しませてしまったのか、という自責の念が胸にこみ上げる。しかしそれと同時に、そんなにも深く俺を想ってくれていたのかと
いう屈折した感情も浮かんでしまい、剣心こそ自己嫌悪に陥りそうになった。が―――
「・・・・・・ああもう!ほんとに情けなくって腹が立つわ!」
がばっと突然顔を上げた薫が大声で叫び、剣心は自分が叱られたかのように、びくっと身を震わせた。
「なっ、何にでござる・・・・・・?」
「決まってるじゃない、わたし自身によ! 正確に言うと、泣き暮らしていた頃のわたしっ!」
薫の口調は完全に怒ったそれだったが、怒りの矛先は剣心にではなく自らに向いていた。その勢いに呆気にとられる剣心の横で、薫は舌鋒激しく「あの
夜の自分」にむかって叱責する。
「ほんと、我ながら情けないのよ。うずくまって泣く以外に何もしないで、自分から動こうともしないで、恵さんにも呆れられて・・・・・・できることならあの日に
戻って自分をひっぱたいてやりたいわ! ぐずぐずしないでさっさとしゃんとしなさい、って叱ってやりたいわよ!」
先程「謝らないからね」と言ったときよりも遥かに辛辣な言葉を己自身に投げつけた薫に、剣心は毒気を抜かれたようにぽかんとする。
そして―――やはり彼女には申し訳ないが、不謹慎にもくつくつと笑いがこみ上げてきてしまう。
いつもそうだ。この娘は、怒るときも泣くときもいつも一所懸命で。きちんと自分のことを叱ることができて、ひとの為に怒ったり泣いたりして。
何に対しても、どこまでもまっすぐで、ひたむきで―――
「大丈夫でござるよ。薫殿はもうすっかり『しゃんとしている』でござるから、もう叱る必要などないでござるよ」
「・・・・・・そう、かしら?」
「こうして今此処にいるのが、何よりの証拠でござろう?」
言うだけ言って一息ついた薫は、笑い混じりの剣心の言葉に「それは、そうかも」と頷いた。
「じゃあ、これで気になることも全部話せたようでござるし、もうぐっすり眠れるでござるな」
剣心はそう言ってまた笑ったが、薫は小さく首を横に振る。
「もうひとつ、あるの」
「ん?」
「あの、ね・・・・・・」
たった今激昂したのを落ち着けるように、深く息をついて。そして少しの間、躊躇うように俯いた後。
ゆっくりと剣心の方を向き、唇を動かした。
「・・・・・・会えて、よかった」
か細い、声だった。
けれどその小さな声は、透明な硝子の針のように、剣心の胸を鋭く突いた。
「もう、二度と会えないのかと思っていたから・・・・・・会えて、ほんとによかった。ありがとう、剣心」
そう言って、はにかむように笑う。
東京に居たときと、何も変わらない、笑顔で。
―――いや、そうじゃない。
ここに辿り着くまで、俺がいないうちに彼女は何度も泣いて、その涙を越えたうえで―――笑って、くれたんだ。
「・・・・・・ん?ありがとうっていうのも変かしら・・・・・・ううん、むしろこんな事改まって言うこと自体が変よね・・・・・・えーと、ごめんね剣心今の忘れて!聞き流
して!」
「言わなきゃいけないこと」を言うことができたものの、いざ口にしてみると恥ずかしくなってしまったのだろう。頬を赤く染めた薫は、ことさら賑やかに弁解し
ながらぶんぶんと手のひらを顔の前で振って見せた。そしておもむろに腰を浮かせ、そそくさとこの場を去ろうとする。
「でも、これでほんとに全部言えたわ。じゃあ、わたしも部屋に戻るから、おやすみなさ・・・・・・きゃあっ!」
逃げるように屋根から降りようとしたところを、いきなり手首を掴まれ引っ張られて、薫はバランスを崩した。
よろめいた身体を、剣心の腕がしっかりと抱きとめる。
「び、びっくりしたぁ・・・・・・もう!剣心、危ないじゃない!」
落っこちたらどうするの―――と、抗議をしようとした薫は、驚くほど近い距離から瞳を覗きこまれ、続けようとした言葉は喉の奥でつかえた。
「拙者もまだ、言えていなかった」
「・・・・・・え?」
「・・・・・・会いたかった」
そう、危険な目に遭わせたくなかったから、これ以上君を巻き込みたくなかったから。
だから一方的に別れを告げた。それが正しいと思っていた。
けれど、さよならを言ったところで心の中から君の存在が消えるわけはなかった。
むしろ、君がそばにいないからこそ余計に君のことを思い出して、君のことを想うようになった。
師匠のもとに訪ねてきた君の姿を見た瞬間は、時間が止まったように感じた。
「どうしてまたこんな無茶をして」という気持ちも、当然あった。でも、追いかけてきてくれたことに、心底ほっとした。
だって、俺は君に恨まれて当然だと思っていたのだから。あの夜が今生の別れだと思っていたのだから。
そして今、こうして君が隣にいることが、こんなにも嬉しい。
それが、誤魔化しようのない、素直な気持ちだ。
俺もずっとずっと、君に会いたかったんだ―――
「・・・・・・剣心・・・・・・」
「来てくれて、嬉しかった」
「・・・・・・」
「ありがとう」
肩を抱かれながら、薫は頬を両手で押さえて必死で涙をこらえた。
今は、泣きたくなかった。
せっかく、また会えたのだから。今は笑った顔しか見せたくなかったから。
熱くなる目蓋を固く閉じて、薫は彼の肩に身を預けた。
戦いはもう明日に迫っている。しかし今はまだ、互いを想うことに時間を費やしても赦される筈だ。
ひととき、全てを忘れて。剣心と薫はただ隣にいる大切な温もりを、静かに感じていた。
寄り添ったふたりの肩に髪に、星の光は音もなく降り注いでいた。
了。
2014.08.12
モドル。