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        井戸に吊るしていた西瓜を引き上げていた剣心は、近づいてくる賑やかな気配に気づいて顔を上げた。




        賑やか、と言っても楽しげな雰囲気ではなく、何かしきりに言い争っている様子である。声の主は珍しいことに―――弥彦と燕のようだ。
        頂き物の西瓜を切るから燕も呼んで来るよう、剣心と薫は今朝の稽古で弥彦に言いつけたのだが、呼びに行った先の赤べこで、何かあったのだろうか。
        剣心はこの椿事に「雨でも降り出すのではなかろうか」と思いつつ、食べ頃に冷えた西瓜を抱え上げ、台所に向かった。



        「弥彦と燕殿は?」
        「縁側よ。仲良く並んで座って、睨み合っているわ」
        剣路を抱いて台所を覗きにきた薫に尋ねると、そんな答えが返ってきた。燕が弥彦を睨みつけているところは想像しにくいので、おそらく比喩表現であろ
        う。ともあれ、喧嘩中なのは間違いないようだ。
        「珍しいでござるなぁ、何があったんでござろう」
        「うーん、そうねぇ。午前中の稽古のとき由太くんが、『昨日燕ちゃんと縁日に行った』って話してたけど」
        「・・・・・・間違いなくそれが原因でござろうな」
        「でも、真相は偶然出くわしただけらしいんだけど。そこは、由太くんと一緒に出かけた門下生の子たちが証言済みだから」

        薫の腕でうとうとしていた剣路がぱちりと目を覚まし、父親が西瓜を切っているのに気づいてじたばたと足を動かした。薫が下におろしてやると、どーんと
        体当たりをするようにして剣心の袴に飛びつく。
        「おろ、危ないでござるよ剣路、包丁を使っているのだから・・・・・・では、弥彦はそれを判っていながらおかんむりなんでござるか?」
        「そうなの。だから燕ちゃんも怒っちゃったみたいで」
        三角に切った西瓜の上の部分を小さく切り落として、剣心は剣路の口に放りこんでやる。一番甘い部分の一口をほおばって、剣路は満足そうににっこり笑
        った。薫はその様子を見て目を細めながらも、口では弥彦に対して苦言を呈する。


        「まったく、弥彦ったら燕ちゃんのことになると融通がきかなくなるんだから・・・・・・さっさと謝っちゃえばいいのに」
        「まぁ、気持ちはわからないではないが」

        ひとりだけ、特別な相手のこととなると、視野が極端に狭くなってしまう。
        それは自分にも言えることだと思って、剣心は苦笑する。



        「でも、こんな事でこじれちゃうのも馬鹿馬鹿しいわよね」
        薫はしゃがんで剣路の口許をぬぐってやると、帯の間からあるものを取り出して手に握らせた。
        「と、いうわけで剣路、ちょっとお兄ちゃんとお姉ちゃんのところに行ってらっしゃい」
        「しょうちしたー」
        母親からの「指令」に剣路は父親の口調を真似て答え、たたっと駆け出した。









        ★









        突き抜けるように青い空、じりじりと地面に影を焼き付けるように眩しく太陽が照りつける夏の昼下がり。
        一日で一番暑い時間帯の筈なのだが―――縁側の一帯だけ、ひんやりとした空気が流れている。

        より正確にいうと、縁側に座っている弥彦と燕の周りだけ、木枯らしでも吹いているような雰囲気である。
        いつもより、距離をとって座るふたり。しばらく互いに無言の膠着状態が続いていたが、燕の呟きがその沈黙を破る。


        「・・・・・・そろそろ、機嫌直してよ」
        宥めている、というよりは、どちらかというと「つっかかる」ような口調である。それにかちんときた弥彦は、似たような声音を返す。
        「・・・・・・そっちこそ、いいかげん拗ねるのはやめろよな」
        「・・・・・・拗ねてるのは、弥彦くんのほうじゃない」
        「あぁ?!拗ねてる?!俺が?!」
        「だってそうじゃない、由太郎くんが判りづらい言い方をしたってだけでしょう?わたしは誤解されるようなこと、何もしてないもの」
        弥彦は大仰にため息をついた。その、わざとらしい動作に、燕は眉間に皺を寄せる。それは彼女の優しげな目許には似合わない表情だった。


        「おまえ、随分あいつのこと庇うよな」
        「弥彦くんが、変な気まわしすぎてるんだよ!由太郎くんにばっかり!」
        『ぎゅ』
        「おまえが無神経だから、俺がその分気をまわしてやってるんだろうが」
        「・・・・・・言っておくけど、今弥彦くん結構ひどいこと言ったよ?何年か前のわたしなら泣いてるところだよ?」
        『ぎゅっ』
        「俺だって、言いたくて言ってるんじゃねーよ。お前が言わせてるんだろうが」
        『ぎゅっ』
        「だからっ、それは・・・・・・」
        『ぎゅ、ぎゅっ』
        「それは、弥彦くんが・・・・・・」
        『ぎゅっ』
        「「・・・・・・」」
        『ぎゅ』



        先程から、頻繁に会話に刺さりこんでくる、緊張感を削ぐ音。
        音の出所は、ふたりの背後にいる―――



        「・・・・・・こら剣路ー!!!」



        弥彦はばっと振り向き、慌てて逃げ出そうとする剣路を有無を言わさず捕まえた。その口にあるのは、鬼灯の実で作った笛である。
        「間の抜けた音出しやがって、邪魔するなよなー!」
        弥彦は剣路の両足をつかんで、そのままぐいっと持ち上げる。逆さに吊られた剣路はぎゃーと大きく悲鳴をあげたが、それは半分以上笑っているような悲
        鳴であった。

        言い争いのリズムを崩されて、なんだか怒りも苛立ちもとりあえずどこかに飛んでいってしまったようで、燕はくすりと笑った。どうも、思いがけず剣路に「仲
        裁」してもらったような具合である。
        「剣路くん、おいでー」
        床の上に下ろされた剣路は呼びかけにぱっと立ち上がると、燕のスカートの膝に飛びついた。
        「すごいね剣路くん、鬼灯鳴らせるんだ」
        「自分で鳴らしたがってたからやらせてみたんだけど・・・・・・器用でびっくりしちゃったわ、そのへんも剣心に似たのかしら」

        顔を上げると、いつの間にかそこには薫と、西瓜の乗った盆を持った剣心が立っていた。
        このタイミングで西瓜が運ばれてきたせいで、喧嘩は完全に休戦状態になる。


        「鬼灯鳴らすのは、女の遊びじゃなかったのかよ?」
        弥彦は一番大きな一切れを選んでかぶりつきながら、からかうように薫に言った。
        「やだ、よくそんな前のこと覚えていたわね・・・・・・いいの、わたしは負けを認めたんだから」
        「たった三人の多数決でござるがな」
        会話の意味がわからず首を傾げた燕に、薫はいつか三人で話した鬼灯のエピソードを教えてやる。薫の説明をなるほどといった顔で聞いていた燕は、「た
        しかに男女は関係ないのかもしれませんね」と頷いた。

        「わたしも、女ですけど作れないですもの」
        少し照れくさそうにそういう燕に、剣心と薫は顔を見合わせた。そして薫は食べかけの西瓜を皿の上に置くと、きっと弥彦の顔を見る。

        「弥彦、あんた燕ちゃんに教えてあげなさい」
        いきなり命令された弥彦は、一瞬薫が何の話をしているのか解らずきょとんとしたが、すぐに「鬼灯の笛の作り方」のことだと理解して「えええー?!」と不
        平の声をあげる。
        「何だよそれ、別にお前が教えりゃいいじゃん!」
        「いいじゃないの、あんた小さい頃によく作ったんでしょ?」
        「そりゃそうだけど・・・・・・でも何で俺がー!?」
        突如はじまった薫と弥彦の言い合いに、燕はおろおろと助けを求めるような目を剣心に向ける。剣心はそんな燕に、のんびりと笑って解説した。


        「薫殿も、拙者から作り方を教わったんでござるよ」
        「え、そうなんですか?」
        「ああ、危なく約束を破るところでござったが、そうならなくてよかったでござる」

        この言葉に、燕も、そして弥彦も首を傾げる。
        剣心と薫は顔を見合わせてよく似た表情で笑った。


        「剣心から、教えるって言ってくれたのよね。初めて会った年の春に」
        季節が夏になって、鬼灯が赤く色づいたら、作り方を教えよう、と。
        「しかし、あの時は・・・・・・拙者、酷いことをしたでござるからな」

        数年前、夏が訪れる前に剣心は東京を去った。
        もう二度と戻らないつもりで、薫ひとりにだけ、別れを告げて。

        「でもその後、剣心、帰ってきてくれたから。東京に戻ってから、教えてくれて」
        「夏のうちに帰ってこられて、よかったでござるよ」
        「まぁ、間に合わなかったとしても、次の夏に先延ばしにすればよかったんだけどねー」


        ふたりはそう言って笑ったが、弥彦と燕はあの時のことを思い出して、食べかけの西瓜を手にしたまま相槌を打てずにいた。
        剣心と薫は何でもないことのように話しているけれど、一歩間違えればその「約束」は守られずに終わったのかもしれないのだから。

        夏に間に合うどころか―――次の、その次の夏にも、その機会は永遠に訪れないまま。



        「・・・・・・と、いうわけで弥彦。今度はあんたが燕ちゃんに教えてあげるのよ?わかった?」
        「って、どこがどう『というわけで』に繋がるのか全然わかんねーよ」
        弥彦は顔をしかめて毒づいたが、ちらりと燕のほうを見て、何か大層な決意でもしたかのように、表情を改めた。


        「・・・・・・ほおずき市って、もうすぐだったよな」
        燕が、え、というふうに目を見開き、薫はうんうんと繰り返し頷く。
        「じゃ、今度・・・・・・行ってくる」
        「ちゃんと燕ちゃんの予定も聞きなさいよ」
        「るっせーな・・・・・・燕もいいよな?」
        「あ・・・・・・う、うんっ。赤べこ、夕方に上がった後なら・・・・・・」
        「わかった。じゃ、店まで迎えに行くから」




        ふたりのやりとりを見ていた剣心と薫は、目で頷きあって微笑む。
        懸命に種を除きながら小さめに切られた西瓜を食べていた剣路が、残った皮を指差しながら、薫に「おかわり」と訴えた。













        3 へ続く。