「今日は、ごめんな」
神谷道場からの帰り道、燕を送りながら弥彦はぼそりと呟くように言った。
足許に目を落として歩いていた燕は、ふっと顔を上げて、となりにいる弥彦を見る。
「わたしこそ、つっかかっちゃって、ごめんなさい」
剣路と西瓜のおかげで休戦していた喧嘩は、先程の剣心と薫の話を聞いて、完全に「終戦」となった。
自分たちは今、離ればなれになる不安などとは無縁で毎日を過ごしているから、だからこそこんな意地の張り合いもできる。
でも、あのふたりはあの頃、他愛ない約束ひとつも守れるかどうかわからない状況で過ごしていたのだ。
今の剣心と薫は、もうずっと昔からそうやって暮らしていたかのように、夫婦として、父親と母親として、ごく自然に過ごしている。
しかし、そんな「今」に辿り着くまで、ふたりの縁は何度も途切れそうになった。
決して離れないようにと、互いに必死に手を伸ばして。諦めずに、ふたりで生きる未来を願い続けて。そうして、現在の剣心と薫がいる。改めてそれを思う
と―――弥彦も燕も、不毛な口喧嘩をこれ以上続ける気にはなれなかった。
「でも、お前たくましくなったよなぁ」
「え、そうかな?」
「だって、前はこんなふうに喧嘩にはならなかっただろ。喧嘩っぽい事があっても、結果として俺がお前を苛めたってことになって、俺が薫にぶん殴られたり
してさ」
燕はその当時を―――ほんの数年前の事を思い返して、つい笑ってしまった。
確かに、ちょっとした諍いごとが起きた末に、何故か第三者の薫が割って入って、弥彦に報復するというパターンは何度かあった。
「嬉しいな、わたし、薫さんや操さんみたいになりたいって思ってたから・・・・・・ちょっとは近づけてるのかな?」
燕は顔をほころばせ、はにかみながら言ったが、対して弥彦は「愕然」というような表情で「・・・・・・冗談だよな?」と恐る恐る尋ねる。はっきり言って今のは
衝撃の発言だった。
「え、何で?わたし何か変なこと言った?」
「いや・・・・・・だって、あんなになりたいって・・・・・・薫と操だぞ?」
「うん、わたしあのふたりに憧れているもの」
どうしてそんなに驚くのだろう、と、燕は怪訝そうにまばたきをする。弥彦としては、燕にあのふたりのようなじゃじゃ馬になられるのは何としてでも遠慮願
いたいところだが―――まぁ、それはちょっと想像がつかないし、きっと燕は彼女たちの規格外とも言っていい逞しさに憧れているのだろう。
自分が、剣心や左之助の強さに憧れるように。
「あ、ここまででいいよ弥彦くん。送ってくれてありがとうね」
「おう、じゃあ、また明日な」
そう言いつつも、足を止めたまま動かない弥彦に、燕は今度はどうしたのだろうと首を傾げる。
道端に立ったまま、何かを逡巡するかのように目を泳がせていた弥彦は、やがて「ええい!」と気合を入れるような声を発して、燕の目の前に右腕を突き
出した。小指を一本だけ、ぴんと立てて。
「・・・・・・指きり」
「え?」
「ちゃんと約束守れるように、ほおずき市に行けるように、指きりだよ」
燕は、弥彦の顔をまじまじと見つめ―――そして、ぼわっと頬に血を上らせた。
「えっ・・・・・・?で、でも、そこまでしなくても、わたし忘れたりしないよ・・・・・・?」
「あいつらも、指きりしたんだってさ」
「・・・・・・剣心さんと、薫さんが?」
「夏の約束を忘れないように、って。そうしたら・・・・・・剣心、ちゃんと帰ってきただろ?」
おろおろと困惑していた燕は、その説明を受けてはっとする。
それは、剣心と薫がまだきちんと想いを伝えあう前に交わした約束だ。
まだ、出逢って間もない頃。ふたりの未来には何の約束もなくて、剣心がいつまでこの地にとどまれるのか、彼自身にもわからなかった頃。
あの当時の彼らにとってその「指きり」は、少しでも長く一緒にいられるようにと、願いをこめた精一杯の行動だったのかもしれない。
あの頃―――燕もとても近くで彼らのことを見ていた。印象に残る事件もいろいろあったが、そんな中、何か起こる毎に薫がどんどん強くなっていったこと
も、よく覚えている。ただ、泣いているだけでは剣心の背中は遠くなるばかりだからと。追いかけて追いかけて、そして追いついてからの薫は決して揺らぐ
ことがなかった。それを見ていたからこそ燕は、あのふたりには幸せになってほしいと心から思った。
そして、今は「わたしも薫さんのように強くなりたい」と思っている。
そして、できることならわたしたちも、剣心さんと薫さんみたいになれたら―――
ついそんなことを思ってしまった燕は、耳たぶから首まで真っ赤にしながら、躊躇いがちに右手を差し出した。
「あんまり照れるなよ、こっちにまで伝染るだろうが」
そう言いながら弥彦は、ぐいっと引っ張るようにして、自分の小指に燕の華奢な指を絡めた。
★
「あらまぁ、そんな事吹き込んでたわけ?」
帰り際、燕に気づかれないようこっそりと、剣心は弥彦に耳打ちをしていた。
それを目撃した薫は、何だろうと思い彼らが辞してから剣心に訊いてみた。
返ってきたのは「指きりをするよう指令を出した」という答えだった。
数年前の自分たちをそのままなぞるようにと、剣心は弥彦に言いつけたのだった。
「でも、あの時は剣心からじゃなくて、わたしから『指きりして』ってお願いしたんだけど」
「まぁ、そこは弥彦は知らないことでござるし。そうやって確実に仲直りしておけ、と勧めておいたでござるよ」
「仲直りかぁ、それもそうね」
しかし、弥彦はどんな顔をして燕に「指きりしよう」と切り出すのだろうか。それを想像して、薫はつい笑ってしまった。
夕方にさしかかる時間帯、少し涼しくなった風がちりんと風鈴を鳴らす。剣心と薫は縁側に腰をおろして、食後の運動と言わんばかりに、庭で棒切れを振
り回して遊んでいる剣路を眺めていた。
「・・・・・・剣心が」
「うん?」
「剣心が教えてくれたから、わたしはあの子に、鬼灯の笛を作ってあげることができたのよね」
「そうでござるな・・・・・・もうすこし大きくなったら、剣路にも作り方を教えてやろうか」
「わたしも、そう思ってた」
そしてふたりは、顔を見合わせて笑う。
「もしかしたら、剣路も将来、誰かに教えてあげることがあるかもしれないわね」
「まだ、だいぶ先のことでござるがな」
いや案外あっという間なのかな、と剣心がつけ加えると、薫はするりと手をのばし、小指を彼のそれに絡める。
「・・・・・・何の指きりでござるか?」
「うーん、そうねぇ」
特に考えてもいなかったのか、薫は問われてから首を傾げる。そして、出会ったときから変わらないきらきらした瞳に、悪戯っぽい色を乗せて言った。
「これからも、ずーっと浮気はしません、って約束とか」
「そんなこと、『しろ』と言われても無理な相談でござるよ」
ふざけて口にした一言に大真面目に返されて、薫は思わず赤くなった。
「じ、じゃあ・・・・・・これからも死ぬまでずーっと一緒にいます、って約束、とか・・・・・・」
「それは当然でござるし、生まれ変わった先でもまた一緒でござろう?」
これまた涼しい顔で言われて、薫の顔にますます血が上る。剣心はそんな彼女にいとおしげに目を細めると、そっと顔を近づけて、耳元に唇を寄せた。
「じゃあ、何を約束するか、拙者が決めてもいいでござるか?」
「え?」
その後に、より低く声を落として囁かれた言葉に―――薫はあわあわと慌てて、絡めた指を振り切ろうとする。
「ば・・・・・・ばかっ!しないわよそんな約束!ちょっとこれ離してー!」
「はい、指きった。約束成立でござるな」
「きゃー!」
母親の悲鳴を聞きつけて、剣路が庭から飛んできた。「こらー!」と怒った声をあげて、父親に向かって打ちかかってくる。
「ああ剣路、違うでござるよ。苛めていたのではなくて、むしろ仲良くしていたのでござるよ」
「変なこと教えないでー・・・・・・」
薫はまだ赤い顔のまま、じとりと剣心を睨む。要求された「約束」は、ちょっと子供には聞かせられない内容だった。
棒でびしばし膝を打たれた剣心は、縁側から腰をあげて反撃に出る。ぱし、と剣路の両腕をつかんで持ち上げ、庭に降りてぐるぐる小さな身体を振り回し
た。剣路はあっという間に機嫌を直し、歓声をあげる。
楽しそうにはしゃぐふたりの姿を見て、薫も眉間の力を緩めて、口許をほころばせる。
出逢った年の春、「ずっとここにいてくれますように」という願いをこめて、交わした指きり。
あの年の夏、剣心が戻ってきてくれて、守られた鬼灯の約束。
それから幾つも季節はめぐりまた夏が来て、こんなにも賑やかな今がある。
「・・・・・・いてくれて、ありがとう」
良人の耳には入らぬくらい小さな声で、薫は呟く。
今の彼ならこんな礼に対しても、きっと「当然でござるよずっと一緒でござるよ」と真顔で返すのだろう。
その幸福にまた感謝の念を抱きながら、縁側から勢いよく立ち上がる。
「ねぇ、お母さんもまぜてー!」
娘時代と変わらぬ軽やかな駆け足で飛び込んできた薫を、剣心と剣路はよく似た笑顔で受け止めた。
鬼灯と指きり 了。
2016.08.28
モドル。