鬼灯と指きり






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        洗濯物を干していた剣心は、近づいてくる賑やかな気配に気づいて顔を上げた。




        賑やか、と言っても楽しげな雰囲気ではなく、何かしきりに言い争っている様子である。声の主は、まず間違いなく薫と弥彦であろう。
        剣心は「また喧嘩をしているのかな」と思いつつ作業を続ける。

        「ただいまー!剣心どこー!?」
        出稽古を終えて帰宅した薫は、玄関を開けるなり剣心の姿を求めて声をあげた。「こっちでござるよ」と答えると、薫と、そして弥彦が揃って飛んできた。
        「おろ、どうかしたのでござるか?勢いこんで」
        詰め寄らんばかりの雰囲気のふたりに、剣心は首を傾げる。薫はそんな彼の顔をじっと見ながらおもむろに訊いた。



        「剣心、鬼灯鳴らせる?」
        「・・・・・・は?」



        これまた随分と季節はずれな、と思った。
        今はまだ春先である。鬼灯が色づいて見頃になるのはまだ当分先のことであろうが―――


        「鳴らせるって、あの、実を口の中に入れて、中身を出して笛にする・・・・・・」
        「そう、出来る?」
        唐突な質問に目を白黒させながら、剣心は真剣に考えた。
        鬼灯の、雫のような形の外側の皮を剥いて、中から熟した丸い実を取り出して。その実を指の腹でよく押して柔らかくして、注意深く、中身を取り除く。する
        と、あとには紙風船のように小さな穴が開いた、中が空洞の袋が残る。袋を口に含んで舌で押すと、ぎゅっ、と面白い音が鳴る。
        そんな「工程」を経て作る鬼灯の笛は、夏の時分の子供の玩具である。

        「どうでござるかなぁ、子供の頃は作ったものだが・・・・・もう何年もそんな事はしていないでござるから」
        はたして今作れと言われたら作れるものか、と思いつつ答えたのだが、薫と弥彦にとってはその返答で充分だったらしい。剣心の言葉に薫は明らかに落
        胆した様子になり、反対に弥彦は鬼の首をとったような顔になる。
        「ほら、言っただろー!?剣心だって絶対作れるって」
        「いや、だからちゃんと覚えているかどうかは怪しくて・・・・・・」
        「作ったことがあるってだけで充分なんだよ。薫、俺の勝ちだなー」
        弥彦は得意満面で胸を反らし、薫はがっくりと肩を落とした。そんな彼女を後目に、弥彦は剣心にふざけた調子で「ご協力、感謝!」と頭を下げてみせ、
        悠々と家の中に入っていった。後には、剣心と薫のふたりが残される。


        「・・・・・・どういうわけでござる?」
        訳がわからない剣心が薫の方を見やると、薫はじとりと恨みがましい目を向けてきた。
        「裏切り者ー・・・・・・」
        「は?!」
        「でも、そうよねー・・・・・・わたしが偏見を持っていたってことよねー・・・・・・ごめんね剣心」
        「いや、薫殿!何を言っているのかさっぱりわからないでござるよ?!」
        途方に暮れる剣心に、薫はぼそぼそと今の質問に至るまでの経緯を説明し始めた。


        出稽古の帰り道、薫と弥彦はある家の庭先で鬼灯の鉢植えを目にした。
        勿論それは色づくにはまだまだ早い状態だったが、弥彦はそれを見て「もっと小さかった頃、よく鬼灯の実を鳴らして遊んだ」と薫に言った。

        それに対して薫は「それは女の子のする遊びでしょ?」と返した。
        それでふたりは「いや男だって作って遊ぶ」「いやそれは少数派だ」と言い合いになり―――「じゃあ、剣心にも訊いてみよう」と相成った。


        「そしたら、剣心も子供の頃作ったって言うから。それでわたしの負けが確定しちゃったって訳」
        薫はそう言って肩をすくめた。
        「それは、薫殿にはすまないことをしたでござるなぁ」
        申し訳なさそうな声音で大真面目に謝る剣心に、薫はくすりと笑って首を横に振る。そして、小さな声で付け加えた。
        「まぁ、弥彦には『女の子の遊びだ』って言っちゃったけれど、そう言うわたしは作れないんだけどね」
        「おろ、そうなんでござるか?」
        「うん、考えてみれば母さんからは教わらなかったなぁって・・・・・・あ、でも別に母さんが不器用だったとか、そういうわけじゃないのよ?」
        慌てて母親を弁護する薫に、今度は剣心が頬を緩める。そして、ふと思いついたように提案した。

        「では今度、拙者が教えるでござるか?」
        「え?」
        「鬼灯の笛の作り方。と、言っても、覚えていたらの話でござるが」


        剣心の申し出に、薫は目を丸くする。その言葉の意味を確認するように、「こんど・・・・・・教えてくれるの?」と、ゆっくりと同じ台詞を口にする。
        「試してみて、出来るようだったらでござるよ?ああいう遊びは案外、手が覚えていたりするものでござるから・・・・・・それでよければ」
        「・・・・・・勿論よ!絶対教えてちょうだいね?!約束だからね?!」
        思いがけず大きな返事がかえってきて、剣心は驚いた。

        たかが鬼灯がそんなに嬉しいものだろうかと不思議に思っていると、薫は剣心の目前にすっと右手を差し出した。
        白い小指を、ぴっと一本立てた形で。


        「・・・・・・何でござる?」
        「指きり」
        「へ?」
        「鬼灯の季節になったら、教えてくれるんでしょう?だから・・・・・・それまで忘れないように、指きりして」


        剣心は思わずまじまじと、薫の顔と目の前の指とを見比べてしまった。
        確かに、鬼灯が真っ赤に熟する夏には、まだ数ヶ月あるが、それにしても。
        薫のような、年頃の娘から改まって「指きり」をねだられるのは、はっきり言って―――照れくさい。

        「・・・・・・なんだか、子供みたいでござるな」
        「いいじゃない、子供のする遊びを教えてくれるんだから、子供のやりかたで約束しても」
        そう言う薫の表情はいやに真剣で、剣心がどうはぐらかしたりしても、手を引っ込める気配はなさそうだった。
        剣心は降参の白旗を揚げるような気分で、そして、奇妙にくすぐったい気持ちで、自分も同じ形に指を立てた手を差し出す。



        そしてふたりは、互いの指と指を絡めて―――きゅっと力を入れた。



        ―――あ、柔らかいな。



        躊躇いながら差し出した指だったが、いざ触れてみるとそんなことを考えてしまい、離れるのが惜しくなる。
        我ながら現金なものだな、と。剣心は心の中で苦笑する。
        「・・・・・・指きりなんて、子供の頃以来でござるよ」
        「うん、わたしも」

        指きった、と。繋げた手をひとつ振って、離す。
        小指を絡めていたのは、ほんの僅かな時間だった。

        「・・・・・・じゃあ、約束したからね?絶対忘れちゃダメだからね?」
        やはり子供のように、繰り返し念を押す薫の無邪気さが可愛らしくて、剣心は笑いながら「承知いたした」と頷いた。薫はまだ何か言いたげに剣心を見つ
        めていたが、やがてその視線を逸らしてくるりと回れ右をした。
        「・・・・・・それじゃ、わたし着替えてくるから」
        「あ、うん」
        庭から母屋の中に向かう薫の後ろ姿を見送った剣心は、さて自分もここを片付けよう、と空になった盥に手を伸ばす。しかし、もう一度「剣心!」と声をかけ
        られ、反射的に振り向いた。
        縁側に立った薫が、なんとも言いがたい表情でこちらを見ている。



        「指きりしたんだから・・・・・・ちゃんと、夏になっても、ここにいてね」



        剣心は、はっと息を飲んだ。
        ひらりと身を翻し、薫は剣心の視界から消える。

        そしてようやく、剣心は薫の意図を理解した。
        彼女は、鬼灯の笛の作り方を教えて欲しくて、指きりをしたわけではなかった。




        鬼灯が色づく頃、夏になっても、俺がこの家にいること。その約束をしてほしかったのだ。




        剣心は、自分の気の至らなさを後悔して、思わず知らず口許に手をやった。
        「今度、教える」と提案したのも、指きりをしたのも、考えなしの言動ではないつもりだ。そのくらい、この家で暮らしていることは俺にとって当たり前のこと
        になっていたから―――ごくごく自然に、夏の約束をしてしまった。

        いや、それもある意味「考えなし」だったのかもしれない。
        俺がいつかこの家を去るかもしれないことを―――薫がこんなにも不安に思っていることに、気づかずにいたのだから。


        剣心は、先程彼女のそれに絡めた右手の小指に目を落とした。
        指きりをせがむ様子を微笑ましいと思ったが、あれは子供のような無邪気さからのお願いではなくて―――「ここからいなくならないで」という、切なる訴え
        だった。





        まだ指に残る余韻が、針を刺すような痛みに変わったような気がした。



        それはきっと、彼女の胸の痛み。
        そして、それは自分自身に返って来る痛みだということを、剣心は知っていた。















        2 へ続く。