7  涙






        頭上に見える僅かな空は、気がつくと墨色から濃紺にかわっていた。
        星明りのおかげで空が先程より明るくなっている。雨はすっかりあがったらしい。
        このぶんだと明日は晴れるかな、と。井戸の底で弥彦は考える。



        いいかげん、立ちっぱなしは疲れたので今は腰をおろしている。底にたまった雨水のせいで尻が冷たいが、そこは我慢するしかない。腕にはクロガネを
        抱いているのでそこだけはぽかぽかと暖かかった。ここに落ちてから結構な時間が経ったが、クロガネは不平を訴えることもなく大人しくしており、時折
        撫でてやると機嫌よく指にじゃれついてきたりもした。

        ここで夜明かし、というのはあまりぞっとしない話だが、真冬でもなし、凍え死ぬことはないだろう。朝になれば、表を通りかかる者もいるだろうから、そう
        したら改めて助けを呼ぼう。
        「でもまぁ、風邪くらいはひくかもしれねーなぁ」
        そうなるときっと薫に「まったくもう馬鹿なことをして!」とうるさく説教されることだろう。なんだかんだで看病もされるのだろうが、鬱陶しい小言について
        は剣心が「まあまあ」ととりなしてくれるとよいのだが―――


        と、そこまで考えて、はっとした。
        さっき、あんな言葉をぶつけておきながら、ごく自然に剣心と薫のことを考えた自分に驚く。
        ごく、自然に。
        そうか、あのふたりはそのくらい、自分にとって「自然」な存在になってしまったんだな、と。今更ながらにそう思って、弥彦の口元に苦笑が浮かんだ。
        喧嘩をしても諍いがあっても、そう簡単に自分の中から消えない存在。それはつまり、家族のような存在だ。


        「・・・・・・ほんとはさ、わかってたんだよ」
        苦笑まじりの呟きに、クロガネが不思議そうに首を傾げた。


        そうだ。本当はわかっている。
        自分に何かあったら、きっと剣心と薫は心配をする。それだけではなく、真っ当に怒りもする。
        そういうところは、あのふたりが夫婦になってやがて子供をつくって、新しい家庭を築いたからといって変わるものではないのだ。弥彦の知っている剣心
        と薫は、お人好しで世話焼きで、近しい人をとても大事にする―――そういう人間だ。

        そんなことは、本当は心の奥で、ちゃんとわかっていた。
        それなのに、「あいつらが新しい家族をつくったら、俺はどうなるんだろう」と考えてしまったのは―――



        つまり、寂しかったのだ。



        家族みたいなふたり。一緒に戦ってきた仲間であるふたり。
        そんな彼らが、ふたりだけで弥彦とは離れた場所に行ってしまったような気がして―――寂しかったのだ。


        それを認めるのは、悔しいような恥ずかしいような、情けないような気がして、わかっていながら知らないふりをして、胸の奥に封じ込めていた。
        しかし、こうして暗闇の中ひとりきりで過ごしているうちに、封じきれない寂しさがじわりじわりと浮上してきて―――認めざるを得なくなった。

        と、クロガネが何か抗議をするように、がじがじと弥彦の手首に歯を立てた。
        「いててててっ! ああごめんごめん! そうだよな、お前がいるよな」
        ひとりきり、と考えていたのを読み取ったようなタイミングに、弥彦は笑った。ぐりぐりと小さな頭を撫でてやると、クロガネは機嫌をなおしたらしく目を細め
        る。


        その時。
        頭上できらりと、光が瞬いた。



        「え?」


        井戸の入り口を掠めるように、一瞬きらめいた光。
        すぐに見えなくなったので、気のせいかと思った。が、再び光はちらちらとまたたきを繰りかえす。

        「弥彦ー!」 
        薫の声がした。
        「弥彦! どこでござるかー!?」
        続いて、剣心の声も。


        あいつら、どうして―――
        驚いた弥彦は弾かれたように立ち上がる。
        此処にいる、と答える声をあげようとして、叫びは喉の奥でつっかえた。 
        ここまできて、素直に助けを求めることができなかったのは、ようやく自覚できた寂しさが気恥ずかしかったのと、昼間薫に浴びせた雑言のばつの悪さ
        のせいだった。
        「弥彦、いるんでしょ!? 聞こえたら返事してー!」
        声をあげるタイミングを逃してしまい、上を向いたままためらう弥彦の姿に何をどう感じ取ったのか。クロガネは弥彦の代わりにといわんばかりに喉を反ら
        せて、「ぎにゃぁぁぁぁぁあ」と、大きくひと声、鳴いた。

        ぴたり、と。弥彦を呼ぶ声が止む。
        がさがさと草をかきわける音に続いて、ぱっと光が井戸にあふれた。
        ずっと暗闇に慣れていた弥彦には小さな太陽のようなそれが眩しくて、立ちくらみを起こしそうになる。


        「・・・・・・弥彦!」
        光は、剣心が手に持つ洋燈からだった。
        井戸の入り口に顔を出した剣心と薫は、落っこちそうなくらいぎりぎりに身を乗り出して底を覗き込む。
        「やだっ、ちょっと、もー! あんたなんでそんなところにいるのよー!」
        怒ったような泣き出しそうな声で、薫が叫ぶ。
        「落っこちたの?! 大丈夫なの?! 怪我は?! どっか痛くしてない?!」
        矢継ぎ早に質問が降ってきて、弥彦はようやく縮こまっていた喉から声を出した。
        「大丈夫! 怪我はねーし、どこも痛くしてないから」
        張りのある声を聞いて、とりあえず安堵の息をつく薫の横で、剣心は洋燈をかざして井戸の様子を窺う。
        「怪我がないのはよかったが・・・・・・登ってくるのは、無理そうでござるか?」
        「何度もやってみたんだけど、だめだった。ちょっと足場があれば何とかなりそうなんだけれど」

        剣心は目測で井戸の深さを確かめ、上からただ手を伸ばしただけでは引き上げられないだろうと見当をつける。そして何かを考えているふうだったが、
        すぐに屈んだ身を起こし、薫に洋燈を預けた。
        「薫殿、ついてきて」
        「え? うん、弥彦ー! ちょっと待ってなさいよー!」

        声とともに、剣心と薫は身を翻し、ふっと灯りが遠ざかり再び井戸には闇が降りた。
        少しして、何か硬いもの同士がぶつかりあうような音が響いてきた。そして、がさがさばきばきと木の枝が揺すられるような音も。
        いったい何をしているのだろうと、弥彦が上を向いたまま待っていると、やがてひょっこり剣心と薫が顔を出した。
        「弥彦ー、ちょっとこれを落とすから、向こう側に立っていてくれ」
        「これ・・・・・・って、何だ?」
        「丸太」
        「へ」
        「いいか? 落とすでござるよ」


        言うなり、にゅっと井戸の入り口に「丸太」の先が突き出される。井戸の壁に沿うように縦にされた丸太は、ごとん、と静かに落とされた。
        弥彦はすぐにそれに飛びつく。丸太、といっても太さはせいぜい大人の脚くらい。長さは弥彦の胸の高さといったところか。
        そしてそれは明らかに今伐り出したばかりなのが見てとれて―――どうやら、あのばきばきという音は木を切り倒す音だったようだ。この「丸太」を調達
        するために剣心は庭に植えられていた手ごろな木を逆刃刀で伐ってしまったらしい。相変わらず無茶苦茶なことを、と弥彦はこんな時ながら呆れつつ、
        頭上の剣心にむかって問いかけた。

        「なあ、これ、どーすんだ?」
        「斜めにして、井戸の壁に立てかけろ。足場になるでござろう?」
        弥彦ははっとして、改めてその丸太を見た。成程、真ん中あたりには足をかけられるよう切りこみも入れてある。これも剣心がやったのだろう。
        「即席の踏み台でござるよ、弥彦は身が軽いから出来るはずだ。それに乗ったら、あとは拙者たちが引っ張りあげるから」
        弥彦は頷いて、言われたとおり丸太を立てかけて、しっかりと安定する角度に落ち着ける。
        剣心はそれを眺めながら、腹を井戸のへりにくっつけるようにして、上半身を傾けた。
        「よし、大丈夫そうでござるな・・・・・・薫殿、すまないが」
        「うんっ!」
        剣心の意図を察した薫は、洋燈を置いて剣心の腰に後ろから抱きついた。
        「クロガネ、ちょっと我慢してくれよ」
        風呂敷包みを背負うように、弥彦はクロガネを背中にしがみつかせる。そして注意深く壁に手をついて、立てかけた丸太に足をかける。

        勢いをつけて、バランスを保ちながら。
        切れ込みを足がかりに、井戸の壁に手を這わして。ぐい、と曲げた膝を一気に伸ばした。
        壁にへばりつくようにして、立てかけた丸太の切り口の上に、つま先に力を込めて立つ。

        ぐっと、井戸の入り口が近くなった。  
        剣心は、腹を支点にするように、身体を折り曲げて手をのばした。


        「弥彦! 手を」
        声を合図に、精一杯腕をのばす。
        ぎりぎりで届いた手を、剣心はがっしりとつかむ。

        「薫殿!」
        「はいっ」
        「せーのっ・・・・・・」
        かけ声と同時に、剣心は弥彦の身体をぐいっと引っ張り上げる。
        薫は呼吸をあわせて、しがみついた剣心の腰を後ろに倒れるようにしながら、力いっぱい引いた。
        「よい・・・・・・しょっ!」



        力強い手に引っ張られ、身体が浮き上がる感覚。
        弥彦がそれを感じたのは一瞬のことで、あっという間に三人と一匹は、勢い余って草の上にべしゃっと倒れこんだ。



        広い空、頬にあたる風と、かさかさと乾いた草の感触。
        数時間ぶりの地上だ。
        狭くて暗い井戸の中の息苦しさから解放された弥彦は、肺いっぱいに新鮮な空気を吸い込んだ。


        「・・・・・・助かったぁ・・・・・・」
        晩秋の夜風は刺すように冷たかったけれど、気持ちよかった。枯れ草の上に大の字に身を投げ出したまま大きく息をつくと、一緒に引き上げられたクロ
        ガネがぺろりと頬を舐めた。
        「よかった、お前も無事みたいだな」
        弥彦は寝転んだまま首を倒し、クロガネの顎の下をくすぐってやる。クロガネは嬉しそうに喉を鳴らした。

        剣心はよいしょと身を起こし、腰をおろしたまま弥彦を見下ろしてほっとした笑みを浮かべる。次いで起き上がった薫は少しの間放心したように、無事を
        喜びあう弥彦とクロガネを眺めていたが―――ふいに、その眉間にきっと力がこもった。

        薫はおもむろに膝で立ち上がった。寝転ぶ弥彦の胸ぐらに手をのばし、むんずと掴んで引き起こす。弥彦が驚く間もないような、素早い動きだった。



        「・・・・・・こ、の、おおばかものっ!」



        庭の梢が震えるくらいの、大音声を浴びせられる。
        「あ、あんたって子は、散々心配かけたあげく、あんなところで何やってんのよっ!?」
        ぎりぎりと襟元を締め上げられて弥彦は目を白黒させる。先程の非常時に、少女たちには威嚇をしてみせたクロガネだったが、このたびは薫の迫力に
        のまれてしまったようだ。背中の毛を逆立てながらも、ふたりの傍らで黙ったまま身動きをとれずにいた。

        「あ、えっと、ごめん、これには色々と訳が―――」
        「問答無用っ!」
        薫は弥彦を捕まえたまま、どっかりと地面に腰をおろす。そしてぐるんと弥彦をひっくり返すようにして、自分の膝の上にうつ伏せにさせた。


        そして。
        ばしーん、と。
        弥彦の尻で、景気のよい音が鳴った。


        「いっ、てぇぇぇぇぇ!」
        力一杯、平手で尻を叩かれて、弥彦は悲鳴をあげた。
        「あんな、訳のわからないこと言って! わたしと剣心があんたのこと心配しないわけがないじゃないの! そんな当たり前のこと、ここまで滅茶苦茶し
        ないとわからないわけ!?」
        べし、ばし、ばちーん、と。薫は叱りつけながらも尻を叩く手をとめない。クロガネは、完全に薫を弥彦より上位の存在と位置づけたのか、はたまた動物
        ならではの感覚がはたらいたのか、とにかく危うきに近寄らない方がよいと判断したらしく、怯えたように小さく縮こまっていた。

        「ぎゃ! 痛てっ! ちょ、ごめんっ、ほんとに今回は俺が悪かったってー!」
        「まあまあ薫殿、弥彦も反省しているようだし、そのくらいで―――」
        「剣心は黙っててっ!」
        「はいぃっ!」
        びしっと一喝されて黙らされた剣心を見て、弥彦は「尻に敷かれてるなぁ」と素直な感想を抱いたが、また一発思いっきりぶっ叩かれてそんな呑気な事
        を考えている場合ではなくなった。
        「怪我がなかったからよかったけれど! あんたこんなとこに落ちて打ち所悪かったら洒落にならないのよ!? わかってるの!?」
        「い、いや別に落ちたくて落ちた訳じゃ、って、ぎゃあっ! マジ痛いって! ごめん謝る! さっきの暴言も込みで謝るからー!」
        ふり上げた薫の手が、一瞬止まった。そして、もう一度ふり下ろされたが、先程までの容赦ない力はこもっていなかった。


        「・・・・・・そうよ、わたし、自分がお節介なことくらい、わかってるわよっ。でも、そんなの当然じゃない! あんたはまだ子供で、わたしの弟子で、わたし
        たちの家族みたいなもんなんだから、お節介もやくし心配もするわよっ! それを、い、今更あんたは・・・・・・」
        薫は攻撃の手を止めずに弥彦を叱りつけていたが、次第に、その声が震え始めた。比例するかのように、叩く手からも力が抜けてゆく。

        「あんなこと言って、なかなか帰ってこないんだから・・・・・・あ、あんたが二度と帰ってこなかったらどうしようかって、ほんと、そう思ったんだからねっ!
        この馬鹿っ!」
        いつか手は止まり、絞り出す声は、もう泣き声になっていた。
        弥彦は、じんじん傷む尻をかばいながら、そろそろと身を起こし、薫の顔を見る。と、がしっと薫の両手が弥彦の肩を掴んだ。
        真っ正面にいる薫は、ぼろぼろと大粒の涙を流しながら、きっと弥彦を見据えていた。


        「もう、こんな心配はかけないって、約束して」


        真剣な声音に、弥彦は一瞬痛さを忘れた。
        そして、全身の力が抜けるのを感じた。



        「約束、する・・・・・・ごめん」






        薫は、自分の着物が汚れるのも構わず、濡れ鼠の弥彦を思い切り抱きしめると、声をあげて泣き出した。
        そんなふたりを眺めながら改めて安堵の息をつく剣心に、クロガネはすり寄って一声「みぎゃあ」と鳴いた。















        8  「家族」 へ続く。