「いやぁ、凄い降りになってきたでござるよ」
夕刻、帰宅した剣心は警察署から貸してもらった傘から雨粒を振り落としながら、薫にただいまを言った。
「遅くなってすまない、ちょっと進展があったものだから・・・・・・」
「あらあら、ちょっと濡れちゃったわね。着替えなきゃ風邪ひいちゃうわよ」
とりあえず、と手渡された手ぬぐいを受け取りながら、剣心は訝しげに眉を寄せた。
「薫殿」
「ん、なぁに?」
「何か、あったでござるか?」
ぴく、と。薫の唇の端がひきつるように震えた。
「どうして?」
「どうしてって、いや、何だかしゅんとしているようだか、ら・・・・・・」
そう言い終わる前に、どん、と剣心の胸に薫がぶつかってきた。
「・・・・・・薫?」
なにも、言わなかったのに。
表情に出ないよう、気をつけていたのに。
それでも、一目で落ち込んでいることを、看過されてしまった。
薫は剣心の襟のあたりに、無言でぐりぐりと額をこすりつけた。
剣心は彼女の細い肩をそっと抱こうとして、自分の袖が雨に湿っていることを思い出す。
「すまぬ、冷たいでござろう」
「・・・・・・わたしこそ、ごめんね。着替えなきゃって言ったのに」
「着替えた後で、何があったか教えてくれる?」
額を更に押し付けるようにして、薫はこくんと頷いた。
雨の中歩いてきた身体を熱いお茶であたためながら、剣心は薫の話に耳を傾けた。
弥彦に投げつけられた思いがけない言葉は、一言一言が鏃のように薫の心に刺さりこみ、傷になってずきずきと痛みを訴えている。剣心に話をしている
うちに先程受けた衝撃と哀しさがまた蘇ってきて、薫は小さな拳をきゅっと握りしめた。
「なんで突然、あんなこと言ったのかしら・・・・・・」
赤の他人のくせに、だなんて。
そんな、他人であることは互いに百も承知だろうに。
今、この道場にいる三人は、もともと縁もゆかりもなく集まった三人だ。けれど、この数ヶ月の間、一緒に過ごして同じ場所で同じものを食べて暮らして、
さまざまな事件を一緒に乗り越えたのだ。他人でも、血のつながりはなくても、それでもまるで家族みたいに過ごしてきたのに。
「だからそんなの、心配したりお節介やいたりするのなんて、理屈じゃなくて当然じゃない! それなのに今更、どうして・・・・・・」
語尾が、泣きそうに揺れる。
剣心は湯呑みを置いて、手をのばして薫の髪を撫でた。
「叱ってやったでござるか?」
「叱ればよかったんだけど、もう、愕然としちゃって・・・・・・叱れなかった」
叱ってやればよかったわ、とうつむく薫の肩を、剣心は抱き寄せた。
「拗ねて、いるのかな」
「え?」
顔をあげると、とても近い距離で剣心と目が合った。薫は、こんな時だというのに近すぎる距離を恥らって、慌てて視線をそらす。相変わらずの初々しい
様子が可愛らしくて剣心はつい相好を崩しかけたが、大事な話の途中ということを思い出して意識して口元を引き締めた。
「弥彦でござるが、仲間はずれになった気分でいるのかも」
「仲間はずれ?」
「だって、ほら、拙者と薫殿は、その・・・・・・もう夫婦みたいなものでござろう」
ぼっ、と火がついたように、薫の顔が赤くなる。
「ま、まだ正式には、色々ちゃんとしてない、けれど」
「うん、まぁ、正式には、これからでござるな」
つられたように剣心の頬にも血がのぼる。
お互い照れくさそうにえへへと笑いあい、こんな時だというのにほのぼのとした空気が流れた。
しかしそれは一瞬のことで、真剣な話の途中ということを思い出して薫は反論した。
「で、でも! だからって別にわたしたち、あの子を仲間はずれになんてしていないし、第一そういう話だって、弥彦にはまだ・・・・・・」
「言ってはいないが、一緒に暮らしていれば感じ取るところも、あるでござろう」
「それ、は」
薫は、ぐっと言葉を飲み込む。
この数ヶ月のうちに、すっかり変わってしまったふたりの距離感。
以前はちょっと手が触れただけでも、胸の動悸が苦しいほどだったのに―――いや、実際のところ今でもそれだけでどきどきしてしまうのだが、それにし
ても。以前はこんなふうに肩を抱かれるとか不意打ちに口づけられるとか、あまつさえ、夜を一緒に過ごすことなど考えられなかった。
「べ、別に弥彦の前でべたべたした覚えはない、けど・・・・・・わかっちゃうものなの、かなぁ」
困ったように頬に手をあてる薫の横で、剣心は「あるいは夜にあれやこれやしているのを感づかれてしまったのかな」と心の中で呟いた。しかし、そんな
ことを口に出したら間違いなく今夜から薫は自分に指一本触れさせてくれなくなるだろうから、思うだけにとどめておく。
「・・・・・・わたし、剣心は特別に大事なひとだけど、だからって弥彦をつまはじきにするつもりなんてないわ。そんなこと考えたこともなかった」
「拙者も、全く同じでござるよ」
「弥彦は、そうは思えなかったのかしら」
薫の沈んだ声をすくいあげるように、剣心は「それに、左之の一言もあったことでござるし」と付け加えた。
「あ、そういえば」
お邪魔虫、云々と言っていたっけと、薫は旅立つ間際の左之助の台詞を思い出した。おそらく彼はそんな深い意味もなく口にしたのだろうが―――
「長屋に移れとか何とか言ってたわよね・・・・・・もぉぉ、左之助ったら余計な事吹き込んでぇ!」
海の向こうの何処かにいる左之助にむかって薫は語気を荒げたが、それに対して剣心が続けた言葉は、薫におっては思いがけないものだった。
「案外、余計なことでもないのかも」
「えっ?」
「いや、いつか弥彦がこの家を出るとしたら、当然住む場所が必要でござろう?」
「弥彦が?」
薫は、いつか剣心が言った言葉を思い出した。
いずれは皆、それぞれの道を歩み、それぞれの人生を生きてゆく。
それは別れではなく、旅立ち。ずっと、同じ場所にはいられない。
「・・・・・・確かにあの子も、いつかは大人になるわけだけれど」
「まだまだ、何年も先のことではござるがな」
時は刻々と流れ、人は各々の人生を歩み続ける。
その道筋は時に交わって、時に離れて、時にひとつになり、未来へと続いてゆく。
「わたしたちは」
「ん?」
「わたしたちは、ずっと、一緒にいるのよね」
「ああ、ずっと」
変化を遂げたふたりの距離。
別々の道を歩んできたふたりが出逢って、いつしか同じ方向へと並んで歩くまでに距離は近づいて。
そして距離は零になり、ひとつになる。
「ずっと一緒にいることが・・・・・・わたしたちの『旅立ち』?」
「うん、それが『始まり』でござるな」
剣心は、薫の肩を引き寄せて、細い身体を胸に抱きこんだ。
「これからは、同じ道でござるよ」
剣心の胸に顔をうずめながら、薫は「不思議ね」と呟いた。
「わたしたち、一年前にはお互いの顔も知らなかったのにね」
「今となっては、その頃がはるか昔のことのようだ」
「大げさねぇ」
「だって、薫殿に会っていなければ、拙者はまだ根無し草の暮らしでござったよ?」
「そう言われると怖いわ・・・・・・わたしは道場乗っ取られて今頃どうしていたことか」
「でも、そうはならなかった」
薫は頷いて、仮定の過去ではなく確かに存在する未来に思いを巡らせる。
「剣心のおかげで、こうして道場は無事だったんだから・・・・・・今に、門下生が沢山増えるといいな」
「きっと増えるでござるよ。薫殿、頑張っているのだから」
「きっとそのうち、わたしは剣心の赤ちゃんを産んで」
「家族が増えて、賑やかになって。ふたりで道場を盛り立てていって、弥彦もどんどん強くなっていって」
「・・・・・・やっぱり、ちょっと考えられないわね」
「弥彦がいない未来が、でござるか?」
「あら、剣心も?」
ふたりは、抱き合ったままくすくすと笑った。
つくづく、人と人とのめぐり逢いは不思議だ。
一年前には顔も知らなかった、元気いっぱいで生意気な少年のことを、今では剣心も薫もかけがえのない家族のように感じている。
「弥彦は、赤べこでござろうか」
「拗ねてるっていうなら、お門違いだって叱ってやらなきゃ」
「それでは・・・・・・」
薫は、剣心の胸から顔をあげて、にっこりと笑った。
「うん、迎えにいきましょ」
★
今、何時頃なんだろうか。
弥彦ははるか上にのぞく、まるく切り取られた形の空を見上げる。
幸いにして、先程からの驟雨は一段落し、今はけぶるような霧雨が静かに井戸の底へと降りてくるのみだった。
弥彦が落ちた井戸は、もう随分前に涸れてしまったようで、下に水はたまっていなかった。
先刻の激しい雨は容赦なく井戸の中にも降り注ぎ、身を隠す場所がない弥彦は頭からびしょ濡れになった。
水責め、という不吉な単語がよぎったが、流石に井戸を満たして弥彦の呼吸を奪うほどの量が降ることはなかった。とりあえず、乾いていた底にうっすら
水が溜まる程でとどまったが―――ひたひたと足が水に浸かっているのは、不快な事このうえない。
「・・・・・・このくらいの深さ、剣心や左之助なら、あっさり抜け出せるんだろうな」
井戸は、さほど深くはなかった。弥彦の身長をふたりぶん重ねたくらい、といったところか。
大人なら―――それも、弥彦が知っているずば抜けて身体能力の高い大人たちなら、難なく脱出できる深さだろう。
―――しかし、自分には無理だ。
跳躍の助走すらつけられない、狭い井戸の中である。飛び跳ねて出られないかと何度も試してみたが、徒労に終わった。
壁をよじ登ろうと挑戦もしたが、円い形を描いた井戸の壁にはびっしりと湿った苔がへばりつき、手がかり足がかりになる箇所もない。
「・・・・・・なっさけねーなー」
剣術を始めてから、毎日真面目に稽古を積んできた。努力は弥彦を裏切らず、これまでの戦いで大人相手に勝利を収めたこともあった。なのに、この程
度の深さの井戸に落ちたくらいで、どうすることもできなくなってしまうという、今の事実。
なんだかもう、こうなると泣けるよりむしろ笑えてくる。そんな心情を感じとったのか、懐でクロガネが「ぎゃー」と鳴いた。
「まぁ、お前に怪我がなくてよかったよ」
クロガネをしっかり抱いたまま落下した弥彦は、底にぶつかる瞬間も腕の中の柔らかい生き物を決して離さなかった。
無防備に落っこちたにも関わらず、負ったのは打ち身と擦り傷くらいで済んだ。どこも挫いたり捻ったりしなかったのは、クロガネを守ったことに対する神
様からのご褒美だったのかもしれない。
クロガネを奪い返そうをした奴らは、弥彦が井戸に落ちるのを見て怖くなったのだろう。そのまま去ってしまって戻ってくる気配はない。ちょっと覗いてみ
れば弥彦が無事なことはすぐわかっただろうに―――しかしながら、奴らに助けを求めるのも業腹なのだが。
実のところ、どんなに試しても自力で脱出するのは無理だと悟った時点で、助けを呼ぶ声をあげてもみたのだ。
けれども空き家の庭の広さはかなりのもので、弥彦の声は表通りまでは届かず―――仮に届いたとしても、こんな天候のこんな時間に、こんな寂しい
場所を通りがかる人もそういないだろう。結果として、声を聞きつけて助けにくる者はいなかった。明るくなれば、また少しは違うのかもしれないが。
「ここで夜明かしか・・・・・・キツイけど仕方ねーか」
独り言に答えるように、クロガネがまた鳴いた。
クロガネが一緒にいること。会話をすることはできなくとも、井戸の中で孤独ではないことが、今の弥彦にはとても心強かった。
★
「え!? まだ帰ってへんのですか!?」
日はとっぷりと暮れていたが雨はあがり、赤べこはまだまだ賑わっていた。客たちは箸で鍋をつつくのと杯を空にするのにせわしなく、あちこちの席から
機嫌よく酔った笑い声がはじけている。
篠突く雨に冷やされた外とは対照的に、店内は旨そうな匂いと人いきれとで熱く浮かれた空気が満ちていた。そんな中、店先だけ雰囲気が急に張り詰
めたものになる。
「店を出たのは、もう随分前のことなんやけど・・・・・・」
弥彦を迎えにきた剣心と薫の顔を見る妙の表情が、気遣わしげに曇る。剣心は、妙の台詞に薫の顔色がさっと白くなるのを見て、彼女の肩に手を置い
た。
「いつ頃に、店を出たんでござろうか?」
「えーと、そう、まだ雨が降り出す前だったわ。今日は手伝いの日やないから、ほんとに顔を出した程度で」
それなら、もう数時間が経過している。あの天気の中、弥彦はどうしていたのかと想像し、薫は無意識に両の頬を手で覆う。
冷たい雨に降られて、この暗い中いったい何処に。
あの時、やっぱり叱り飛ばせばよかった。驚いていたからとはいえ、何故いつもどおりに―――
「薫殿、大丈夫でござるよ」
「でも」
不安に声が揺れる薫にぐっと顔を近づけて、剣心は彼女の瞳をまっすぐ見据えながら訊いた。
「ここ以外に、弥彦が行きそうなところといえば・・・・・・前川道場でござろうか」
しっかりとした声音に、薫はなんとか取り乱すのを踏みとどまる。
そうだ、おろおろしている暇があるのなら、一刻も早く弥彦を見つけなくては。そのためには、自分もしゃんとしなくては。
薫は数回ゆっくりと呼吸を繰り返し、息を整えてから心当たりを答えた。
「前川先生のところなら、きっと連絡が入るだろうから、行ってないんじゃないかしら。それよりあの子、むこうの道場に来ている同じ年頃の男の子たちと
ちょくちょく遊んでいるから、ひょっとしたら・・・・・・」
「じゃあいずれにせよ、まずは前川殿のところに行かねばでござるな。その子らの家の場所を訊いて―――」
「あっ、あの!」
店先の三人は一斉に、割り込んできた声のほうを向いた。
妙の背から顔を出したのは、燕だった。もう仕事を上がったあとだったのか、エプロンを外した姿で、切羽詰った顔をしている。
「わ、わたし、知ってます! 弥彦くんの行った場所!」
近くにいた客たちが、何事かと剣心たちに目をやる。そのくらい、燕の声は大きかった。
普段は控えめでおとなしい燕が、こんなふうに喋るのは珍しいことだ。
「まだ帰ってないって・・・・・・きっと、何かあったんです! 弥彦くん、クロガネを返しに行って、それで・・・・・・」
燕は、夢中でここ数日に起きた出来事、そして先程、自分たちがこっそり世話をしていた「黒猫」の飼い主が訪れたことなどを話した。その猫の特徴を聞
いて、剣心の眉がぴくりと動く。
「燕殿、その飼い主というのは、赤い色の洋服を着た少女では」
「ご存知なんですか!?」
昼間、耳にした、黒豹の子供を捜しているとおぼしき少女。あの農婦の証言により、その行方は警察も追っている最中だ。と、すると―――
「今は、弥彦を捜すのが先でござるな。拙者たちはその空き家に」
「わたし、案内します!」
勢い込んで申し出た燕の肩に、薫はそっと手を置いて首を横にふった。もう遅い時間だし、そこで何か危ない事態が起きないとも限らない。
「こんな時間だし、冷え込んできたわ。わたしと剣心とで行くから、燕ちゃんはここで待ってて」
「薫殿、わかるのでござるか?」
「ええ、わたしが小さい頃から有名なお化け屋敷だもん。この辺で育ったひとは大抵知っているわ」
薫の言葉に剣心が頷く。ふたりが礼を言って赤べこを辞去しようとすると、妙が「待って」と引き止め、店の奥から手提げの洋燈を持ってきた。
「あそこはろくに灯りもない場所やから、持って行くとええわ」
剣心と薫は、妙の厚意をありがたく受ける。燕は、小さな両手をぎゅっと胸の前で握りしめ、必死な様子で訴えた。
「あのっ、弥彦くんを・・・・・・お願い、しますっ!」
一瞬、緊張がとけたふたりは、つい頬をほころばせる。自分たちは家族として弥彦の身を案じているが、燕の声音からは友人として―――そして、それ
以上の感情で弥彦を想っている色が滲み出ていた。それは、燕自身もまだはっきりと自覚していない想いかもしれないが。
剣心と薫は、かわるがわるに燕の頭に、ぽんぽんと優しく手を置いた。
「大丈夫でござるよ」
「そうよ、ちゃんと見つけて、きっちり叱ってやるんだから」
そして、ふたりは店を飛び出した。
燕はふたりの背中を見送りながら、固く握った手を祈るような形に組み直す。
「弥彦くんのことや、絶対に無事でおるよ」
後ろに立つ妙の手が両肩に置かれ、燕は深く頷いた。
しかし―――
薫さんが言っていた「叱ってやる」とは何のことだろう。
クロガネを隠れて飼っていたことのほかにも、何かありそうな雰囲気だったけれど。
7 「涙」 へ続く。