心臓がひとつ高くなって、弥彦は半歩後ろに退いた。
燕が助けを求めるような顔で、こちらを見ている。
「どうして、俺たちが知ってるって・・・・・・」
「あら、そんなの顔を見てすぐにわかりましたわ、あなたたち隠し事が苦手なようなんですもの。いえ、褒めているのですよ? 正直なことは賞賛すべき
美徳ですわ」
褒めているというよりはむしろ、梢の口調はからかっているようだった。
弥彦と燕は、答えに迷って黙り込む。
しかしそれは僅かな間だった。ふたりは目と目で互いの意思を確認し、小さく頷きあう。
「・・・・・・店の裏手に迷い込んだのを、俺たちが見つけたんだ。今、ふたりで世話をしている」
梢の顔が、ぱあっと明るくなる。
「さっきは知らないって言って・・・・・・その、すんませんでした」
「いいのですよ、あなたたちが面倒を見ていてくださったんですね? それなら、お礼を言いたいくらいですわ」
先程嘘をついた罪悪感と、クロガネを返さなくてはならない事実にうなだれる弥彦と燕に、梢は嬉々とした笑顔をむける。
「それに、あの子はとっても珍しくて、あんなに可愛いんですもの。手元に置いておきたくなる気持ち、わたしもよくわかりますわ・・・・・・で、あの子は今何
処にいるのですか?」
「この店からちょっと離れた、空き家にいるんだ」
「それでは、案内していただけますか? わたしたちの食事が済んでから」
「あ、でも、わたしまだお店が・・・・・・」
「いいよ、俺は今日手伝いじゃないから、俺が案内する」
困り顔の燕に弥彦が助け舟を出す。燕は安心と残念が入り混じった表情で頷いた。
「うん・・・・・・そうだね、ありがとう弥彦くん」
ふたりのやりとりを眺めていた梢は満足そうに息をついて、いそいそと箸を手に取った。
「そうと決まったら、まずはお食事ですわね。小太郎、あなたもおかけなさいな」
脇に控えていた小太郎が大きな体を折り曲げて、「おそれいります」とかしこまった礼をした。
梢たちが牛鍋をつついている間、厨房の隅で待っていた弥彦の袖を、燕がつん、と引いた。
「わたしのぶんも、クロガネにさよならを言ってあげてね」
弥彦に負けないくらい、クロガネを可愛がっていた燕。
飼い主に返したら、もう会えることはないかもしれない。
せめて、最後にもう一度抱きしめて、頭や背中を撫でてあげたいのが本当のところだろう。
「ごめんな、俺ひとりで」
燕はふるふると首を横に振った。
ふっ、と唇が歪んで、弥彦は「あ、泣くのかな」と思った。しかし、燕はぐいっと頬を両手で挟んで持ち上げるようにして、笑顔を作ってみせる。
「だいじょうぶっ! 最初から、もとの飼い主さんが見つかるまでの保護だって決めていたんだもん。クロガネだって、もといたおうちに帰れたら、きっと喜
ぶよね」
泣き顔を押さえ込んだ燕は、そう言って気丈に笑った。弥彦はまぶしそうに目を細め、燕の頭をぽんぽんと軽く叩くように撫でた。
「お前、めそめそぐずぐずしなくなったよなぁ」
「え、そ、そうかな?」
「前はすぐにぴーぴー泣いていたのによ」
「ぴーぴーとは言ってないもん・・・・・・」
「最近は、俺のほうがうじうじぐずぐずしてるっていうのにさ」
「え」
どういう意味かと問おうとすると、燕を呼ぶ妙の声がした。
「ほら、行ってこいよ」
そう促された燕は、後ろ髪を引かれる思いで妙にむかって返事をした。
★
「まあ・・・・・・凄い迫力ですわねぇ」
荒れ果てた廃屋を前にして、梢が歎息した。
赤べこで牛鍋を食べ終えた梢と小太郎を例の廃屋まで案内した弥彦は、自分が先んじて塀の穴から中に入ったあとで、内側から閉ざされた門を開けて
やった。いかにも高価そうな洋服を身につけた少女に膝をついて穴をくぐらせるのは酷だったし、上背もあり肩幅も広い小太郎は、頭だけ入ったところで
穴につかえてしまうだろう。
そろそろ黄昏時という刻限、雨になりそうな空模様とあいまって、薄暗いなかで見る廃屋は狐狸妖怪の棲み家のような雰囲気を漂わせている。
「あっち。裏手のほうにいつもいるんだ」
もとはそれなりに手を入れられ剪定されていたであろう庭は、今や野草たちが自由を謳歌している。弥彦が好き放題に生い茂った草を掻き分けてゆく後
を、梢は自分の肩を抱くようにしてついて歩く。
「気味が悪いところですわね。まあ、こういう場所を見ることも社会勉強のひとつでしょうか」
背中から聞こえてきた言葉には馬鹿にするような響きが含まれており、かちんときたが、聞き流すことにした。まがりなりにも少女は、クロガネの飼い主
なのだから、ケンカはしたくない。
弥彦は、空き家の裏側にまわり、身体を低くして縁の下に呼びかけた。
「クロガネー!」
きら、と縁の下で小さな光点がふたつまたたく。
腕をのばすと、暗がりから姿を見せたクロガネは軽やかな足どりで弥彦に駆け寄り、ぴょんとその手に飛びついた。
「よしよし、いい子にしてたかー?」
クロガネを腕に抱きながら、体中についた埃をはらってやる。ついでに顎のあたりをくすぐってやると、ごろごろと気持ちよさそうに喉を鳴らした。
こんなに懐いてくれて、弥彦と燕を信頼しきって、訪れるたびに思い切り甘えてきたクロガネ。
頼ってくれる小さな存在がいなくなってしまうことは、今の弥彦にとっては、とても寂しいことだった。
けれど、クロガネだって、ほんとうの飼い主のところに戻れるのことは、嬉しいにきまっているのだ。
自分の我儘で、手元に置き続けるわけには、いかないのだ。
「ほら、ご主人様がむかえにきたぞ」
心の中で自分自身を説得しながら、弥彦はクロガネを抱いて梢に向き合った。
梢は嬉しそうに微笑んで、クロガネを抱くために両手を差し出した。しかし。
「・・・・・・クロガネ?」
ぐるるる、と。クロガネは小さな身体に似合わぬ凄みのある唸り声をあげた。
小さいが、鋭い牙を剥き出しにし、明らかに目の前にいる少女を威嚇している。
「どうしたんだよ、ほら、お前の飼い主だろ?」
赤子をあやすように、弥彦はクロガネを軽く揺すりながら梢に近づいた。けれどもクロガネは、少女に対する敵意を消そうとはしない。
「いい子ね、なんにも恐いことなんてないんですのよ? ほら、いらっしゃい」
梢はクロガネの警戒を無視し、にこやかに微笑みながら、弥彦の手からクロガネを抱き取ろうとした。
と、クロガネは短い鳴き声とともに、しゅっと前脚を繰り出す。
「きゃあっ!」
梢は腕を引っ込めて、引っ掻かれそうになるのをすんでのところで逃れたが、さっと顔色が白く変わる。
狙いが外れたクロガネはそれでも前脚を突き出して、彼女を攻撃しようと暴れている。
「ちょ、こら、クロガネ! 何やってんだ!」
弥彦はクロガネの頭を片手で押さえつけ、叱責の声をあげる。手のひらの下でもがいていたクロガネは、次第に諦めたのか暴れるのをやめ、いつもの様
子で頭を擦り付けてきた。まるで、弥彦に謝っているかのように。
「・・・・・・ずいぶんと、従順に手懐けたのものですわね」
ひんやりとした声音に、弥彦は顔をあげて視線をクロガネから梢へと向けた。
一瞬前までの笑みは消え、青ざめた顔で弥彦とクロガネを睨みつけている。
「小太郎!」
少女の背後で大きな影が動いた。
名前を呼ばれただけだったが、小太郎は心得たように手にしていた鞄を開ける。
中から取り出したのは、袋。クロガネ一匹が入る程に大きさの、麻で編んだ袋だ。
「なっ・・・・・・やめろよ何すんだよ!」
口を開けた袋を構えながら小太郎が近づいてきて、弥彦は反射的に後ずさった。
「大丈夫、危険だからこれで持ち帰るだけですわ。あなた悪いけれど、中に入れてちょうだいな」
「冗談だろ?! かわいそうじゃんそんなの!」
そんな、荷物みたいに扱うだなんてとんでもないと、弥彦はクロガネを抱いたまま本格的に小太郎から逃げる姿勢をとる。素直に命令に従いそうにない
ことを見て取って、梢は苛立った声をあげた。
「だってそうしないと、わたしが引っ掻かれてしまいますわ!」
「だからって大ゲサだろ! たかが子猫に!」
「・・・・・・あなた、それがただの子猫だと思っているんですの?」
梢は小馬鹿にしたような目で、弥彦を見た。弥彦は訝しげに眉をひそめる。
そうだ、梢は赤べこでクロガネのことを、「猫のような」と言った。
いや、大体弥彦にしても、この子は普通の猫と違うと薄々感じてはいたのだが―――
「その子はね、外国の猛獣ですのよ! 成獣はとても危険で恐れられていて・・・・・・その子はまだ赤ちゃんだけれど、それでも猫なんかよりずっと獰猛な
んですから!」
梢の解説に、弥彦は驚くよりむしろ納得した。
見たこともない目の色や毛の模様も、子猫らしい顔つきなのにいやに身体が大きいことも、それですべて説明がついたからだ。
そして、納得するのと同時に―――今朝の薫の言葉が頭の中でよみがえった。
『盗まれた猛獣、まだ見つかっていないんですって』
『まだ、赤ちゃんらしいわよ』
弥彦は、クロガネを抱く腕に力をこめ、腰を低く落とした。
「・・・・・・クロガネは、本当にお前が飼っているのか?」
「は!? 失礼ですわね! だからこうして捜していたんじゃないですか!」
お前と呼ばれたことで梢の顔がますます険しくなり、声も喚き声に近くなる。対して弥彦は冷静だった。
「じゃあ、名前、言ってみろよ」
「えっ?」
「俺たちは勝手にクロガネって呼んでいたけれど、飼っていたなら、あるんだろ? こいつの本当の名前」
「と、当然よ」
そう答えたものの、明らかに梢は困惑した様子で眉間に皺を寄せる。
「えーと、何だったでしょうか、ジョージだったかしらエドワードだったでしょうか・・・・・・いや違いますわねもっとこう・・・・・・」
「・・・・・・わかったよ、もういい」
弥彦はクロガネをしっかりと抱え直し、改めて少女を睨んだ。
「もう白状しろよ! クロガネはお前のものじゃない! 本当は居留地から盗んできたんだろ?!」
梢の顔色が、さっと変わった。
きつく握りしめた拳が震え出すのが、弥彦にも見てとれた。小太郎は袋を構えたまま心配そうに梢の顔をうかがっている。
やがて、黙り込んでいた梢は口を開いた。観念したというよりは、居直ったように。
「・・・・・・嫌ですわ、表沙汰にはなっていない筈なのに、何故こんな子供が知っているのでしょうかね」
「お前だって子供だろ・・・・・・生憎だけど警察の情報が入ってきやすい環境にいるんだよ」
弥彦はちらりと地面に目をやった。まさかこんな事態になるとは思ってもいなかったから、竹刀は袋に入ったまま防具と一緒に縁側のそばに転がしてあ
る。その傍らには、悪いことに小太郎が立っており、竹刀を手に取るのはまず無理であろう。
「・・・・・・あのさ、俺はちゃんと本当の飼い主にこいつを返してやりたいだけなんだ。お前ら盗っ人を逮捕したいわけじゃねぇ」
「どういう意味?」
「このまま俺はお前らを見逃す。そしてクロガネを居留地の飼い主に返す。そうすりゃ万事まるくおさまるだろ?」
「・・・・・・おさまるわけないじゃないですか、わたしは、その子が欲しいだけなんですわ」
聴く耳持たぬ、といった風情で、梢は小太郎に顎をしゃくって見せた。
「ずっと見ているだけだったその子をようやく連れ出せたというのに、うっかり逃げられてしまって・・・・・・それをやっと見つけたんですのよ!?
邪魔をしな
いで!」
梢がそう言い終わると同時に、小太郎が身体を動かした。飛びかかってきた巨体を弥彦は素早くかわして避け、くるりと彼に背を向ける。
たたらを踏んだ小太郎はすぐに体勢を整え、もう一度弥彦につかみかかろうとする。
走り出そうとした弥彦の首に、太い腕がかかり、ぐいっと上に持ち上げられた。
弥彦の足が地面を離れ宙に浮く。しかし小太郎の優勢は一瞬のものだった。
弥彦は目を閉じて、思い切り勢いをつけて頭を上に突き出した。
ごっ、と音がして、頭突きは小太郎の顎に命中する。
たまらず姿勢を崩した隙に弥彦は首にかかった腕からすり抜け、ついでに小太郎の足首を鋭く爪先で蹴った。
「ぐぁっ!」
均衡を失った大きな身体が尻餅をついた。
いける、このまま逃げられる―――そう、思った瞬間。
予想していなかった方向からの衝撃を受け、弥彦はクロガネを抱えたまま大きくよろめいた。
「うわ! って、おい!」
弥彦を突き飛ばしたのは梢だった。
転びそうになった姿勢を整える間もなく、遮二無二しがみついてクロガネを引き剥がそうとする梢に閉口し、弥彦は後ずさりする。できればあまり女の子
相手に喧嘩はしたくないのだが―――
そんな躊躇が、油断を生んだ。
「・・・・・・っわ!」
突然、目の前が暗くなる。
梢ともみあっているうちに、背後から近づいた小太郎が、がば、と麻袋を弥彦の頭に被せたのだ。
視界が阻まれて、何も見えない。
大きな手に、がっしりと両肩を掴まれたのがわかった。
「でかしたわ! 小太郎!」
忠実な従者を褒め称える、少女の誇らしげな声が聞こえた。同時に、彼女の手が弥彦の腕にかかる。
ああ、クロガネが連れて行かれる。
そう思った瞬間、クロガネが鳴いた―――いや、叫んだ。
「ぎゃあぁぁぁぁぁぁぁぁんんん!」
今まで聞いたことがない、千切れるような痛々しいクロガネの声。
その声に、胸に浮かびかけた「諦め」という文字が霧散する。
そうだ、決めたんじゃないか。
クロガネをちゃんと飼い主のもとに帰してやるんだって。
それまでは―――俺が守ってやるんだって!
視界を遮られたまま、弥彦はじりりと後ずさった。
かかとが、小太郎の爪先に当たる。
弥彦は見当をつけて、その片足をすっと上にあげた。そして、出来る限り鋭く、力をこめて、足を下ろす。
「・・・・・・うぐっ!」
全体重をかけて弥彦に足を踏まれた小太郎は、たまらず肩から手を離した。弥彦は麻袋をかぶったまま、やみくもに横に跳んだ。
クロガネの身体をもぎ取ろうとしていた梢の指が、空をつかむ。
目隠しをされた状態のまま跳びすさった弥彦は、転ばないよう必死に足を踏みしめようとした。しかし、どん、と何か硬いものに腰からぶち当たる。
「っ・・・・・・?!」
勢い余って、その硬い何かの上に乗り上げるようにして、尻餅をつく。腕に抱いたクロガネを庇いながら、弥彦はかぶせられた袋を取り去って立ち上がろ
うとした。
その時、弥彦の下で、みしりと何かが軋む音がした。
「・・・・・・え?」
ばき、と更に大きな音が続く。
弥彦は視覚と聴覚の両方で、自分が今どこにいるのかを知った。
そこは、井戸の上。
長いこと使われていないそれは、板で蓋をしてあって、その蓋の上に尻餅をついてしまって―――
「う、わぁぁぁぁぁぁぁっ!」
板が割れて、弥彦は一瞬、浮遊する感覚を味わった。次いで襲い来る、落下する感覚。
真下に垂直に続く暗い空間に、弥彦の叫びが落ちて消えた。
一瞬の出来事だった。
梢と小太郎は、弥彦が井戸に落ちてゆくのを目の当たりにして呆然とし―――梢は真っ白な顔色で、踵を返す。
「お、お嬢様! お待ちください!」
踏まれた足を引きずるようにしながら、小太郎はその場から逃げ去ろうとする少女を追った。
無人になった庭に、ぽつぽつと雨が落ち始めた。
6 「未来」 へ続く。