4 決裂




        「じゃあ剣心、戸締りお願いね。いってきまーす!」
        「ああ、いってらっしゃい」




        午前中だというのに、低く垂れ込めた雲のせいでこれから日暮れをむかえるかのようにあたりは薄暗い。剣心に見送られながら道場を出た薫は、灰色
        の雲に覆われた空を見上げて「降らなきゃいいけど・・・・・・」と呟く。いつものように出稽古の供をする弥彦は、竹刀を肩に担ぎながら首を傾げた。
        「剣心も出かけるのか?」
        「うん、前に言っていた盗まれた猛獣、まだ見つかっていないんですって」


        居留地から盗まれた「猛獣」も犯人も行方も杳として知れず、犯行から既に数日が経過していた。
        警察ではとにかく人員を動員して、あたり一帯で毎日探索を進めているらしい。そんなわけで、剣心もその一員として駆り出されているというわけだ。

        「盗まれたのが外国のひとのお屋敷からだから、出来るだけ表沙汰にはしたくないみたい。新聞にもまだ出ていないらしいし・・・・・・早く見つかるといい
        いいんだけれど」
        「随分呑気なこと言ってるけど、お前剣心が心配じゃないのかよ。犯人のほうはともかく、猛獣だぞ?」
        「あれ? 弥彦は聞いていなかったかしら、その猛獣ってまだ赤ちゃんらしいわよ」
        「・・・・・・あ、そうなのか?」
        「だから、そんな危険なわけでもないんですって。むしろ早く見つけてあげなきゃ可哀相よね。無事でいてくれたらいいんだけど・・・・・・」
        赤ちゃん、という単語が引っかかったが、弥彦はそれ以上深く考えずに、「そうなんだ」と軽く受け流した。


        「あー、ところで薫、俺ちょっと今日の帰りも赤べこに寄ってくから」
        「なあに、今日も手伝い? このところ毎日じゃない」
        「とにかく、遅くなるから」
        それ以上話が続かないようきっぱりと言い切った弥彦に、薫は眉を寄せた。
        二人並んでしばらくは無言で歩を進めていたが、やがて薫は意を決したように口を開く。


        「ねぇ、弥彦」
        「ん?」
        「何か、あったの?」
        「へ?」
        「だって、あんた最近毎日帰りが遅いじゃない。それに、なんだかいつも上の空だし」
        薫の指摘に弥彦はぎくりとする。表情を動かさないよう努力したが、一瞬眉がぴくりと跳ねたのを薫は見逃さなかった。
        「やっぱり、何かあるのね」
        「・・・・・・なんにもねーよ」
        「嘘! だってどう見てもあんた最近ヘンよ!?」
        薫はがしっと弥彦の頭のてっぺんを鷲掴みにし、無理矢理に自分の方を向かせた。
        「いてててて! 何すんだよ凶暴女!」
        「わたしも剣心も心配してるのよ、あんたここのところずーっとぼーっとして様子がおかしいから、何か困ってることでもあるんじゃないのかって」


        思いがけず真摯な声に、弥彦は喚くのをやめて薫の顔を見る。
        薫の表情は真剣そのものだった。しかし、不意にあの晩廊下で目にした剣心と薫の姿が脳裏をよぎった。
        そして、左之助の「お邪魔虫」という台詞が頭の中に大きく響いた。



        「・・・・・・っでもねーよ」
        「え?」
        「何でもねーってさっきから言ってるだろ!? 家族でもないくせに、いちいち鬱陶しいおせっかい焼いてんじゃねーよ!」



        激しい口調に驚いて、頭を捕まえていた手の力が緩む。
        その隙に、ぶん、と首を振って弥彦は薫の手から逃れた。


        「・・・・・・お前も剣心も、うざったいんだよ、そーゆーの。ありがた迷惑って事に気づいてねーのかよ?」


        半分以上、勢いだった。
        胸のうちに思っている以上にきつい言葉が、殆ど勝手に口から飛び出してくる。でも、もう止められない。


        「頼んでもいないのに、いつもいつも保護者ヅラして勝手に心配して・・・・・・馴れ馴れしくすんなよな、赤の他人のくせに、気持ち悪ぃんだよ」


        薫の顔を見ずに、吐き捨てるように、言った。
        口よりも先に手が動く薫のことだ。暴言にぶち切れて殴りかかってくるかもしれないと思い、身構える。



        「・・・・・・本気で言ってるの・・・・・・?」



        手は飛んでこなかった。
        薫の声は、かすかに震えていた。
        弥彦は竹刀を肩に担ぎなおし、道端に立ちすくむ薫をおいて一人ずんずんと歩きだした。






        ★






        午後になって、空模様はいよいよ怪しくなってきた。



        「いつ降りだしてもおかしくないな・・・・・・」
        剣心の頭上に広がる雲は、雨を孕んでいると一目でわかる重たげな色をしており、今にも大きな雨粒が落ちてきそうだった。
        この雲の下、今日も沢山の警官が「猛獣」探しに奔走していた。


        今日になって、事件は新たな局面を見せた。
        犯人が捕まったのである。


        被害者宅から宝石類を盗んだ犯人は数回に分けて盗品を転売していたため、何軒目かに訪れた店で張っていた警官によってお縄となった。
        しかし、犯人は「宝石は盗んだけれど、猛獣については何も知らない」と供述したのである。

        犯人の言葉が本当なら、もう一組別に、猛獣泥棒が存在することになる。
        「宝石盗難のどさくさにまぎれて、被害者宅に侵入したのかもしれません・・・・・・しかしこうなると、捜査は一からやり直しですな」
        解決したと思いきや、事件はまだ「半分」残った状態だったというわけで、しかも手がかりも少ない。剣心は浦村署長のため息顔を思い出しつつ、泣き出
        しそうな空の下を急ぎ足に歩いていた。
   


        「いらっしゃーい。今日はおひとり?」
        足下から大きな声がした。声の主は道端に店を広げる、健康的に日に焼けた顔をした農婦だった。
        月に何回か、畑で穫れた野菜を街中まで売りに来る農婦は、剣心や薫とも顔なじみだった。安くて新鮮な野菜はなかなかの評判で、今日も数人の主
        婦がしゃがみこんで、茣蓙の上に並んだ野菜を手にとって見比べている。
        
        「今日はもうそろそろ店じまいしようかと思ってたところなんですよ、雨になりそうだからねぇ」
        「そうでござるか。いや、今日は買い物ではなくてちょっと訊きたいことがあって・・・・・・」
        往来でしばしば店を開く彼女ならひょっとして、と思い、剣心は農婦に探している黒豹の子の特徴を説明する。無論、猛獣の子供とは言わず「猫のよう
        な」とぼかしはしたが。
        「うーん、残念だけど見た覚えはないねぇ」
        農婦とともに話を聞いていた常連客も、答えは同じだった。まぁそう簡単にはいかないかと思いつつ、剣心が礼を言って辞そうとしたとき。農婦が気にな
        る言葉を口にした。


        「迷い猫、早く見つかるといいねぇ。さっきの子も心配しているだろうに」


        ・・・・・・さっきの子?
        剣心は踏み出しかけていた足をひっこめ、再び尋ねた。
        「すまないでござる、さっきの子とはいったい?」
        「え? いえ、さっきもまったく同じことを訊いてきた女の子がいたもんだから」
        「女の子? 異人の子でござるか?」
        「いやいや、どこからどうみても日本人だったよ。ちょっと高価そうな洋服着てお付きの若衆もいたから、いいとこのお嬢さんだと思うけれど。その子に頼
        まれて探しているんじゃないの?」


        剣心は軽く眉をひそめた。
        全く同じ特徴の「猫のような」動物を探す少女。
        この界隈に、そう何匹も異国の猛獣を飼っているものがいるとは思えない。ましてや同じ時期にいなくなるなど―――だとすると。



        「すまないが、その子についてもう少し聞かせてほしいのでござるが・・・・・・」





        ★





        薫はいつもどおり、きちんと出稽古先で指南役を務めた。
        弥彦もいつもどおり、真剣に稽古に励んだ。
        しかし、いつもなら稽古が済めばふたりは並んで帰るのが常だったが、今日は弥彦は薫より早く身支度を整えると、彼女を待つことなく表に飛び出した。

        稽古に向かう途中で薫に投げつけた言葉を思い返す度、弥彦の胸は苦いもので一杯になった。
        そんな気持ちのまま、いつもどおりふたりで帰路につけるわけがなかった。そしてまっすぐ道場にむかう気分でもなく―――そうなると、足が向くのは赤
        べこだった。とりあえずは燕の顔を見て、それからクロガネのところに行こう。そう思って弥彦はどんより曇る空の下を遮二無二走った。






        「ちわーっす!」
        赤べこの到着すると、店先に立っていた燕と妙が同時に振り向いた。
        「あらあら、どないしたのえらい急いで」
        明らかに全力で走ってきたとわかる様子の弥彦に、妙は驚いた顔をした。その隣の燕は何故か不自然にこわばった顔をしており、肩で息をする弥彦に
        挨拶も返せずにいる。おや、と思って弥彦が視線を動かすと、妙たちの前にひとりの客がいるのが目に入った。


        上品な紅のワンピース。同じ色の細いリボンで、長い髪をひと房頭の上のほうで結った、洋装の少女がそこにいた。
        年の頃は弥彦や燕より少し上といったところだろうか。少女は弥彦に小さく会釈をした。


        「ちょうどよかったわ、弥彦くん、迷い猫知らへん?」
        「え」
        ぎくり、として出した声は、喉の奥につかえてくぐもった音になった。
        「いや、そうやなくて・・・・・・『黒猫みたいな動物』やったかしら?」
        洋装の娘が頷く。その瞳はしっかりと弥彦の顔を捉えていた。

        「このお嬢さん、その迷子の動物をさがしてて、あちこち尋ねて歩いてはるんやって。うちは見た覚えないんやけど、弥彦くんはどうやろか?」
        「このくらいの大きさで、全身真っ黒で、でもよく見ると絞りみたいな地模様があるんです」
        妙の説明を補足する少女のはきはきした声が、一音ごとにちくちくと突き刺さる。その生き物は、どう考えても自分たちが「保護」しているクロガネだ。し
        かし―――


        「・・・・・・いや、俺も、知らねえ」


        その返答に、燕が困ったような目で見つめてきたが、弥彦は何も返せなかった。その様子を少女がじっと注視している。
        「ごめんなぁ、ウチのもんは皆知らんみたいやわ」
        「・・・・・・そうですか」
        妙が心底すまなそうに謝るのに少女は頷いたが、その目は弥彦から離されないままだった。
        「小太郎」
        少女の呼ぶ声に、少し離れたところで大きな人影がすっと動く。
        ひっそりと控えていたらしい、やはり洋服を身につけ、西洋の鞄を持った男。
        背が高くがっしりした体つきでぎょろりと大きい目を持ち、およそ「コタロウ」という名には似つかわしくない外見だった。

        「聞いてのとおり、皆さん見ていらっしゃらないそうです。でも折角ですから、わたし、この店で食事をしていきますわ。いいわね?」
        「かしこまりました、梢お嬢様」
        小太郎と呼ばれた男がきっちり少女に礼をする。どうやら少女―――梢のお付きの者らしいが、可愛らしい響きの名を持つ大男が小さな娘をかしずいて
        いるのがなんだか可笑しくて、弥彦はこんなときだというのに僅かに口元がゆるんだ。しかし、途方にくれたような顔の燕と目があって、すぐにその笑い
        は引っ込んだ。


        そう、笑っている場合ではなくて―――この少女は、クロガネの飼い主なのだ。


        「ほな、こちらへどうぞぉ」
        妙がにこやかに、少女を席に案内するのを見送って、弥彦と燕はあらためて顔を見合わせた。
        「お前、言わなかったんだ」
        「・・・・・・言わなきゃ、いけないと、思ったんだけど、でも・・・・・・ごめんなさい」
        ことさらに声をひそめるまでもなく、既に燕の声は消え入りそうな有様だった。
        「謝ることなんてねーよ・・・・・・俺も同じだ」
     

        飼い主が見つかるまで保護しよう。弥彦と燕はそう言ってクロガネをこっそり世話していた。
        しかし、呼び名を与えて可愛がっているうちに、クロガネはすっかりふたりに懐いてしまった。そしてそんな数日を過ごすうちに―――当然ふたりとも、ク
        ロガネと離れがたくなってしまった。

        いつかは現れるであろう飼い主に、クロガネを返さなくてはならないことはわかっていた。でも、その時のことをふたりとも、想像しないようにしていたの
        だ。だからクロガネを捜しにきた少女に対し、とっさに「知らない」と答えてしまった。


        「でも・・・・・・言わなくちゃいけねーよな」
        「うん、あんないいおうちのお嬢様みたいな子が、あちこち訊いてまわって捜しているんだもの・・・・・・」
        と、ひそひそ話していると、その少女が燕にむかって軽く手を挙げるのが見えた。
        「あ、はい、ただいま」
        燕が慌てて注文をとりに席にむかう。弥彦はその背中を見送りながら、少女にどうやって「本当は知っています」と切り出したものかと思案していたが、
        その視線の先、少女の傍らに立った燕の顔色が、さっと変わったのが見えた。

        「燕?」
        弥彦は床を蹴って、燕のいる席へ向かう。
        と、勢いよく駆け寄った弥彦に、少女―――梢は意味ありげに笑いかけた。





        「ねえ、あなたがた知っているんでしょう? あの子は何処にいるんですか?」






        




        5 「対決」 に続く。