3  心配







        「弥彦くーん!」




        風にのって届いた燕の声に弥彦は顔を上げ、黒猫はぴょんぴょんと地面を飛び跳ねた。
        塀の抜け穴から空き家の敷地内へ入ってきた燕が、枯れ草をかきわけ弥彦のいる庭のほうにまわってくる。

        「ごめんね、遅くなっちゃって」
        「おう、クロガネが腹空かせてんぞー」
        「大丈夫、ちゃんと持ってきたから・・・・・・はい!」
        燕は袂でくるむようにしていた弁当箱を差し出した。蓋を開けて黒猫の目の前に置いてやる。
        中身は赤べこで出た賄いだ。弥彦と燕は毎日かわるがわる自分の賄い飯を残しては、猫の餌にあてていた。

        「お前、ちゃんと自分のぶんも食ってるか?」
        「食べてるよ。むしろ厨房のひとが喜んでるの」
        燕はそう言って恥ずかしそうに俯いた。
        弥彦も燕も、猫の食べる分を確保するため、食事を盛ってもらうとき「少し多めに盛ってください」と頼んでいるのだ。
        普段からよく食べる弥彦が口にするぶんには誰も気にとめない台詞だが、恥ずかしがり屋で何をするにも控えめな燕が言うと、当然違った反応が返って
        くる。

        「その調子で沢山食べていれば、そのうち弥彦くん並みの威勢の良さになれるぞって、嬉しそうに言われちゃった」
        「なんだよ、俺のとりえって威勢のよさだけかよー」
        そう言いつつも、弥彦は厨房でのやりとりを思い浮かべてつい笑ってしまった。
        「でもほんと、お前も普段からもっと食ったほうがいいと思うぞ? クロガネを見習ってさ」
        「その名前、確定なんだ・・・・・・」


        迷子を一時保護しているだけ―――と、ふたりはそう自分たちに言い聞かせながら黒猫の世話をしていたが、一時といえども呼び名がないのは不便な
        ので、とりあえず仮の名前を決めることにした。燕はごくごく平凡な発想で「黒猫だからクロがいい」と言ったのだが、弥彦はもっと強そうなのがよいと主
        張し、「黒いからクロガネと呼ぼう」と言ったのだった。
        
        「鋼鉄の刃、みたいで格好いいだろ?」
        「確かに、勇ましい感じはするよね・・・・・・」
        燕は、仕方がない、というように肩をすくめた。そのクロガネは燕が持ってきた弁当箱に小さな頭を突っ込んで、一心不乱に食事中である。弥彦はその
        様子を楽しげに眺めていた。そして燕は、そんな弥彦に気取られないように、小さく首を傾げる。



        ―――弥彦くんがクロガネを「保護する」と言ったのは、きっと、わたしのためだろう。
        燕は、そう思っていた。



        店の裏で見つけた「猫らしき小さな生き物」に燕は情を移してしまった。
        だから弥彦は燕の意を汲んで、少しの間だけ面倒をみようと提案してくれた。
        それは燕にとって、とても嬉しい事だったのだが―――今では、自分より弥彦の方がこの状況を楽しんでいるように見えるのだ。

        進んでクロガネという名前をつけて、毎日長い時間世話をやいて、一緒に遊んで―――
        燕には、その弥彦の姿がどこか不自然に映った。



        どこがどうおかしいのか、具体的に問われたら返答に困るのだが、それでもどこか、しっくりこない。
        それは、ここ数日彼の元気がなかったことと、何か関係があるのだろうか。




        そこまで考えたところで、クロガネが燕の膝の上に転がるようにして乗ってきた。
        可愛らしくじゃれついてくるクロガネに燕はつい頬を緩ませ、ひとまずは思い悩むのを止めることにした。







        ★







        「日が、短くなったでござるなぁ」




        どこか掠れた剣心の呟き声が、夕陽の射し込む薫の部屋に響く。
        畳の上に身体を投げ出した剣心は、袴を脱ぎ捨てた格好で腕には薫を抱いていた。


        先程、薫から弥彦の帰りが遅くなると聞いた剣心は、これ幸いと無防備な彼女の背中に襲いかかった。まだ陽の出ている時間だというのに道着を剥ぎ
        取られ、その場に引き倒された薫は、頬を真っ赤に染めて必死にその腕から逃れようともがいた。しかし女の力では敵うはずもなく、すぐに畳の上に押さ
        え込まれてしまい、震えながら剣心を受け入れたのだった。

        白い脚も細い腰もむき出しの素裸のまま、睫の長い瞳を閉じて横たわる薫の顔を剣心は飽きずに眺めていたが、傾きだした晩秋の陽を感じて、さすが
        にそろそろ起きなくてはという気になった。薫の背に回した手をそっと動かしながら、彼女の額に唇を寄せる。

        「・・・・・・薫」
        ぴく、と目蓋が震え、魔法が解けるように眼が開かれる。
        深い色の瞳がゆっくりとこちらを見る。
        近い距離で目が合い、剣心の口元が自然、微笑みに緩んだ。


        しかし、幾つかまばたきを繰り返したのち、薫の目に突然―――ふわりと涙が溢れるのを見て、剣心はぎょっとする。


        「ちょ・・・・・・か、薫?!」
        慌てふためいた剣心は、先刻散々好きに抱いておきながら、一転して壊れ物を扱うような手つきで薫の肩に触れた。
        「す、済まないっ! その、そんなに痛かったでござるか・・・・・・?」
        つい最近まで生娘だった彼女が、「こんな明るいうちからなんて、恥ずかしい・・・・・・」と羞恥に身を捩って逃げようとするのを、力で押さえつけるようにし
        て無理矢理抱いてしまった。大人気ない自分の振舞いを、剣心は今更ながら後悔する。

        「あ・・・・・・違うの、そうじゃなくて」
        焦る剣心に対し、薫は涙を指先で拭いながら、ふるふると首を横に振ってみせた。
        「夢じゃないんだ、って思ったら、泣けてきちゃっただけなの」
        はにかむような口調は嘆いているわけでも怒っているわけでもなさそうで、剣心はひとまず胸を撫で下ろす。
        「夢でない、とは?」
        改めて、薫の柔らかな身体を抱き寄せながら問うてみる。どう言ったら伝わるだろうか、と言葉を吟味するような表情で、薫はぽつぽつと答えだした。


        「あのね、この前も、最初のときも、夜だったでしょ?」
        「え?」
        「こういう事、したとき」
        「ああ・・・・・・うん」

        自身の唇に指を乗せて、薫は腕の中から剣心を見上げる。本人は無意識なのであろうがその仕草はひどく蠱惑的で、剣心はどきりとした。
        「そのまま眠っちゃって朝になって、目が覚めるでしょ? その度、昨夜のはひょっとして夢だったのかなぁ、って思ってたりしてたの」



        身体ごと剣心に愛されているという事実が、まるで夢のようで。
        幸せ過ぎて、却って現実感がなくて。



        「でもね、今こうしてるってことは、ほんとに夢じゃないんだなぁ、って思って・・・・・・そしたら」
        勝手に泣けてきちゃったのよ、と薫は恥ずかしそうに結んだ。
        「って、馬鹿みたいよね・・・・・・びっくりさせてごめんね」
        薫はそう言って笑ったが、剣心は無言だった。
        無言で、薫を強く抱きしめた。

        「っ、剣心?」
        痛いくらいの抱擁に、薫は戸惑った声をあげる。
        「ね・・・・・・ちょっと、苦しいよ」
        「夢の訳がない」
        「え?」
        それは、真剣な声音だった。



        「拙者だって、今こうしていられるのが夢みたいなんだ。だから・・・・・・夢であってたまるか」



        腕の力がゆるんだ、と思ったのは束の間のことで、薫の身体は再び畳に押し付けられた。
        言葉を発する間もなく、覆いかぶさってきた剣心に唇を重ねられる。
        夢だと疑うことも出来ないくらい、強く、彼女に自分を刻みつけたくて、剣心は狂おしく薫をかき抱いた。


        「い・・・・・・嫌っ!」
        剣心の手が脚の内側へと伸ばされ、指先が濡れた場所を探る。薫はその感触に眉を歪めながら、遅い抵抗を始める。
        「弥彦が、帰ってきちゃうよ・・・・・・」
        制止を無視して続く愛撫に、薫の声が揺れた。それでも、力の入らない手で必死に剣心の肩を押し、彼を制しようとする。
        こんなふうにされるのは、嫌じゃない。でも、今は―――
        「お願い、せめて・・・・・・夜に・・・・・・」
        慄える声で哀願されて、漸く剣心は身を起こした。
        「・・・・・・承知したでござるよ」
        約束の印、とばかりに、首筋の柔らかいところにきゅっと歯を立てる。甘い痛みに、薫は小さく息を飲んだ。

        「よいしょっ」
        剣心は薫を抱き起こし、そのまま後ろから両腕で細い肢体を包み込んだ。
        裸の背中に触れる彼の体温は心地よくて、どぎまぎと騒がしかった心臓が落ち着きを取り戻してゆく。
        ひとまずは悪戯することを止めたらしい剣心に、薫は大人しく身を任せていたが―――不意に、ぽつりと口を開いた。



        「話が、途中だったんだわ」
        「ん?」
        「弥彦」
        「ああ、赤べこに寄ってくるとか」
        「そうじゃなくて・・・・・・ね、あの子最近変じゃない?」

        首を後ろに回して、薫は剣心の顔を見上げる。
        「心ここにあらずっていうか、なんか時々ぼうっとしているっていうか」
        「稽古に身が入っていないとか?」
        「幸いそれはないけど・・・・・・それだったらお灸を据えてやるまでだし」
        しどけない姿に似合わない剣呑な台詞に、剣心はひやりとする。
        「何か、悩みでもあるのかしら。わたしたちが相談にのれることならいいんだけど」
        「悩みでござるか」
        剣心は首を傾げて、うーんと唸る。


        「悩みか、あるいは」
        「え?」
        「秘密、とか」














        4 「決裂」 に続く。