2  迷子




        「泥棒? 居留地で?」



        夕食の後、それぞれの湯呑みにお茶を注ぎながら薫が聞き返した。
        「そう、築地の外国人の居留地に盗みに入って、逃走中らしい」
        「物騒ねぇ」
        眉をひそめた薫から湯呑みを受け取りながら、剣心は今日浦村署長から聞いた事件について薫と弥彦に説明をし始めた。
        どうやら複数犯らしいこと。宝飾品が盗まれたこと。そしてまだ犯人たちはこのあたりに潜伏しているのではないだろうか、ということ―――

        「だから剣心にも気をつけてくれっていう事なのね。でも、どうして近くにいるってわかるの?」
        「宝飾品の一部が持ち込まれた店があったそうでござるよ、それに」
        剣心は茶を一口すすって口を湿らせてから、言葉を続けた。



        「どうやら物だけではなく―――猛獣まで盗み出したらしい」



        ごほっ、と弥彦が盛大に咳き込んだ。
        「やだっ!大丈夫!? お茶、そんなに熱かった!?」
        薫は慌てて背中をさすってやりながら、弥彦が手にしている湯呑み茶碗に目をやった。
        「な・・・・・・なんともない。ちょっと変なとこ入ってむせただけだから・・・・・・水飲んでくる」
        何かひっかかるような声でそう言いながら弥彦は立ち上がり、居間を出た。「ちょっとー、ほんとに大丈夫?」という薫の声を背中で聞きながら、弥彦
        は廊下で深呼吸をする。

        別に、自分が責められたわけでもないし泥棒を働いたわけでもないが、昼間赤べこの裏で見つけたあの猫のことを言われたようで、どきりとしたのだ。
        いや、動物は動物でも、剣心は盗まれたのは「猛獣」と言っていた。じゃああの猫は無関係だよな、と自分に言い聞かせながら、弥彦は足早に台所へ
        とむかう。



        一方、居間では薫が剣心に話の続きを促していた。
        「それにしても猛獣だなんて・・・・・・盗まれたってことは、それまでそんなのを東京で飼っていたわけ?」
        逃げ出したりしたら危ないじゃない、と憤慨する薫を宥めるように、剣心は軽く手をふって答えた。
        「いや、どうやら手違いで日本に届けられた動物らしいでござるよ。いずれちゃんと他の国に送るということで、暫く保護するつもりで飼っていたらしい」
        「あらまぁ・・・・・・じゃあますます取り返さなくちゃいけないってことね」

        犯人を捕らえたとしても、万一その動物が死んでいたりしたら、かなり後味の悪い事件になるだろう。まさか国際問題に発展はするまいが―――
        「けれど、そんな危険な生き物をよく盗めたものねぇ」
        歎息する薫に、剣心はくすりと笑いをこぼす。


        「猛獣は猛獣でも、まだ子供だそうだ」
        「こども?」
        「そう、ちょうど猫くらいの大きさの・・・・・・『黒豹』とかいう動物らしいでござるよ」





        ★





        翌日、赤べこに行く前に弥彦と燕は、賑やかな往来から少し離れた場所にある廃屋へ向かった。
        明治になってからずっと人が住んでいないというその家は、もともと武家の持ち家だったらしく、それなりに広い。ただ、長らく無人のまま取り壊すことも
        なく放置されているため、あちこち痛んでおり、お化け屋敷のような雰囲気を醸し出している。庭の草は伸び放題に茂り、冬も間近なこの季節はその野
        草もすっかり茶色くなって、荒涼とした様子だ。

        門は閉ざされているが、廃屋を囲む塀の一部に壊れた箇所があり、子供がようやくくぐれるくらいの穴が開いている。弥彦と燕は、そこから敷地の中へ
        と入り込む。


        「・・・・・・いるか?」
        「・・・・・・いるいる!」


        縁側の下を覗きこんで、そこに例の黒猫もどきがちゃんといることを確認したふたりは、ぱっと笑顔になった。
        猫もふたりの声を確認してか、縁の下からぴょんと飛び出して燕の膝に駆け寄ってくる。
        「おはよう、いま朝ご飯あげるからね」
        燕は持参した風呂敷から、小さな瓶と小皿を取り出した。
        「それ、何だ?」
        「牛乳。今朝ちょっぴり分けてもらってきたの」
        「ふぅん・・・・・・」

        東京の街にぽつぽつと牧場ができ始めたのは、当然御一新があってからだ。廃止された諸大名の江戸屋敷の跡地を活用するため、空いた土地に畑が
        新たに作られたほか、酪農の牧場としても利用されるようになった。
        弥彦は、母親が生前、慣れ親しんだ江戸の風景が変わってしまうことが寂しい、と口にしていたのを覚えている。
        「新しい世の中になったのだから、仕方がないのですけれどね」と、病みついてからも美しかった母親は遠くを見るような目で言って、笑った。
        不意に頭をよぎった母親の面影に、久しく感じていなかったひんやりとした寂しさがこみあげる。弥彦はそれを振り払うかのように、首を左右にふった。
        
        燕は弥彦のその仕草には気づかずに、瓶を傾けて小皿に牛乳を注ぐ。目の前へ置いてやると、黒猫は小さな舌を出してぴちゃぴちゃ舐め始めた。
        「よかった・・・・・・飲んでくれたぁ」
        弥彦と燕はしゃがみこんで、黒猫が牛乳を舐めるのを眺めていたが、やがて燕がぽつりと言った。
        「やっぱり、飼い猫だよね」
        「え?」


        昨日、仕事を終えた弥彦と燕が店の裏にまわると、黒猫は同じ場所にちょこんと座っていた。
        猫は現れたふたりを、水色の瞳でじっと見上げて動かなかった。

        弥彦と燕はどうしようかと迷ったあげく―――猫を抱き上げ、この廃屋まで連れてきたのだった。



        この廃屋は「お化け屋敷」として、探検好きな子供たちにはちょっと知られた場所だったのだが、数年前に井戸に落ちて怪我をした子が出てから、ここで
        遊ぶ子供はまずいなくなった。現在も井戸はあるが水は涸れており、また落ちる子供が出ないよう、申し訳程度だが板を乗せてふさいである。
        そんなわけで、滅多に人の来ない秘密の場所―――ということで弥彦たちの頭にまず上がったのは、この場所だった。

        そして、言葉が解るはずもないのに、燕は「明日の朝また来るからここにいてね」と何度も子猫相手に念をおした。
        結果として今、猫は聞き分けよく同じ場所でふたりを待っていた。

        「どこにも行かないで、言うこと聞いて待っていたんだもん。こんなに聞き分けがよくて人懐っこいってことは、きっと誰かに飼われていたんだよ」
        「・・・・・・そうかもなぁ」
        「それならきっと、探しているよね」
        弥彦は、俯いた燕の横顔にちらりと視線をむける。困ったような、寂しそうな彼女の表情に、弥彦は少し考えてから口を開いた。
        「・・・・・・迷子を預かっているんだよ、俺たちは」
        え、と燕が顔をあげて弥彦を見る。
        

        「ちょっとの間だけ、迷子の猫を預かって・・・・・・えーと、そうだ、保護してるんだよ! なっ、それなら問題ねーだろ?」
        燕は驚いたように目をみはり、やがてこくこくと繰り返し大きく頷いた。





        飼い主を捜して、返してやったほうがよいと、言うべきだったのかもしれない。
        いつもの自分ならそう言いながら燕を慰めたのではないだろうか―――と、弥彦は自覚していた。
        わかっていながらもそう言わなかったのは、心のどこかに剣心と薫のことがあったからかもしれない。


        あのふたりとの距離が急速に広がってしまったような、そんな気分でいたからこそ、目の前にいる小さな存在を手放したくなかったのだ。
        子猫が無条件に自分を頼ってくれること。今の弥彦には、それがとても貴重なことのように思えた。



        牛乳を飲み終えた猫にそっと手を伸ばすと、弥彦の心情を知ってか知らずか、猫は自分から首を伸ばして弥彦の指に頭をすり寄せた。





        ★





        「ただいまぁ」
        玄関から聞こえた薫の声。その後に続く声がないことに気づいた剣心は、少しだけ首をかしげた。

        「おかえり、弥彦は一緒ではなかったのでござるか?」
        出迎えに行ってみると、やはりそこにいたのは薫ひとりだけ。今日は出稽古の日で、確かに今朝、弥彦も薫について出かけた筈だったのだが。
        「赤べこに寄ってくるから、先に帰っててくれって」
        「おろ、今日は手伝いの日ではないと思ったが・・・・・・」
        「そうなのよ、何か用事があるんですって。このところ毎日よね」



        泥棒騒ぎが起きてから数日が経った。
        今日は午後になっても気温が上がらず、いよいよ季節は本格的に冬に移ろうとしているようだ。
        稽古帰りの薫は道着に羽織姿で、冷たい北風にあたった頬がほんのりと赤く染まっていた。

        「寄り道でござるか」
        「うん、ちょっと遅くなるかもしれないって。どうしたのかしら・・・・・・ご飯食べに行くわけでもなさそうだったけど」
        「案外、燕殿の顔が見たかっただけかもしれぬよ」
        自室に足を進める薫の後をついて歩きながら、剣心は軽口を叩いた。しかし、間をおいて返ってきた声は晴れやかなものではなかった。
        「そうね、そういうことだったらいいな」
        どこか屈託した様子で呟いて、薫は襖を開ける。

       
        あのくらいの年齢の子供が、帰りに道草をくって遅くなるのはよくある話だ。今日の弥彦はわざわざ行き先までも告げてきて、その場所も勝手知ったる
        赤べこなのだから、平素の薫なら心配などはしなかっただろう。
        しかし、今は胸に小さな異物が引っかかっているような、釈然としない思いがあった。

        一目散に赤べこに向かって走っていった弥彦の小さな背中を思い出しながら、薫はするりと羽織を脱ぐ。厚手の羽織の臙脂色と、そこからこぼれ出た白
        い肘の鮮やかな対比に、剣心は目を細めて、後ろ手に襖を閉めた。
        

        「何か、気にかかることでも?」
        「うん、ねぇ剣心、最近ね・・・・・・」
        言いながら振り向いた薫は、剣心の顔が思いがけず近くにあったことにどきりとする。
        いつの間にか背後に立っていた剣心の手が腰のほうへ伸びてきて、薫は慌てた。


        「ちょ、剣心!? 何してるのっ!?」
        「着替えるんでござろう? だから手伝おうかと」

        確かに、道着から普段着に着替えるつもりではいた、が。
        どう考えても「手伝う」というよりは下心というか、他の目的があることは明白で―――


        「ば、ばかばかっ! そんな、手伝いなんていらないってば!」
        「いいからいいから」
        「よくないー!」





        逃げ出すより早く、剣心の手が腰紐にかかる。
        すとん、と紺色の袴が薫の足元に落ちた。













        3 「心配」  に続く。