一陣の北風が吹き抜けた。
着物越しに肌を刺す風の冷たさが、秋が終わりに近づいていることを告げる。ここ数日で、ぐっと気温も下がったようだ。
庭に散らばった落ち葉が風に踊り、かさこそと乾いた音をたてる。その様子を弥彦がぼんやりと眺めていると、その視界に、箒の先が映りこんだ。
「・・・・・・弥彦くん、大丈夫?」
おずおずと声をかけたのは燕だった。
表通りとは反対に面した「赤べこ」の裏庭で、小さな縁台に腰掛けていた弥彦は、普段よりも鈍い反応で顔を上げる。
「・・・・・・大丈夫って、何がだ?」
「だって、お昼ご飯、さっきから全然口をつけてないみたいだから」
燕の指摘どおり、膝の上にある賄いの丼飯は手つかずのままだ。弥彦は昼食がそこにあることに今初めて気づいたかのように、「あぁ」と短く呟いた。
「今日は風が冷たいから、中で食べたほうがいいんじゃない?」
心配そうな声に、弥彦はようやくいつもの調子で返事をしてみせる。
「大丈夫だよ、そんなヤワじゃねーから。外で食べるのが好きなんだから平気だって」
燕はそれでも気遣わしげに弥彦の顔を見ながら、箒の柄を小さく手のひらでさすった。
「ならいいけど・・・・・・弥彦くん最近、元気がないみたいだから、気になって」
「んなことないって!お前こそさっさと落ち葉片付けて戻らないと風邪ひくぞ? あ、砂埃たてるなよなっ」
ほらほら早くしろと急かす弥彦の声に押されて、燕は落ち葉掃きを再開する。がつがつと飯をかきこみながら、弥彦はちらりと燕の背中を盗み見て、心
の中で「・・・・・・鋭いな」と呟く。
そして、傍目に「元気がない」ように見えてしまうほどに自分が萎れているという事実に、こっそりため息をついた。
あまり認めたくはないが、元気がないとしたら原因は、あの夜にある。
★
それは三日ほど前のことだった。
その晩、一旦床についた弥彦は急に厠に行きたくなって、ごそごそと暖かい布団から這い出した。
用を済ませて、冷たい床を踏みながら部屋に戻る途中、ふと、声が聞こえたような気がして足を止めた。
剣心の部屋の方からだ。
まだ、起きているのだろうかとぼんやり考えながら、弥彦はなんとなく声につられたようにそちらの方へと足を向けた。
廊下を曲がろうとしたところで、不自然な人影が目に入り、立ち止まる。
何故、不自然と感じたのか、最初はわからなかった。しかし、廊下の角に身を隠すようにしてそっと様子を窺ってみて、その理由が判り、はっとする。
人影は、ひとりのものではなかった。
二人ぶんの影が身を寄せ合っていたため不自然な形に映ったのだろう。そしてこの家で弥彦以外のふたりといえば、剣心と薫しかいない。
暗闇に目が慣れてくると、ふたつの影がどんな風に重なっているのかがおぼろげに判ってきて、弥彦は身を硬くした。
きし、と床が鳴って、弥彦はぎくりとする。
しかし、音がしたのは自分ではなくふたりの―――と、いうより薫の足元からだった。
抱きすくめられた薫が身を捩り、床が軋んで小さく音を立てる。
「剣心、だめ・・・・・・」
泣いているような声が、夜の静寂に微かに響く。
それは確かに薫の声だったが、弥彦が初めて耳にする色を帯びていた。
「駄目?」
「だって、こんなところじゃ・・・・・・弥彦に、聞こえちゃう・・・・・・」
「じゃあ、黙って」
「っ・・・・・・!」
唇を塞がれて、途切れた細い声。
きしり、と。またひとつ床板が軋む音。
弥彦は無意識のうちに自分の口を手で覆っていた。
呼吸の音が、そして心臓の音が五月蝿くて、制御したいのにどうすることもできない。
まさか剣心たちの耳に届くことはないだろうが―――しかし、今こうして此処にいることは絶対に気づかれたくなくて、必死に息を殺した。
「お願い、ここじゃ、嫌っ・・・・・・」
「ここじゃなければ、いい?」
「あっ、ま、待って・・・・・・!」
「ねぇ、薫」
細い身体が、襖へ押し付けられる。
剣心は薫を抱いたまま、片手で反対側の襖の持ち手を探った。
するりと半分だけ襖を開けて、押し込めるように薫を部屋の中へ入れた。
ふたりの姿が消える。
衣擦れの音が、聞こえたような気がした。
襖が内側から閉められたのを合図にしたかのように、弥彦は踵を返した。
すっかり冷えきってしまった足の指と対照的に、頭の中は沸騰したように熱い。
ひとつに重なった、ふたりの影。
薫の名を呼ぶ剣心の甘い声も、切なげに薫がこぼした潤んだ声も、まるで別人のもののようだった。
部屋に戻り、布団を頭からかぶってきつく目を閉じたが、結局殆ど眠れないまま空は白んでいった。
★
夜が明けて、その日の朝食の席。剣心と薫はいつもとまったく変わらぬ様子で弥彦におはようと声をかけた。
弥彦も普段どおりに振る舞ったつもりだったが、巧くできたかどうかは自信がなかった。
―――いつからだったんだろう。
あの夜のことを思い返しているうちに、弥彦の箸は止まっていた。
いくら弥彦が子供だとしても、あの後ふたりがどんなふうに夜を明かしたかくらい想像はつく。
翌朝の自然な表情から察するに、あの日より前からとっくに、剣心と薫は他人ではなくなっていたのだろう。
一度姿を消した剣心が京都から戻ってきてから、あのふたりは周囲からすっかり「いい仲」と呼ばれるようになった。
さらには弥彦たちはその後、薫を取り返しに向かった孤島で、剣心が「一番大切なひと」と宣言した場面にも居合わせたのだ。あの局面では、全員が真
剣だったからするりと聞き流してしまったが、一件落着となり東京に帰ってから、剣心はさんざん皆にひやかされたものだった。
あの時の台詞を酒の肴にされながら剣心はひたすら照れまくり、薫はうつむいて真っ赤になって―――そして、とびきり幸せそうに笑ったことを、弥彦は
よく覚えている。
おそらく、彼らはあの頃に結ばれたのだろう。
真面目なあのふたりのことだ、いずれきちんと祝言を挙げて、晴れて夫婦になるに違いない。
―――でも、そうしたら、俺は?
俺はどうなるんだろう、と。弥彦はその時、漠然とした不安が自分の中に生まれたことに気づいた。
偶然に巡り会った何の縁もない三人が、同じ屋根の下で暮らしてきた。血のつながりなど全くない三人で、家族のように過ごしてきて、弥彦にとってそ
れはいつの間にかとても自然な暮らしになっていた。
しかし―――これからは違うのかもしれない。
剣心と薫は「夫婦」になる。ふたりの関係に新しい名称が与えられ、同じ苗字になって、いずれは子供もできることだろう。そうやって彼らは「本当の家
族」として、家庭を作るのだ。
でも自分は、その「家族」の輪には入れない。
「・・・・・・左之助が言っていたのは、こーゆー事だったのかな」
誰に聞かせるともなく、ぽつりと呟く。
左之助が外国に旅立つ前、弥彦は彼から「お前に期待している」と言われた。あの時は、身体の内側から熱いものがこみ上げてくるのを感じた。自分が
今まで見てきた大人たちの背中に、いつかは追いつけることを確約された気がしたからだ。だから、その前の台詞についてはあまり深く考えていなかっ
たのだ。
「お邪魔虫になるから道場を出ろ」と言った左之助。
その時はその言葉を、それほど重くは受け止めず、ただ「一人で暮らすのは、一人前の大人みたいで悪くないな」くらいに考えていた。
しかし、今となっては「期待している」より余程切実な言葉に思えてくる。だって、今まさに自分は「お邪魔虫」になっているのでは―――?
弥彦は、秋の風を頬にうけながら、思わず空を仰いだ。
「きゃああっ!」
ぐるぐると行ったり来たりを繰り返している弥彦の思考を、燕の驚いた声が遮った。
その声に、がしゃんと箒が地面に転がる音が重なる。
「燕?」
弥彦は食べかけの丼を置いて、箒を取り落としたまま立ちすくむ燕に駆け寄った。
「どうした?大丈夫か?」
「あ・・・・・・あそこに何か・・・・・・」
怯えた声で指差す先には背の低い松の木が植えてあり、くすんだ緑の葉が地面の近くまで茂っている。その葉に隠れるように―――何か、小さな影が
うごめいた。それに合わせるかのように、転がった箒がずるずると移動する。
何かが、いる。
弥彦は燕を背中に庇うようにしながら―――屈んで、箒に手をのばした。
柄を握り、注意深く引く。
手応えはあったが、それほど重くはない。向こうから抵抗される感じもなかった。
思い切って、ぐいっと持ち上げるように、引っ張る。
「・・・・・・お?」
「・・・・・・あら?」
僅かに地面から浮いた箒の先にあったのは―――いや、いたのは、一匹の黒い猫。
箒の先に噛みついたところを、一本釣りされたような格好になっている。
「び、びっくりした・・・・・・猫だったんだぁ」
「ちょっと待て・・・・・・これ、持ってろよ?」
胸をなで下ろした燕に柄を預けて、弥彦は箒の先にかぶりついている猫に手をのばした。用心深く胴体を両手でつかむと、猫はあっさりと箒から口を離
した。
「わぁ!可愛いっ!」
弥彦に抱かれた猫の顔を見て、燕が目を輝かせる。猫の瞳はくるくると丸く、夜が明けたばかりの空のような薄い蒼色をしていた。
「あれ?ひょっとしてこの子、まだ赤ちゃんなのかな」
「んなわけねーだろ、この大きさだぞ」
と、言ったものの、弥彦もこの猫の顔を見て首をかしげた。
子猫、と呼ぶにはずいぶんと大きい。近所を歩いている野良の成猫くらいの大きさはあるし、それなりの体重もある。しかし、丸みを帯びた耳やあどけな
い顔立ち、そして短い手足。そのバランスは確かにまだ幼い「子猫」のもので―――
「・・・・・・いやいや、でもこんなにデカい子猫なんているかぁ?」
赤ん坊を抱くようにゆさゆさと腕の中の猫を軽く揺さぶると、黒猫は「ぐるる」と微かなうなり声をあげた。
「おなかが空いているのかしら」
猫は、つい今しがた見せた蒼い目を閉じて、弥彦に抱かれたまま動かずにいる。先程箒に噛みついたのも、餌を探してのことだったのかもしれない。
「燕、俺の昼メシ」
「あ、うんっ!」
燕はきびすを返して、食べかけのままだった弥彦の丼をとってきた。飯の上に乗っている牛肉の煮込んだのを一切れとって、指先で柔らかくほぐしてや
る。
「大きい子だけど、赤ちゃんならきっと、こうしたほうがいいよね」
燕は柔らかくした肉をさらに小さく千切り、指の腹に乗せて、黒猫の口元へ近づけた。噛みつかれるのでは、と弥彦の胸に一瞬不安がよぎったが、猫は
薄く目を開けるとちろちろと舌をのばして、ぺろりと牛肉だけを舐めとった。
弥彦と燕は安心したように顔を見合わせて、そして繰り返し黒猫の口に肉を運んでやった。
「もう、お腹いっぱいかな?」
牛肉数切れをゆっくりと腹におさめた猫は、満足したように目を細めて、弥彦の胸に頭をすりよせた。
「可愛いなぁ・・・・・・」
「抱いてみるか?結構重いぞ」
慎重に燕の腕に移された猫は、嫌がりもせずおとなしく抱かれている。嬉しそうに微笑む燕と黒猫の顔を見比べながら、弥彦はもう一度首を傾げる。
「こいつ、本当に猫なのか?」
子猫にしては大きな身体。透き通るような青い瞳の色も珍しい。
そして、単に黒だと思っていた毛もよくよく見ると、うっすらと斑点を散らしたような地紋がある。
絞りの着物にも似たそんな模様をもつ猫を、弥彦は今まで見たことがなかった。
もしかすると、猫ではない―――何か別の動物なのではないだろうか。
「お腹を空かせてたってことは、迷子なのかしら」
弥彦の疑問をよそに、燕が呟く。
「弥彦くん、この子・・・・・・どうしよう?」
猫らしき、しかし猫ではないのかもしれないその生き物は、燕の腕の中でうつらうつらと眠りに落ちかけていた。
2 「迷子」 に続く。