ひとの気配に聡くなったのは、剣を学ぶようになってからだ。
相手の動きを先に読むには、最大限に神経を研ぎ澄まし、集中しなくてはならないから。
幾人もの敵と戦うともなれば、四方八方に注意を向けないとたちまち斬り伏せられてしまうから。
そして幕末、人斬りの二つ名を得てからは、場数を踏めば踏むほど鋭敏になっていった。
斬るほどに、闘うことに秀でた身体になっていった。
生き残るために、殺すことに長けた身体になっていった。
それは、なんて忌まわしいことだろうと思っていた。
Here comes happy
後ろから、近づいてくる足音。
いや、正確には足音と呼べない程の、抜き足差し足というやつだ。
極力音を立てないように、静かに、ゆっくりと。だれかが背後に迫ってくる。
振り向かなくてもわかる。この歩き方、この気配は、君だ。
すでに、声の届く距離に近づいているのに、声をかけてこない。
と、いうことは。
次に来るであろう行動を予測して、身構える。
すなわち、今手にしている今日の夕飯の材料(野菜やら魚やら)が入った笊を、取り落とさないようきっちり持ち直す。
さあ、近づいてくる。
近づいてくる、近づいてくる、近づいて―――
「剣心!」
ぎゅっ、と。後ろから右腕にしがみつかれるのと同時に、明るい声。
そちらに首を動かすと、君の笑顔があった。
きらきらとした瞳と目が合い、自然とこちらの頬もほころぶ。
「おかえり、薫殿」
まだ家に着いてはいないが、外出していたのだから恐らくこれで正しいのだろう。君も俺に「おかえりなさい、お買い物おつかれさま」と返した。
「馨殿と静馬殿は、元気でござったか?」
「うん、馨さん、剣心に会いたがっていたわよ」
「拙者は会いたくないでござる」
「もう、そういう事言わないの!それにしても・・・・・・やっぱり、剣心には気づかれちゃうのね」
がんばって、静かにこっそり近寄ったのになぁ、と。君は悔しそうに唇を尖らせる。
気づかれるであろうとわかっていても、俺を驚かせるべく「努力」してくれるのは、俺としてはとても微笑ましく、とても嬉しい。
嬉しいのだが、でも。
「気づいてはいたが、少々あてが外れて残念でござるよ」
「え?」
何のことだろう、と首を傾げる君の目を、覗きこむ。
「てっきり、こっちのほうに飛びついてくるかと思っていたのだが」
片手で、首のあたりを示すと、君は目を丸くして、次いで頬にぱっと血を上らせる。
「えっ?!やだ、まさか、しないわよそんなこと!ここ、外なのよ?!」
「でも今は、周りには誰もいないようでござるが」
立ち止まってにっこり笑いかけると、君は束の間困ったように目を泳がせた。そして「・・・・・・じゃあ、これ、持ってて?」と、手にしていた小さな風呂敷包み
を俺に預ける。
「それじゃあ・・・・・・もう一度、やりなおすわよ?」
「うん、どうぞ」
この後来るであろう、ある程度の「衝撃」に備えて、荷物を持つ手にしっかりと力をこめる。
今来た道を戻って、数歩後ずさった君。
一歩、二歩と、軽やかに助走をつけて。とん、と小さな足が地を蹴って―――
「剣心!」
はずむ声音とともに、がばっと首に飛びついた君。
背中に、あたたかな体温がぶつかって、反動で笊の上の野菜が跳ねた。
落とさないよう持ちこたえつつ、もう一度「おかえり」を口にする。
「ただいま、剣心」
後ろから、ぎゅうっと首に抱きついたまま、優しく君がささやく。
ああ、どうしてこんなにも、君の声は心地好く耳朶に響くのだろうか。
どうしてこんなにも、君に触れられると、安らいだ気持ちになれるのだろうか。
傾いた西日が街並みを橙色に染める中、俺たちはひととき、ぴったりと身を重ねて夕焼け空の下佇んでいた。
―――が、やがて道の角から、帰路の途中であろう子供たちの一団が飛び出してきた。
「あー!大人なのに、おんぶしてる!」
「変なのー!」
きゃらきゃらと、笑いながらはやしたてられ、君はしぶしぶというように腕をといた。たしかに、今の体勢は俺が君を背負っているように見えなくもない。
「別に、変じゃないもん」
心外だ、というように拗ねた声を出す君に、「まったくでござる」と真面目くさって頷いてみせる。そしてふたり、顔を見合わせてくすくす笑う。
「荷物、ありがとうね。持つわ」
「うん、これ、何でござるか?」
「お菓子をいただいたの、一緒に食べましょ。西洋の焼き菓子なんだけど・・・・・・」
君のおしゃべりに耳を傾けながら、並んで歩く帰り道。
肩には、君に飛びつかれた余韻がまだ残っている。
気配に聡いとか、背後から襲撃されても返り討ちにできるとか。そんなの結局、闘うための血なまぐさい能力でしかなくて。
そんな事が身に染みついてしまった自分を、ずっと呪わしく思っていた。
でも、今日みたいに後ろから近づいてきた君にいち早く気づける事は、単純に「嬉しい」と思える。
振り向くより早く君に気づいて、どんなふうに声をかけてくるのだろうか、どんな笑顔をみせてくれるのだろうか、そんなことを想像して―――
振り向くまでの、声をかけられるまでの時間。
ほんのわずかな、短い時間ではあるけれど、わくわくしながらその瞬間を楽しみに待つことができる。
そのことを、素直に「幸せ」だと思えるようになったのは、間違いなく君のおかげだ。
「―――どうしたの?」
「おろ?何がでござる?」
「剣心、なんだか嬉しそうだから」
胸のうちにある想いをそのまま口にするのは照れくさいので、「薫殿と帰れるのが、嬉しいんでござるよ」と答えた。
「わたしも!」と元気に返してくれる君が可愛くていとおしくて、今度は俺から飛びついて抱きしめたくなった。
しかしながら―――此処では先程のように見とがめられる恐れもあるので、とりあえず家に着くまで我慢しておこう。
君の笑顔を眺めながら、そんな事を考えた。
★
それから、時は流れて。
天気の良い、夏の日の昼下がり。
縁側に座って、さんさんと降り注ぐ陽光を浴びながら、とりこんだ洗濯物を畳んでいると、後ろから足音が近づいてきた。
抜き足差し足、音を立てないよう、気づかれないよう、懸命に注意して歩いているのだろう。
とはいえ、そこは幼い子供のやることだから、俺が気づかない訳がないのだが。
おそらくは、背後からこっそり近づいて、父親をびっくりさせようという魂胆なのだろう。
あるいは、不意打ちの奇襲のつもりなのかもしれない。このところ剣路は、母親と仲が良すぎる俺に対して度々ケンカをふっかけてきたりするので。
いずれにせよ、洗濯物はひとやすみして、飛びかかってくる我が子の相手をするとしよう。
さて、どんなふうに迎え撃ってやろうか―――と、その瞬間をわくわくしながら待っている。
こんなひとときを過ごせる相手が、ふたりに増えた僥倖に感謝しながら。
さあ、小さな気配が背中にたどり着くまで、あと少し。
了。
2018.07.08
モドル。