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        「三つ、理由があるの」




        そう言って、薫は「怒っている理由」について話し始めた。
        ふたりの足の下からは、さあさあと水が流れる音が絶え間なく続いている。
        先程、薫が拉致された川は「落とされたら一巻の終わり」というくらいの水量だったが、今の時間のこちらの川は、割合穏やかな水音をたてていた。


        「三つ、でござるか」
        「三人、でもいいかしら・・・・・・まずは、黒笠よ。刃衛に怒ってるの」


        先程まで、剣心と闘っていた。そして、今は此岸の人ではなくなった敵である。
        薫はもうこの世にいない相手を糾弾するかのように、目の前の空間をきっと睨みつけ言葉を続けた。
        「あの人、最期に言いたい放題言ってたじゃない。剣心の本性がどうとかこうとか」
        「・・・・・・ああ、それは」
        今わの際に刃衛が口にしたのは、彼の背後には殺しの仕事を依頼した政府の高官がいるということ。
        そして、「お前の本性は人斬りだ」という、目の前が昏くなるような指摘。

        あの時、反論することが出来なかった。
        これまでに、数え切れない程の人間を殺めてきたのは事実である。
        それに―――理由はどうあれ、あの時自分は、確かに不殺の誓いを破ろうとしていた。

        薫は、剣心の表情に僅かに影がさしたのを見逃さなかった。しかし、敢えて気づいていないふうを装って、強い語気のまま続ける。


        「亡くなった人に対して一方的に言うのも失礼かと思うけど、やっぱりあの人、卑怯だわ」


        剣心は、毒気を抜かれたように目を丸くする。
        だって、彼女はさっき奴に殺されかけたというのに。そんな相手に「失礼」もなにもあったものではないだろうに―――それなのに薫は、怒りながらも死者
        に対して文句をいう不敬には気が咎めるらしい。

        「卑怯、とは一体?」
        彼女の生真面目さがなんだか微笑ましくて、つい、口元を緩めながら剣心は先を促す。
        「だってそうじゃない、あのひと言うだけ言って、こっちに反論させないまま勝手に死んじゃったのよ? 死なれちゃったら、もうこっちは言い返すことはできな
        いじゃない! 言いっぱなしなんてずるいわよ、卑怯でしょー!」
        「いや、別に拙者反論するつもりはなかったでござるし・・・・・・」
        「わたしは! 反論したかったの!」

        薫の顔が剣心の方を向く。強い意志の宿る瞳に瓦斯燈のあかりが反射して、きらきら輝く。
        剣心はその双眸に一瞬、見とれた。

        「だって、あの人は確かに昔の剣心のことは知っているかもしれないけど、今の剣心のことは知らないじゃないの。明治になってから、ずっと誰かを守るた
        めだけに刀をとってきた剣心のことは、なんにも知らないのよ? それなのに、一方的に勝手なこと言われたのが、悔しくって・・・・・・」
        喋っているうちに、どんどん気が昂ぶってきたのか、薫の頬にほんのりと朱の色がのぼる。
        彼女が、自分のためにこんなに必死になっているのが、嬉しかった。でも。


        「・・・・・・でも、それを言うなら、薫殿は知らないでござろう? 人斬りだった頃の、拙者を」


        薫が必死になればなるほど、何をしても覆せない自分の過去の罪がうらめしくて、剣心はつい、そんな台詞を口にした。薫の瞳が一瞬揺れたが、彼女は
        剣心から目を逸らさなかった。

        「確かに、知らないわ。でも、そのかわり、わたしは今の剣心を知っているもの」
        弾かれるように、薫はもたれていた欄干からぱっと背中を離した。そして剣心の正面に立って、まっすぐに向かい合う。


        「わたしは、剣心がわたしのことを助けてくれた事を知っているもの。掏摸だった弥彦を、正しい方向に連れ出したことだって知ってるもの。それに、そんな
        に長い間じゃなくても、一緒の家で暮らしていたらわかるもん。剣心はいつも穏やかで優しくて、とっても強くて、でもその強さを理由なくふりかざしたりはし
        ないって事、わたしはちゃんと知っているもの」


        迷いなく言い切った薫に、剣心は言葉を失う。
        幾許かの沈黙のあとようやく口にできたのは「・・・・・・買いかぶりすぎでござるよ」という一言だった。

        「買いかぶってなんかいないもん! だって、わたしはそういう剣心が・・・・・・」
        薫は身を乗り出すようにして更に続けようとしたが―――ふいに、橋の向こうからばたばたと賑やかな足音が近づいてくるのが聞こえて、はっとして喉まで
        出かかっていた言葉を飲み込んだ。
        足音は、ふたりぶんだった。やがて瓦斯燈の明かりのなか、一組の若い男女の姿が浮かび上がった。



        「―――ちょっと待てよ! だからそれは誤解だって言ってるだろ?!」
        「何よ今更! もう知らないっ!」
        「だから! 話を聞けって!」
        「今頃言い訳したって遅いわよ! 馬鹿っ!」

        男が女を追いかける格好だったため、剣心は一瞬身体をそちらに動かしかけたが、言い合う内容から痴話喧嘩であることはすぐ知れた。
        彼はぎゃいぎゃい言葉をぶつけ合いながら、剣心と薫には目もくれずに橋を渡りきり、灯りの届かない方へと消えてゆく。



        不意の闖入者のおかげで、薫は我に返った。
        前のめりの姿勢を正すと、再びもとの位置に戻って、欄干に背中を押し付ける。
        「・・・・・・とにかく、そういう今の剣心を知らないくせに、自分の知ってることだけで勝手な事を言ってる刃衛に、腹が立ったのよ」
        「・・・・・・うん、そうでござるか」

        ふたりはなんとなく、今の男女に感謝したい気分だった。薫はあのままだと更に「口を滑らせて」いただろうし―――剣心は剣心で、薫の視線を至近距離
        でまっすぐ受けとめると、どうにも胸が騒いで落ち着かないわけで。


        「・・・・・・では、二人目は誰に怒っているのでござる?」
        気をとりなおして尋ねてみると、薫はむすっとした顔で「自分によ」と答えた。
        「薫殿に?」
        意外な返答につい聞き返すと、薫は憮然とした様子で頷いた。

        「昼間、家を出るときにね、左之助に止められたの。わたしが行っても足手まといになるだけだから、やめとけって」
        はあぁと重い塊を吐き出すように大きく息をつき、薫はうなだれて両手で顔を覆った。
        「それを振り切って飛び出したっていうのに、結局人質にされちゃったりして剣心に迷惑かけて・・・・・・左之助の言ったとおり足手まといになってるんだも
        ん、悔しいわ」


        自分自身に怒っている、というのは、人質にとられてしまった自分が不甲斐ないと、腹を立てているらしい。
        しかし、剣心は似ているようで非なる理由で、やはり自分自身が許せなかったので―――だから、これには反論せずにいられなかった。


        「違うでござるよ、あれは、悪かったのは拙者だ。あの時、薫殿が連れ去られるのを止められなかったのだから」
        「違うでしょ、剣心は何も悪くないわよ。あのとき油断したわたしが悪いんだわ」
        「いや、油断していたのは拙者のほうだし、薫殿は巻き込まれただけでござる。薫殿にはなんの非もないでござるよ」
        「・・・・・・そう言われても、やっぱり悔しいものは悔しいのよ」
        薫はふたたび「はぁぁ」と盛大なため息をつくと、首をかくんと前に倒す。
        そして、自分の手のひらに視線を落とした。

        「わたしがもっと強かったら、足手まといにならずに済んだのかしら」
        ぽつりと呟くように言ったこの台詞に、剣心は申し訳ないと思いつつ、うっかり吹き出してしまった。
        「ちょっと、どうしてそこで笑うのよ」
        「い・・・・・・いや、すまない。でも、まさかそんなことを考えていたとは思わなくて・・・・・・」
        だって、「もっと強かったら」なんて、およそ普通の少女なら思いつかない感想だ。薫が大真面目であることはわかってはいるのだが、「勇ましい」ともいえ
        る悔恨の言葉が年頃の娘の口から飛び出したアンバランスさが可笑しくて、ついつい笑いがこみ上げてしまう。
        薫自身も、今の発言が女の子にしては規格外なことは自覚しているらしい。くつくつ笑う剣心をそれ以上咎めるでもなく、小さく肩をすくめると手のひらを瓦
        斯燈の灯りにかざした。

        「そりゃ、刃衛が凄く強いってことはわかってるけど・・・・・・気持ちの問題よ。ああいう状況で何も出来ないのが、悔しかったのよ。だから、そんな自分に対
        して怒ってるの」

        そう言って、唇を噛む。その様子はどこからどう見ても可愛らしい少女なのだが―――ああ、この娘はほんとうに「剣士」なのだな、と思った。
        強くなりたい。かつて、自分もそう焦がれていた時代があった。
        まだ少年の頃、師匠のもとで修行していた頃。もっと鋭く剣を振るいたい、もっと速く駆けられるように、高く跳べるようになりたいと、そんな事ばかり考えて
        いた。今、薫の瞳に浮かんでいる色は、少年の頃の自分と同じ―――思い描く「強さ」になかなか手が届かないことへの、苦しさともどかしさだ。
        剣心は、胸をよぎった懐かしさにも似た感情に、口元をやわらかく緩ませる。


        「薫殿らしいでござるな」
        「・・・・・・それって、女らしくないってこと?」
        むくれた声で返す薫に、剣心はそっと首を横に振る。
        「ひたむきだな、と思ったんでござるよ。剣術に対して」

        薫は、ちょっと目を大きくして、そしてうつむいて小さな声で「・・・・・・ありがとう」と言った。
        剣心はそんな彼女の様子を見て微笑んだが―――今ので二人目だ。まだ、あとひとり、怒っている相手が残っている。
        なんとなく予想はつくものの、それでも彼女の口から聞かせてもらわなくてはと思い、剣心は話の続きを促そうとした。が―――


        ばたばたばた、と。またもや近づいてくる足音。
        先程、ふたりが歩いてきた道の方からだ。こちらへ―――橋の方へと向かってくる。


        何とはなしに、剣心と薫はそちらに目をやる。やがて、瓦斯燈の灯りににひとりの女性の姿が浮かびあがった。その女性を見てふたりは、おや、と思った。
        それは今しがた、喧嘩をしながら橋の向こうから走ってきた女性であった。連れの男性はいない。ひとりきりで、この夜道を引き返してきたのだろうか。

        女性は先刻と同様、ふたりの横を駆け足で通りすぎた。そして、橋の真ん中あたりで立ち止まると、首を、川のほうへと巡らせ、欄干へと歩み寄った。
        剣心と薫は、彼女から漂う思いつめた雰囲気に、もしやと思って目で頷きあう。そして、ゆっくり彼女に歩み寄ろうとしたが―――女性が来たのと同じ方向
        から、またひとつ、足音が近づいてくるのに気づいて、足を止める。



        「・・・・・・おい! 待てよ!」
        走ってきたのは、連れの男性だった。欄干に手をかけ、橋の下をのぞきこんでいる女性に声をかける。
        「・・・・・・来ないで!」

        彼女は、男の方を見ずに叫んだ。
        そして、ぱっと草履を脱ぐと、足袋はだしで欄干の上によじ登った。



        これには男も―――居合わせた剣心と薫もぎょっとした。
        女は、着物の裾を乱しながら欄干の上に乗ると、よろよろと身体を揺らしながらその上に立った。足取りが危なっかしい。ひょっとしたら、酒が入っているの
        かもしれない。そう思いながら剣心は、女性に気取られないようこっそり、じりじりと、自分も欄干ににじり寄った。彼女の様子に気をつけながら、川面に目
        をやり、橋上からの距離を測る。

        瓦斯燈のおかげで、水面をよく見渡すことができるのは僥倖だった。剣心はあるものを目で探し―――そして、それを見つけた。
        即座に、おそらくこの後彼女がとるであろう行動と、それに対してどう動くべきか、頭の中で答えをはじき出す。


        「よ、よせよ、冗談だろ? お前、酔ってるんだよ、だから・・・・・・」
        もつれたような足取りで、男が近寄る。しかし、女性は「来ないでって言ってるでしょう?!」と、興奮した様子で男の言葉をはねつけた。そのはずみにぐら
        りと身体が揺れて、傍で見ている薫は思わず悲鳴を上げそうになった。
        「やっ、やめろ! 俺が悪かった! 謝るから! だからそこから降りてくれ!」
        男は、彼女がいる欄干までは近づけずに―――それでも声を限りに説得しようと必死だった。今にも膝をついて、土下座でもしそうな勢いだったのだが、
        女はそんな彼にゆっくりと首を振ってみせる。

        「だから、今更遅いって言ったでしょう・・・・・・?」
        男は、すがりつくような目で女を見た。女は、瓦斯燈の光のなか、この場にそぐわない朗らかな声で笑った。そして、



        「さよなら」



        女は目を閉じた。
        そして、仰向きにその身を虚空に傾ける。
        ふっ、と。彼女の姿が欄干の上から消えた。



        それと同時に―――薫の視界に、剣心が女を追って橋から身を躍らせる様が映りこんだ。



        「剣・・・・・・!」
        その瞬間、薫は剣心が「飛び降りた」ものだと思った。しかしすぐにそうではなく―――彼が「跳んだ」ことを理解した。


        橋の真下の水面に落下したのではなく、流れの先の、川縁に繋いである小舟を目がけて、剣心は「跳躍」した。
        だん、と舟の上に降り立つ。
        小さな舟は衝撃に大きく揺れたが、剣心はそれを感じていないかのように、足が船板に届いたのと同時に逆刃刀を抜き放った。

        杭に結ばれた舫の綱が、抜き打ちに切られる。舟は、流れに従って下流へと滑り出す。
        素早く櫂に手を伸ばし、川の中央へと向かう。川面に、濃い紫色が見え隠れしている。飛び降りた女が身につけていた着物の色だ。

        剣心は櫂を離し、逆刃刀をくるりと返し持つと、ざくりと舟の縁に突き立てた。ただ刺したのではなく、袴の裾を刃で縫い刺して命綱の代わりにする。
        船縁に手をかけ、剣心は大きく川面へと身を乗り出す。橋の上にいる薫は、舟がひっくり返りそうに大きく傾いたのを見て、今度こそ小さく悲鳴を上げた。

 
        しかし、身体を水面に投げ出すようにして腕を伸ばした剣心は、次の瞬間、その手で流される女の身体を攫った。
        がっしりと女の帯をつかまえて、そのまま舟の中へと倒れこむ。
        舟はまた大きく揺れたが―――却って今の反動で、転覆するのは免れた。



        「・・・・・・あ・・・・・・」
        薫は、知らぬうちに止めていた息を吐いた。

        小舟の上には、ふたりの姿があった。
        剣心が、こちらに向かって手を振ってみせるのが見えた―――助かったのだ。



        それは、一瞬の出来事だったが、薫にはとんでもなく長い時間に感じられた。そしてようやく、隣であの男性が狂ったように女の名前を叫び続けているの
        に気づく。これが耳に入らなかったのだから、自分もさぞかし胆をつぶしていたのだな、と苦笑する。
        そうこうしているうちに、舟は川下へと流れてゆく。薫はまだ声を張り上げ女を呼び続けている男の袖を引っ張った。


        「もう大丈夫ですよ。それより、わたしたちも下におりて、迎えにいきましょう」


        男は薫にかけられた言葉に漸く我に返り、がくがくと繰り返し頷いた。
        そしてふたりは、川縁に降りられる場所を探して走り出した。











      
  3 へ続く。