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        その後、剣心は川を少し下ったところにあった桟橋に舟をつけ、川沿いの道を走ってきた薫と男も追いつき、合流できた。
        川に飛びおりた女は呼吸はしっかりしていたが気を失っており―――結果として、剣心と薫は彼らに付き添って、再び小国診療所にとんぼ返りをすること
        となった。




        「水は飲んでおらんようだの。気を失ったのは川に落ちた衝撃のせいじゃろう、大丈夫、命に別状はないよ」
        同じ晩に二度叩き起こされた玄斎は、さすがに眠そうな様子だった。彼の診断に安堵した男は声をあげて泣き出し、剣心に何度も何度も礼を言った。
        剣心と薫もひとまず安心したが―――ここまできたら、それこそ乗りかかった船である。道場に帰るのは、彼女が目覚めるのを見届けてからにすることに
        した。

        「しかしまぁ、額を割った次は身投げとは・・・・・・まったく忙しい夫婦じゃのう。次は何をしでかすのやら」
        玄斎は欠伸混じりでそう呟くと、少し休むから何かあったら知らせるよう剣心と薫に言い残して、一旦自室へと下がっていった。


        「・・・・・・先生がさっき言っていた夫婦って、あのふたりのことだったのね」
        「夫婦喧嘩というには、度を越しているようでござるが」
        「ほんとね。喧嘩するほど仲が良いっていうけれど、ここまで極端にはなりたくないかも」
        「ああ、まったくでござるなぁ」
        例の夫妻がいる部屋の、隣の病室をあてがわれた剣心と薫は、空の寝台に並んで腰を下ろした。とりあえずの人心地がついたふたりは、やれやれと思
        いながらそんな会話を交わしたのだったが―――そこでふたりは、身投げ騒ぎに出くわす直前までの状況がどんなだったかを、ふいに思い出した。

        「・・・・・・薫殿」
        「なぁに?」
        「拙者たちは・・・・・・あれは、喧嘩、していたんでござろうか」
        「喧嘩ではないでしょう。わたしが勝手に、ひとりで怒っていただけだもの」
        「・・・・・・そうでござるか」
        「・・・・・・でも、ひょっとしたら、ここから先は喧嘩になるかもしれないけれど」


        薫は、隣に座る剣心の顔を見ないでそう言った。
        そうだ、まだあの話は、途中だった。

        薫が「怒っている」と言った三人の相手。
        ひとりは刃衛、もうひとりは薫自身、あとのひとりが誰かは、まだ訊いていなかったが―――剣心は、ひとつ咳払いをしてから、口を開いた。


        「薫殿」
        「なぁに?」
        「あとひとり、怒っている相手というのは・・・・・・拙者のことでござろうか?」

        薫は、ゆっくりと首を動かして、剣心の顔を見た。
        「どうして、そう思うの?」
        「いや、それはやはり、リボン、が・・・・・・」


        リボンはもう、ただの「引き金」だと薫は言っていたが、それでも彼女が怒る理由としてはこれしか思いつかなくて、そう答えたのだが―――薫は、剣心の
        顔をじっと見つめて、そして小さくため息をついた。

        「そうね、剣心リボンどろどろにしちゃったし、今着てる自分の着物だって血で汚しちゃったし」
        「あー、洗濯は自分でするでござるよ」
        「肩のところと、それから今ので袴にも穴開けちゃったし」
        「・・・・・・それは、えーと」
        「それは、わたしが繕っておくわね」
        「・・・・・・かたじけないでござる」

        情けない声でそう言って頭をかく剣心に、薫はほんの少し目許を緩めた。
        それから―――何故か、悲しそうに瞳をくもらせる。

        「次が、一番大きな理由なんだけど」
        「え、まだ何かあるんでござるか」
        「あるわよ、次が一番重要」

        話しているのは「怒っている理由」についてなのだが、もう薫は声を荒げたりはしなかった。むしろ、剣心を見つめる目は泣き出す寸前のように揺れてい
        た。いったい何を言われるのかと、剣心は覚悟をもって彼女の瞳を見つめたのだが―――



        「剣心、怪我するんだもの」
        「・・・・・・は?」

        口にしたのは、思いもよらぬひとことだった。



        「・・・・・・怪我をしたことに、怒っているんでござるか?」
        「そうよ、だって怪我したら痛いじゃない」
        「そりゃ確かに痛いが・・・・・・え、どうしてそれで薫殿が怒るんでござる?」
        訳がわからなくて思わず尋ねると、薫はますます泣きそうに顔を歪めた。

        「怒るわよ、わたし、剣心に怪我なんてしてほしくなかったんだもん」
        そう言って、薫は剣心から目を逸らして、視線を膝の上に落とした。


        「めちゃくちゃなこと言ってるのは、わかってるの。でも、ごめんね。わたしまだ動揺してる・・・・・・だって、びっくりしたんだもの」
        「・・・・・・何にでござるか?」
        「剣心が、あんなふうに闘うところ、初めて見たから」
        「・・・・・・抜刀斎だったときのように、でござるか?」

        やはり、俺のことを、怖いと感じたのだろうか。そう思って訊いたのだが、薫は首を横に振った。
        「剣心が怪我をするほどの闘い、ってことよ」


        今まで、薫は何度か剣心が闘う場面を目にしてきた。出会ったばかりのl頃、偽抜刀斎と。剣客警官隊と。そして、左之助と。
        いずれも剣心は、危なげなく彼等に勝利してきた。しかし今回の相手とは―――今までとは、違っていた。

        「さっき、もし剣心が死んじゃったらどうしようって思った。あんな終わり方にはなっちゃったけど、それでも剣心がちゃんと生きてて、わたし、凄く嬉しかっ
        た。でも・・・・・・無傷では、なかったでしょう」
        そう、闘いが済んでからも剣心は涼しい顔をしていたが、実際は肩に一太刀浴びせられていた。剣心自身は、このくらいの傷なら自分で手当できると、
        軽く考えていたのだが―――

        「薫殿、確かに拙者は怪我をしたが―――でも、拙者にしてみれば、このくらいどうってことないんでござるよ? それより―――薫殿が傷つけられるほう
        が、よっぽど嫌なんでござるよ」
        だから、刃衛が薫に心の一方をかけたとき、剣心は「ぶち切れて」しまったのだ。
        あの瞬間、彼女の命が危険に晒されて―――とてもじゃないが、冷静ではいられなかった。

        「・・・・・・それと、同じことよ」
        「え?」
        「わたしだって、嫌だもの。剣心が傷つくところは見たくないし、剣心が傷ついたら・・・・・・わたしも、痛いもの」



        ・・・・・・ああ、そうか。
        剣心はなんとなく、薫が怒っているわけが、理解できてきた。


        彼女は―――「心配」するあまり、怒っているのだ。



        「怪我してるのに、あんなふうに笑ったりしないでよ。誰かを助けたら、代わりに自分が傷つくのが当たり前みたいな顔しないでよ・・・・・・守ってもらえるの
        は嬉しいわ。でも、それで剣心が怪我したりするのは・・・・・・嫌なんだもん・・・・・・」
        喋っているうちに気がたかぶってきたのか、声がだんだんと涙の気配を帯びてきた。薫は一旦言葉を切ると、ぐっと顔を上にむけて、こぼれそうになる涙を
        ぐっとこらえた。

        「・・・・・・ごめんね、ほんと、わたしめちゃくちゃ言ってるわ」
        「いや・・・・・・薫殿の気持ちはわかったでござるよ、すまなかった」
        剣心は小さく頭を下げ、薫は目許を指でそっと押さえた。すっかり赤くなった目で、もう一度剣心の顔を見る。

        「わたしだけじゃないわよ? 弥彦だって左之助だって、あなたに怪我なんかして欲しくないって思ってるんだから」
        「うん・・・・・・そうでござろうな」
        「だからもう、怪我したりしないで」
        「うん、可能な限り頑張るでござる」
        剣心としては大真面目に答えたつもりだったのだが、薫は「可能なかぎり、なのね・・・・・」と渋い顔をする。

        「ねぇ剣心、今はね、幕末じゃなくて明治なんだからね? あなたが作りたかった時代は、みんなが自由で平和に生きられる時代なんでしょう? それな
        のに、当のあなたがそんなんじゃダメじゃない! それじゃあまるっきり幕末の感覚でしょう?!」
        「・・・・・・いや、まったく、そのとおりでござるな」
        まだ、瞳は涙で潤んでいるけれど、薫の声はいつしか説教口調になっていた。誰かに「叱られる」なんて、ものすごく久しぶりのことだ。しかも相手は、ひと
        まわり以上年下の少女である。剣心は、なんだか妙にくすぐったい気分になりつつも、薫の言葉に素直に頷いた。


        「わたしはあなたや刃衛と違って、あの当時の京都を知らないわ。だから、剣心たちがどのくらい必死にあの頃を闘ってきたのかは、わからないわよ。でも
        ―――だからといって、今の時代を甘くみないでよね? あなたの事を心配しているひとたちがいるぶん、あなたは絶対に無事でいなくちゃいけないの。怪
        我をしたり、危ない目に遭ったりしちゃいけないの!」


        頬を紅潮させて、薫は一息に言い切った。
        そんな、懸命な様子の彼女に剣心は、ああ本当に―――今は、新しい時代になったのだな、と思った。

        あの頃は、誰かの血が流れるのは日常茶飯事だった。仲間も、敵も、命を削りながら生きていた。闘って、斬って、斬られて、それがあの頃の「あたりま
        え」だった。同志が道半ばに斃れたとき、尊敬に値する敵を倒したとき、彼等の死を悼みはしたが―――それを、当然の事象として受け止めていた。

        もちろん、自分も。
        いつ死んでも構わないという覚悟で闘ってきた。けれど―――


        「承知したでござる。ほんとに・・・・・・気をつけるから」
        「ほんとに? 約束できる?」
        「うん、出来る限り」
        どうあっても「絶対に、危険な目には遭わない」と断言する気はないらしい剣心に、薫は脱力するようにがくりと首を前に倒した。
        「・・・・・・まぁ、そう言っても剣心は、誰かに何かあったら助けずにいられない性格なのよね・・・・・・だからこそ、今、ここにいるんだものね」
        何せ、その目にとまる弱い立場の者を助けたい、という思いひとつで、彼は十年間流浪人を続けてきたのだ。それに、なんだかんだ言って薫自身も何度も
        剣心に助けられているのだし。そしてそれには―――大いに感謝しているのだし。そんなわけで薫は、仕方がない、と諦めたように微笑んだ。

        「さっきの事だってそうだけど・・・・・・大丈夫? 傷、開いたりしてない?」
        さっきの事とは、身投げした女性を助けたことである。刃衛との闘いに比べたら「ちょっと身体を動かした」程度の働きなのかもしれないが、先程手当てをし
        たばかりの傷が気になって、薫は眉を寄せて尋ねる。
        「大丈夫でござるよ」
        「ほんとうにー?」
        「ああ、ほら、このとおり血も滲んでいないし―――」


        そう言って剣心は、薫のほうに身体をむけて、着物の袷をぐいっと開いてみせた。
        薫に、肩に巻かれた包帯の白さを示すためにだったのだが―――

        ちょうどその時、がたがたっと隣室で椅子が倒れるような音がした。
        間髪入れずに、ふたりのいる病室の扉が勢いよく開かれる。

        「先生っ! 来てください! あいつがっ・・・・・・妻が、目を覚ましました!」
        例の、夫婦喧嘩の良人のほうだった。


        「あ、あれ? あの、先生は・・・・・・」
        「ああ、自室で少し休むと言っていたでござるよ、今呼んでくるでござる」
        「よかったぁ! 奥さん、目を覚ましたんですね!」
        そう言って立ち上がろうとした剣心と薫を、男は慌てて押しとどめるように腕を動かした。
        「あっ、いやっ、いいんです俺が呼びに行きますからっ! その―――邪魔をして、すんませんでしたっ!」

        ばたん、と再び勢いよく扉が閉じられた。
        一瞬、男の言った意味がわからずふたりはきょとんとした、が。


        並んで座った、寝台の上。
        剣心は、今まさに着物を脱ぐような格好で薫にぐっと身体を寄せる姿勢をとっていたわけで。
        つまりは―――妙な方向に、勘違いをされたらしい。


        ふたりはほぼ同時にそのことに気づき、男に誤解であると伝えるべく、大慌てで寝台から下りて病室から飛び出した。










        目が覚めた女は、最初のうちは自分がどこにいるのか、何故どうやって助かったのか判らず混乱していたが、玄斎からことの次第を説明されてなんとか落
        ち着いた。助けてくれた剣心には素直に、そして神妙な様子で礼を述べたが、良人に対してはなかなか強硬な姿勢を崩そうとはしなかった。

        ともあれ、玄斎は夫婦に「まず、きちんと話し合いなさい」と言い含め彼等を病室にふたりきりにした。閉じた扉の向こうからは最初は妻の語気の荒い声が
        聞こえていたが、じきにそれはぼそぼそと低い声に変わっていって―――どうやら話し合いは良い方向にむかっている気配である。もう修羅場になったり
        することはないだろうと判断した剣心と薫は、そこでようやく診療所を辞することとした。


        既に、空は白み始めていた。結局、先程借りた洋燈はその場で返し、いよいよ眠そうな玄斎は「君たちも帰って一眠りしなさい、睡眠不足は身体に悪いか
        らな」ともっともな忠告をしてふたりを送り出した。

        「二日続けて、徹夜しちゃったわ」
        「ああ、長い二日間でござったなぁ」
        谷邸と、鎮守の森での刃衛との対決と、ついでに思いがけず人命救助のおまけもついた、実に密度の高い二日間だった。薫が口元を手で覆いながら欠
        伸をするのを見ながら、剣心は「昨夜、寝ないで待っていてくれたんだな」とこっそり思った。


        「薫殿」
        「んー?」
        「リボン、新しいの買って返すでござるよ」
        「だから、それはもういいってば。ほんとに気にしてないから」
        「いや、それでは拙者の気が済まないでござるよ。今度、選びに行こう」
        「・・・・・・一緒に行ってくれるの?」
        「うん、薫殿が嫌でなければ」
        「・・・・・・ん。じゃあ、お言葉に甘える」

        薫は小さく肩をすくめるようにして、くすぐったそうに笑った。
        早朝の大通りにまだ人の姿はなく、ふたりは清澄な朝の空気を肌に感じながら、いつもよりゆっくりとした歩調で歩いた。

        「剣心」
        「うん?」
        「さっきも言ったけど、ありがとね。助けてくれて」
        「いや、拙者は別に―――」
        「それと、ちゃんと帰ってきてくれて、ありがとう」
        剣心は、足を止めた。
        隣を歩く薫も、同様に立ち止まる。照れくさそうに、視線は前を向いたままだったが。


        「拙者のほうこそ、かたじけない」


        それは、やはり先程も言ったことだったが―――人斬りの自分から、こちら側へと連れ戻してくれたことへの礼。
        そしてもうひとつ、真剣に心配をして、真剣に怒ってくれたことへ対しての礼だった。

        ころん、と下駄が軽やかに鳴る。
        薫は一歩踏み出すと、くるりと身体を回すようにして剣心の前に出た。


        「どう、いたしまして!」
        振り向いて笑った彼女の髪に、生まれたての陽の光があたってきらめいて、剣心は目を細める。



        「今の時代を甘く見ないで」と言った薫。
        彼女の言うとおり、命を削りながら生きていた、いつ死んでも構わない覚悟で闘っていたあの頃より、ごく単純に「痛いから怪我はしないで」と怒る人がい
        る今のほうが、ある意味甘くないのかもしれない。だって、それはつまり「何があっても無事でいろ」という要求なのだから。

        でも、それこそが、正しいのだ。
        誰の血も流さない、流れない。誰の命も奪わない、奪われない。それが当然であるべきなのだ。
        あの時代に―――幕末に焦がれていたのは、まさにそんな世の中だったのだから。



        「今日は、いいお天気になりそうねぇ」


        先程の「現場」である橋へとさしかかる。川面に朝日が反射してきらきら光るのを眺めながら、薫が笑った。
        泣き顔も、怒った顔も可愛いけれど。でもやっぱり彼女には笑った顔が一番似合うな、と剣心は思った。

        この笑顔をくもらせないためにも、もう、二度と「人斬り」には立ち戻るまい。
        たとえ本性がそうだとしても、このまま一生抑えてみせる。死ぬまで―――不殺を貫こう。



        改めて、そう心に誓いながら、剣心は「そうでござるな」と微笑んだ。













        道場に着くなり、待ちかねていたような左之助はにやにや笑いをふたりにむけて、それから剣心の肩を捕まえた。
        「揃って朝帰りたぁスミにおけねぇなぁ。で、とーとーやっちゃったのか? どうだったよ?」

        その台詞がしっかり耳に届いていた薫は、弥彦の背中から竹刀をもぎ取ると、左之助に向かって無言でふりかぶった。
        背後に迫る剣呑な気配を感じながらも、今回の怒りの矛先は完全に自分とは無関係だったので―――剣心は安心して静観を決め込むことにした。



        そして賑やかに、また一日が始まる。












        はじめての朝帰り 了。






                                                                                          2013.07.05








        モドル。