「刃衛と闘った後、忘れてそのまま旅に出たら―――絶対に、許さないからね・・・・・・!」



        君から引き止められたのは、二回目だった。
        すこし頬を赤く染めて、必死な目はなんだか泣きそうで。
        まるで小さな子供が駄々をこねているみたいで、つい、くすりと笑ってしまった。

        藍色のリボンを受け取り「必ず帰る」と約束をすると、君は「・・・・・・よし」と強がる口調で頷いて、それからようやく微笑みを浮かべた。
        あふれた涙のせいで瞳がいつもより更にきらきら輝いて、綺麗だなと思った。



        事態が急変したのは、その直後。
        遠ざかる叫びと狂気を帯びた笑い声を聞きながら、怒りで頭の中が真っ白になった。



        取り戻さないと。
        ただ、それだけを思って刀をふるった。

        十余年ぶりに蘇った、あの頃の感覚。
        結局、刃衛は自らの刃で命を絶つこととなったが―――




        闘いの後、ひょっとしたらここでの暮らしも、これで終わりかな、と思った。











        
初めての朝帰り





        
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        「ちょっと、何よこれー!」


        約束のリボンは、刃衛に斬りつけられた傷の所為で、ものの見事に血みどろになっていた。
        藍色の地の半分が黒ずんだ血に染められ、無残な姿になったリボンを手にし、薫の肩がわなわなと震える。

        「そうか、左肩の出血が流れて懐に溜まったんでござるな・・・・・・って、薫殿?」
        薫は無言で剣心に向かって手を伸ばすと、そのまま逆刃刀の柄を握り、すらりと抜き放った。月光を受けて刃が剣呑な色に輝く。

        「・・・・・・許せない」
        「えーと、薫殿?」
        「シメてやるから、そこになおりなさいっ!」
        「ふっ、不可抗力でござるよー!」
        目に涙をためて、薫は逆刃刀を大上段にふりかぶる。長年、共に過ごしてきた刀を自らに向けられるのは、これが初めてだった。
        「問答無用っ! 大人しくしなさいっ!」
        ぶん、と刃が空を切る音に、剣心は殆ど反射的に薫に背をむけ走り出す。
        「もうっ、待ちなさい剣心ー!」

        思いがけず始まってしまった、深夜の追いかけっこ。
        追うほうの薫は怒り顔だったが、追いかけられる側の剣心は、走りながらこっそり口元を緩めた。



        ―――なんだ、いつもどおりじゃないか。



        薫を守るため、不殺の誓いを破ることに躊躇いはなかった。
        あの瞬間、自分は確かに刃衛を殺そうとした。そして「人斬り」の顔を、彼女に見られてしまった。

        いくら薫が気丈な娘でも、真剣での殺し合いを目の当たりにして、さぞ恐ろしかっただろう。
        だから、ここでの暮らしはもう終わりかな、と思っていた。

        以前薫は「過去にはこだわらないわ」と言ってくれたけれど―――流石に今日の闘いを見て、彼女は、俺のことを怖がるだろうと思った。
        そうなったら、もうあの家にはいられない、と。


        しかし、実際の薫の反応は剣心の想像の斜め上で、怖がるどころか、こうして怒り心頭で剣心を追いかけ回している。
        ―――どうやら、俺は彼女を見くびっていたらしい。
        あんな目に遭っても、人斬りの顔を垣間見ても、彼女は今までどおり、変わらないでいてくれるらしい。

        さっきまで殺すか殺されるかの命のやりとりをしていたのに、あっさり「いつもどおり」に戻って追いかけっこをしている。その事実が可笑しくも嬉しくて、こ
        んな状況だというのに笑いがこみ上げてくる。いや、流石に今笑うのは薫に対して失礼なのだが。


        とはいえ、こんな事をずっと続けていてはいつまでたっても帰れない。
        ―――仕方ない、一発殴られて、それで許してもらうことにするか。

        剣心は、そう思い、足を止めた。
        回れ右をすると、すぐそこまで迫っていた薫も間合いをとって立ち止まり、ぶん、と逆刃刀を振り下ろす。
        さすがに、剣心は目を閉じたが―――刀身が肩の少し上でぴたりと止まる気配を感じ、すぐに再び目を開けた。

        刀が、顔の横できれいに静止しているのを目だけ動かして確認し、彼女の細腕でよくもまぁと感心した。普段は主に竹刀を操る薫にとっては逆刃刀は相
        当重いだろうに、師範代の名は伊達ではないらしい。
        しかし、そんな呑気なことを考えていられたのは一瞬だった。頬の横で空気が動くのを感じる。刀身が、顔すれすれにまで近づけられたようだ。


        「・・・・・・寄り道、していくわよ」
        「へ?」
        「命が惜しかったら、大人しくついてきなさい」




        涙のあふれた瞳で睨みつけてくる迫力は、はっきりいって刃衛を遥かに超えていた。
        ひょっとして、命のやりとりはまだ続いているのかな、と剣心は思った。







        ★







        命をタテにいったい何処に連れて行かれるのかと思ったら―――到着したところは、剣心にとっては予想外の場所だった。



        「小国診療所・・・・・・でござるか?」


        きょとんとしながら剣心が看板の文字を読むと、薫は頷いて一歩前へ踏み出した。
        「ごめんくださーい! 夜分すみません! 神谷道場の薫です、ご開門願いまーす!」
        おもむろに、どんどん戸を叩きながら訪いはじめた薫に、剣心はぎょっとする。
        「か、薫殿! 何をしているでござる?! こんな時間でござるよ?!」
        慌てて止めようとしたが、薫は意に介さず、というふうに戸を叩き続ける。

        「大丈夫よ。ここの先生はうちのかかりつけだし、この界隈の道場の面倒事はたいてい引き受けてて荒事にも慣れているから、安心して診てもらえるわ」
        「いや、しかしこんな真夜中に大声を出しては、まず近所迷惑でござろう」
        「それもそうだけど・・・・・・大丈夫よ。急患なんだから仕方ないってわかってくれるでしょう」
        「急患って・・・・・・誰がでござる?」
        薫はぴたりと手を止めて、首を剣心に向き直して更に大きな声を浴びせかけた。


        「何言ってるのあなたのことでしょー?!」
        「・・・・・・おろ?」


        そういえば、怪我をしていたのだったと思い出す。
        そして、まるで今の薫の声に応えるかのように戸が開き、ねぼけ顔の老人がひょこっと中から顔を出した。








        玄斎というその医者は本当にこういう事態に慣れているらしく、ろくに事情も訊かずに剣心たちを診察室に通すとてきぱきと治療を始めた。


        「うむ、太い血管も傷ついておらんし、軽傷だの。若いからすぐに治るだろう」
        傷に包帯を巻きながらの玄斎の言葉に、薫はほっとして肩の力を抜いた。そんな薫に向かって、玄斎は意味ありげな笑いを向ける。
        「それにしても・・・・・・薫くんにこんないいひとが出来ていたとは知らなんだ。ちゃんとご両親の墓前には報告に行ったかね?」
        「違いますっ! いいひとなんかじゃありませんっ!」
        顔を真っ赤にしてぶんぶん首を横に振って否定する薫に、玄斎は「おお、すまんすまんわしはてっきり・・・・・・」と笑って謝った。

        「しかし、痴話喧嘩で刀傷を作るとはやりすぎじゃな。この前は夫婦喧嘩で額を割れた旦那さんの治療をしたが、その上を行っておるよ。まあ、危ないから
        今後は刃物を持ち出してはいかんよ」
        「もー! だから違うって言ってるじゃないですかー!」

        うなじまで赤くなりながら反論する様子が可笑しくて、つい剣心も笑ってしまったが、薫にぎろりと睨まれて急いで顔を引き締めた。



        無駄口を叩きながらも玄斎は手際よく手当てを終え、傷薬とともにふたりに灯りを持たせた。提灯ではなく、ずっしりと持ち重りのする洋燈である。
        「月も出ているが、持って行きなさい。返しに来たときに、また傷の様子を診ることにしよう」
        剣心と薫は玄斎の厚意をありがたく受け、礼と一緒に深夜に無理矢理叩き起こした事への詫びを述べ、診療所を後にした。


        ふたりの後姿を見送りながら玄斎は、「ま、これからいい仲になってゆくというところかの」とひとりごち、大きく欠伸をした。







        ★







        玄斎の言ったとおり月はまだ出ていたが、先刻刃衛と闘っていた時よりだいぶ低い位置に移動していた。
        洋燈で足元を照らしながら剣心と薫は道場への道を歩いていたが、診療所を出てから、ふたりの間に会話はない。

        剣心は、先程の薫の様子を思い返してみる。
        柳眉を逆立てて、逆刃刀をひっ掴んで自分を追いかけ回した薫。あの様子からすると、彼女は自分が「人斬り」に豹変する様を目の当たりにしても、恐怖
        の念を抱かなかったといえる。彼女は確かに、今もこれまでとまるっきり同じ目で、自分を見てくれている。


        と、なると。
        現在薫が黙りこくっている理由は「怖いから」とかではなく、やはり―――まだ、怒っているから、なのだろう。


        道場まではまだ距離がある。その間、このまま延々と沈黙が続くことに耐えきれず、剣心は思い切って口を開いた。
        「あの―――すまなかった、薫殿」
        「・・・・・・何が?」
        隣を歩く薫は、むすっとした声で答えながら剣心の顔を見る。反応してくれたことに安心して、剣心は続けた。
        「その、せっかく貸してくれたのに、リボンを駄目にしてしまって」
        「もう、いいわよ。もともとあれは、わたしが押しつけたんだし」
        「いや、でも拙者は―――」

        ああやって、再び引き止めてもらえたことが嬉しかった。
        そう言ってしまいそうになり、しかしそれは踏み込みすぎた発言かと思い直し、口をつぐむ。言いかけて止めた剣心を、薫は追及しなかった。

        再び、会話が途切れる。黙ったままふたりは歩を進め、やがて大通りに出た。
        ふいに、あたりが明るくなる。通りの両脇に続く瓦斯燈のせいだ。ここを抜けるまでは、洋燈はいらないな―――などと剣心が考えていると、薫はぽつりと
        呟くように唇を動かした。


        「・・・・・・怒ってるわよ」
        「え?」
        「確かにわたし、今、怒ってるわよ。でも、別にリボンだけが原因で怒っているわけじゃないんだからね?」
        「え、違うんでござるか?」
        「違うわよ! そんなことで怒ってるんじゃなくて・・・・・・」
        薫は勢いよくかぶりを振り、歩みを止める。折りしも、ふたりは大きな橋に差し掛かっていた。

        「そりゃ、さっきはまず、リボンがあんなになってるのを見たものだから、かーっとなっちゃったけれど・・・・・・何ていうか、リボンの事はただのきっかけってい
        うか・・・・・・そうね、引き金みたいなものよ」

        薫はくるりと踵で回るようにして身体を反転させると、二歩三歩と後ずさった。そのまま、背中にあたった橋の欄干に身体を預ける。
        「引き金・・・・・・でござるか?」
        剣心は、薫の隣に並び、彼女の真似をするように寄りかかる。橋は明治になってから作られた西洋風の頑丈なもので、欄干の意匠も凝ったものだった。


        どうやら、薫は押し黙るのをやめて「怒っている理由」を説明してくれる模様である。
        ここで腰を据えて話し出すと、道場へ着くのは更に遅い時間になってしまうだろうが―――剣心としては早く彼女の怒りがとける事を願っていたので、こう
        なったら朝帰りになるのも構わないつもりでいた。まずは、手に持った洋燈を足元に置く。




        「あのね―――三つ、理由があるの」











        2 へ続く。