9  約束だから










        「なぁ、薫」
        子供たちの声が響く稽古中の道場で、弥彦は尋ねた。
        「ん、なぁに?」
        「あの子供って、見学か?」


        弥彦が顎をしゃくった先には、道場の壁際に座る小さな女の子―――神様の姿があった。
        この時間、彼女の従者である老紳士は「社の修理の具合を見てきます」と言って、神社に出かけている。
        「えーと、そうなの。この前縁日で知り合ってね、一度稽古の様子を見てみたいって言うから・・・・・・」

        嘘は、言っていない。
        神様と出会ったのはあの縁日だったし、彼女が「稽古が見たい」と言ったのも事実だ。まぁ、あと数日で神様は居るべき場所に帰ってしまうので、入門する
        のは無理であろうが。
        「女剣士志望かー・・・・・・嫁の貰い手がなくなるからやめておいたほうがいいと思うけどな」
        「・・・・・・何度も言ってるけど、わたしはお嫁に貰ってもらえたわよ?」
        「何度も言ってるけど、剣心のような物好きは他にそうそういねーよ」
        ぶん、と振り下ろされた薫の竹刀をよけて、弥彦は「さーて、休憩終了!」と門下生たちの輪に戻っていった。


        「・・・・・・本当のことを言ったって、信じてもらえないわよねぇ」
        小さくひとつ息をついて、薫はつぶやく。剣心のように身をもって体験しているならともかく、いきなり「あの子は時間の神様よ」などと弥彦に話したものなら
        ば、きっと正気を疑われることだろう。
        その神様は薫から借りた人形を腕に抱きながら、興味津々といった様子で稽古風景に見入っていた。







        「ありがとうございましたー!」
        「薫先生、またねー!」

        道場の門を出て帰路につく弥彦や門下生たちを、薫は神様と一緒に見送った。たまたま通りかかった近所の主婦が、薫の隣に立つ神様を見て「あらあ
        ら、いつの間にそんな大きなお子さんが?」とからかうような声をかけた。薫は頬を少し染めながら「だといいんですけどー」と笑って返す。


        「お疲れ様」
        庭づたいに奥に戻ろうとすると、縁側から降りてきた剣心から、冷えた麦湯を差し出された。「ありがとう」と受け取ると、神様がぴょんと飛び跳ねるように剣
        心の腕にとりすがる。剣心がそのままひょいっと神様を抱き上げるのを見て、薫はくすりと笑った。
        「何でござるか?」
        「うん、えーとね・・・・・・」

        先程「大きなお子さん」と言われた所為もあるだろう。
        軽々と神様を抱き上げた剣心は、まるで「お父さん」のように薫の目に映った。


        「わたしね、なんとなくだけど、最初の子供は男の子がいいかなぁって思っていたの」
        「うん、前にもそう言っていたでござるな」
        「でも、神様を見ていたら、女の子でも素敵かなぁって、思っちゃって・・・・・・」

        剣心は神様を抱いたまま、目をぱちくりさせる。そして、薫の道着のお腹のあたりに視線を落とした。
        「・・・・・・薫、あの、それは、ひょっとして」
        剣心の目線とうわずりそうな声の意味を理解するのに、少しの時間を要した。そして薫は一拍遅れて、ぼわっと頬を赤く染める。


        「いやっ!違うの!そうじゃなくて・・・・・・ただ思っただけで、まだ・・・・・・そうじゃないの」
        「あ・・・・・・いや、すまない、そうでござるが・・・・・・まだ、でござるよな」
        互いに「まだ」という部分をなんとなく強調したのは、「でも、今にきっと」という希望をこめたからだ。つられて赤くなった剣心の頬を、神様が不思議そうにぺ
        ちぺちと叩いた。
        「・・・・・・順番はともかく、男の子と女の子、どちらも欲しいでござるな」
        それも剣心が以前から言っていることなので、薫はくすぐったそうに微笑みながら、こくんと頷いた。

        「男の子なら、剣心によく似た子がいいなぁ。そうしたらきっと、昨日会った剣心みたいな子に育つのね」
        「昔の拙者、でござるか」
        にこにこと笑う薫と対照的に、剣心の顔が微妙に渋くなる。
        「また会おうと、約束したのでござるか?」
        「そうよ、剣心から別れ際に、またねって言われたわ」
        神様の、まるい大きな瞳がじっと薫の姿を捉えている。その視線に気づいて、剣心は「これはもしや」と嫌な予感にとらわれる。


        「・・・・・・でも、過去の剣心に会える機会があったとしても、それはあと数回でおしまいなのよね。それは、寂しいな」
        「こらこら、拙者はちゃんとここにいるでござろう」
        剣心は神様を片腕で支えながら、もう片方の手をのばして薫の髪を一房捕まえた。それをくいくいと引っぱって、抗議の意を露わにする。
        「やーん、言ってみただけよー!」

        薫は剣心の子供じみた攻撃から逃れようと、笑いながら身を翻す。
        「でもほら、わたし昔の剣心と約束したんだもの。今度、竹刀で手合わせしようって」



        するり、と。薫の艶やかな黒髪が剣心の指をすり抜けて、風に弧を描いた。
        そして。





        「だからせめてもう一度くらいは、会いに行きたいな・・・・・・なんて、思っ、て・・・・・・」





        語尾は、中途半端に途切れた。
        薫が振り向くと、今の今まで傍にいた剣心と神様はそこにいなかった。





        耳に涼やかな、川のせせらぎ。
        あたりの空気に、ふいに清涼さが増した。
        見上げると、頭上には緑の木の葉が繁り、その間からのぞく、青い空―――


        それは、見たことのある風景。
        と、いうことは―――





        「あー! 薫?!」





        緑に囲まれた小道の先、こちらにむかって手を振っているのは、少年の日の剣心だった。



        「久しぶり! どうして今日だってわかったの?」
        小鹿が跳ねるような足取りで薫に駆け寄った剣心は、驚きの混じった笑顔で尋ねた。
        「え? どうしてって・・・・・・」
        「今日一日、師匠が街に降りてて留守だってこと、知っていたから来たんじゃないの?」
        「あ、そうなんだ・・・・・・」

        薫は今回も比古に会わずに済むことに安堵の息を吐いた。でも、ちょっと残念な気もする。昔の比古にも、少しは会ってみたいような気もしていたから。
        剣心は一瞬、そんな薫の表情を窺うように首を傾げたが、薫が今回も胴着姿なことに気づいて目を輝かせる。


        「ひょっとして・・・・・・約束、覚えていた?」


        それは、今まさに明治の剣心と話題にしていたことである。薫は当然よとでも言うように、胸を反らしてみせた。
        「やったぁ! じゃあ、案内するからついて来てよ。稽古にちょうどいい場所があるから!」
        くるりと回れ右をして走り出す剣心の後姿。その背中は薫のよく知る彼のものより細く小さくて、なんだかそれがとても微笑ましく思えた。










        「う、わぁ・・・・・・」



        どうどうと落ちる、水の音。
        その滝はさほど高さはなかったが水量は豊かで、滝壷に舞い踊る白い煙は目に涼しい。


        先程剣心は「久しぶり」と言ったが、昨日薫が訪れた過去は春だった。そして今いるここは木の葉の緑はぐんと濃くなり、太陽の光も強く、確実に夏の日
        差しになっている。きっと、あれから二、三ヶ月後の時間にやって来たのだろうな、と薫は推測する。

        そして、剣心が薫を連れてきたそこには、暑さを忘れてしまうような景観が広がっていた。
        滝を傍に臨み、踏み固められた地面は平らに均されていて、草履ばきの足になじんだ。周りに繁る木々は、丁度良く木陰を作ってくれている。
        川を渡ってくるひんやりと水気を含んだ空気を吸い込み、薫は「気持ちいい・・・・・・」と思わず漏らす。


        「暑い日でも、ここでの稽古は結構快適なんだ」
        ここを気に入った様子の薫に、剣心は嬉しそうに頬をほころばせる。
        「じゃ、ちょっと待ってて! 竹刀を取ってくるから」

        早速、「手合わせ」を始めるつもりらしい。
        薫はぱたぱたと走ってゆく剣心を見ながら、「元気だなぁ」と呟く。
        それにしても、久々に再会した年上の女性をつかまえて「何はさておき手合わせを」とは、随分色気のない展開ではある。でも―――



        「・・・・・・それは、わたしも同じかぁ」



        ひとりごちて、そっと唇の端を上げる。
        実のところ、薫もまた剣心と立ち合えることが嬉しくて―――それこそ子供のように、わくわくと胸が躍り出すのを自覚していた。
















        10 「稽古の後で」へ 続く。