剣心は、強かった。
まだ少年だけれど、細い腕で振るう竹刀は鋭くキレがある。受け止める一撃一撃は重く、薫が普段道場で稽古をつけている同じ年頃の子供たちとは格が
違っていた。薫は何度も竹刀をはねとばされ、何回かは身体ごとふっとばされた。
今まで剣心が闘うところは何度となく目にしてきたし、弥彦に稽古をつけるところも見てきた。無理をいって手合わせをしてもらったことは一度だけあった
が、あの時の剣心は全然本気を出していなかった。
だから、こんなふうに実際に彼の剣を身体で感じるのはこれが初めてと言ってもいい。竹刀を受けながら薫は、もうこの年の頃からこの腕前だったんだな
ぁ、と感心する。
半刻も打ち合うと薫は水を浴びたように汗みずくになった。出稽古で他流の者たちと交える剣とは違い、剣心の剣は「実戦向け」だ。容赦なく続けざまに撃
ち込んできて、息をつく暇もない。思い切り身体を使って竹刀を振るうのは爽快だったが、明日は身体のあちこちが痛いかもしれない。
「ち、ちょっと休憩ー!」
やがて、へとへとになった薫は剣心を手で制した。近くの下草が生え揃っている地面を探して、殆ど倒れるようにしてそこに座り込んだ。
「もう降参?」
どさりと剣心が隣に腰をおろす。そういう剣心の顔もさすがに上気していた。
「なさけないなー、薫、弱すぎ!」
「剣心が強すぎるのよー!」
ばたりと上体を倒して仰向けになる。木の葉に囲まれて青い水溜りのように見える空に、むくむくと湧き上がる夏の雲が目に映り、そこにひょこっと剣心の
顔が現れる。寝転んだ薫の顔を、剣心は真上からまじまじとのぞきこんだ。
「俺、強いかな」
「じゃなかったら余計に悔しいわよ・・・・・・ああもう、一本も取れなかったわ・・・・・・」
薫は目を半眼にして、剣心を下から睨む。
「女相手にも、お構いなしに打ってくるのね」
「そんな理由で手加減するの、薫は嫌がるんじゃないかと思って」
「わかっているじゃない」
薫がくすりと笑ったのを見て、剣心も笑顔を浮かべる、が―――
「それ、半分は嘘でしょ」
「え?」
「わたしが女かどうかは関係なしに、剣心、わたしが怪我しない程度には加減してたでしょう?」
ぐぅ、と剣心が言葉につまった。
「・・・・・・そういうの、判るもんなの?」
「剣心ならそうするんじゃないかと思ったの。正解でしょ?」
くすくす笑う薫に剣心は困ったような顔をして、そして薫のとなりに同じように寝転んだ。
「・・・・・・変なの」
「何が?」
「まだ二回会っただけなのに、薫は俺のことよく知っているみたいだ」
「それは・・・・・・比古さんから少しはあなたの事聞いていたから」
―――本当は、わたしは未来のあなたのことをよく知っているから。
嘘を、つくことは心苦しかったが、この際は仕方ない。本当の事を話したら、頭がおかしいのかと疑われることだろう。
「でも、実際こうして会ってみて、ちょっと意外だったな。もっとこう・・・・・・とりすました感じの子だと思っていたから」
「何それ?」
「えーとね、もっと静かで、大人っぽい子なのかなーって想像していたから」
「それって、俺が子供っぽいって貶してるの?」
剣心は憤慨したように、ぷいっと薫に背を向けた。
「そうじゃなくて・・・・・・」
薫は身を起こして、そっぽを向いた剣心の顔をのぞきこむように首を伸ばす。
「もし、わたしに会っても、こんなふうにお喋りしてくれたり、ましてや手合わせしたいだなんて言ってくれるとは思わなかったの。だから、意外だって言った
のは、嬉しいってことなの」
薫の口調は真剣だった。それは、嘘偽りない感想だったから。
元の時代―――明治の、薫の良人である剣心は、初めて会ったときからずっと薫を守るという立場を貫いている。それは女性としては最上級の幸せだ。
しかし薫は女であると同時に、剣士でもある。必要なときには自分で自分の身も守ってきたし、剣心も一門を背負う薫の立場を尊重してくれている。
だから勿論、それはそれで満足しているのだが―――でも、剣の道を歩む者の本能として、「より強い相手と戦ってみたい」という欲求だって、薫にはある
のだ。
だから、こうして剣心と―――少年時代の剣心とはいえ、自分よりずっと強い彼と無心で手合わせが出来たことが、とても嬉しかった。
「時間を遡る」というこのありえない出来事がもたらしてくれた、貴重なひとときだと思った。
「それにね、あなたがちゃんと、わたしが来るのを待っていてくれたのも嬉しかったの。わたしも、また会えるのを、楽しみにしていたから」
この時代の剣心に、こうしてまた会えるかなんてわからなかったから、だから。
「だから・・・・・・ありがとう」
剣心は、横を向いたまま薫の方を向いてくれない。
「・・・・・・剣心?」
そんなに怒らせてしまったのか、と薫は悲しくなる。
「ねぇ、剣心・・・・・・」
ぐい、と背中を伸ばして向こう側にある彼の顔を見ようとすると、剣心はうつぶせになって薫の目から逃げようとする。
「・・・・・・ごめんね」
「なんで謝るの」
「え、だって剣心怒って」
「怒ってない! 喜んでるの!」
予想していなかった反応に、薫は虚を突かれる。
「・・・・・・どうして?」
「どうしてって・・・・・・」
剣心は、身体を反転させた。
仰向けになってようやく薫の方をむいたその顔は、すっかり真っ赤になっていた。
「・・・・・・俺も、薫が来るの、待ってたから」
口の中でごにょごにょと発声するような、小さな声。しかし、至近距離にいる薫の耳にはしっかり届いた。
そして、なんというか剣心につられて―――伝染ってしまったかのように、薫の頬にも血が上る。
「ど、どうして薫まで照れるんだよっ!」
「あ、あれ? どうしてだろなんか伝染っちゃったみたい、おかしいな」
薫は慌てて剣心の顔を覗きこむ姿勢をやめて、先程と同じ位置に寝転んだ。
ふたりは互いに空を見つめたまま、しばらく無言で仰向けのまま動かないでいた。
そろそろ顔の火照りも落ち着いたかな、と思った薫がそろりと首を動かして、隣の剣心を窺うと―――
まったく同じタイミングで、同じようにこっそりと、剣心も薫の方を見た。
ばちん、と目があう。
何を言ったらいいのか、視線を絡ませたまま二人が発する言葉に困っていると、これまた絶妙なタイミングで、はるか頭上で烏が鳴いた。
「・・・・・・ふ」
「ふ、あ、あははははは!」
ぱちん、と。張り詰めていた何かが弾けたように、二人同時に笑い出す。その声に驚いたかのように、烏は羽音を立てて梢から飛び去った。
なんだかよくわからないけれど、腹の底から笑いがあとからあとからこみ上げてきて、互いの笑い声がさらに可笑しさを増幅させて―――
ふたりは寝転がったまま、身体を折り曲げるようにしてしばらく笑い続けた。
「薫は、どうして剣術を始めたの?」
先程の稽古に加えてまた汗をかいてしまったほどに、ふたりはさんざん笑い転げた。
ようやく笑いの波がひいた後、横になって互いの顔をぼんやり眺めていると、剣心がぽつりと尋ねてきた。
「そうねぇ、一番のきっかけは・・・・・・父がやっていたから、かな」
父親は、ごく自然に薫に剣術を教えた。
両親から強要されたことはなかったが、一人っ子である薫は小さい頃から、「大人になったら自分が道場を継ぐのだ」と思っていた。
剣術は幼い頃から常に生活の一部であって、竹刀を手にするのは呼吸のように自然なことであった。
「だから父が亡くなったあと、遺志を継ぐのも当然だったし、あとはやっぱり・・・・・・強くなりたかったからかしら」
「女の人なのに?」
からかうような口調ではなく、剣心は心底不思議そうな顔で訊いた。
「別にね、一騎当千の強さが欲しいってわけじゃないのよ。ただ、父さんやわたしの信じる剣の心を、出来るだけ多くの人にまっすぐに伝えられるだけの強
さ。それがあれば充分だわ」
「薫は、もう充分強いよ」
「さっき弱いって言ったくせに」
「う・・・・・・それは、言葉のあやで」
困ったように眉を寄せた剣心に、薫は口元をゆるめる。
「剣心は、どうして強くなりたいの?」
「男だもん。強くなって、弱い者を守らなきゃ」
その口調は、薫のよく知る彼よりはずっと幼かったけれど、言っている本質はまったく同じだった。
「虐げられて苦しんでいる人がいたら、助けたい。助けたり守ったりするには色々な方法があるんだろうけれど、俺が使えるのは剣しかないから」
静かに紡がれる言葉には、彼の年齢には似合わぬ重さと、彼の若さゆえの熱っぽさが同居していた。
「今にきっと、大きな変化がこの国にやってくると思うんだ・・・・・・その時に、少しでもその為に働けたらって思う。だから、強くなりたい」
剣心は仰向けになって、垂直に、空にむかって手をのばす。
ぴんと開かれたてのひらと指で、はるか高みにあるものを掴むかのように。
「あなたなら、なれるわ」
その一言は、自然に口をついて出た。
彼の未来を思うまでもなく、今ここにいる剣心の強い意志をたたえた瞳を見れば、それは当然のことと思えたから。
「・・・・・・ありがとう」
ぱさり、と腕を地に落として、剣心は少し照れた様子で呟くように言った。
「あのさ、薫」
「なぁに?」
ゆっくりと、剣心の顔が薫に向けられた。淡く明るい色の瞳に、薫の姿が映る。
「この前から気になっていたんだけど・・・・・・ずーっと前にさ、俺たちどこかで会ったことって、ないかな?」
些か、虚をつかれた。
それはきっと、あの夜のこと。
剣心の両親が亡くなった夜のことだ。
剣心の真剣な視線を受けとめて、咄嗟になんと返答すべきか迷った。が、すぐに薫は唇に笑みを浮かべた。
「剣心、そういうふうに言われたら、たいていの女の子は『口説かれてる?』って思うものなんだけれど」
剣心は一瞬、薫の言っている意味がわからずきょとんとする。そして一拍おいて、慌てたように身体を起こした。
「いやっ、違っ、そうじゃなくて・・・・・・」
「あ、なーんだ。口説かれてたわけじゃないのね・・・・・・」
「いや、そうじゃなくて・・・・・・あ、あれ?!」
わたわたと混乱する様が可愛らしくて薫は吹き出しそうになったが、またへそを曲げられたら面倒なのでさらりと「冗談よー」と打ち消した。
「会ったことは、ないと思うわ。わたし、ずっと東京・・・・・・いえ、江戸にいたんだし」
「江戸、かぁ」
剣心は残念そうに、ぱたんと地面に突っ伏した。
「・・・・・・俺、両親が亡くなった夜に、森の中で女の人に会ったんだ」
―――ちゃんと、覚えていたんだ、と。薫の胸が高く鳴った。
「月明かりでしか、顔は見えなかったんだけど、俺のことを慰めてくれた。すごく、優しい人だった」
「わたしが、その人かと思ったの?」
「・・・・・・いや、考えてみるとそんな事ある筈ないよな。だってもう何年も前の事だし・・・・・・その人、確か今の薫くらいの歳だったと思うし」
だから似てる気がしたのかなぁ、と剣心は呟く。
そうなのだ。薫にしてみれば、幼い剣心に会ったのは数日前のこと。でも、ここにいる剣心にとっては、あれは数年前の出来事だ。
その頃とまったく同じ姿のままというのは、いくらなんでも不自然だ。だから薫は、「あれはわたしよ」とは言えなかった。
けれど、嬉しかった。
剣心の中の幼い日の思い出の中に、自分が存在していることが。
―――じゃあ、どうして明治の剣心に、この記憶は残っていないのかしら。
この、「時間を遡る」という現象には、まだわからないことが沢山ある。
まぁ、こうして過去に来てしまうこと自体が信じられない話なのだが―――
そんな事を考える薫の頬を、川から流れてくる風がくすぐった。
水音に、山の鳥たちの鳴き声が重なる。川面からの風は爽やかで、柔らかな下草も気持ちいい。
そういえば、元の時代でも稽古をした後、こちらに来てたて続けにこの時代の剣心と手合わせをしたのだ。今更ながら薫は、自分の身体に心地よい疲労
感が満ちているのを感じた。
こうして横になっていると、ふわふわと眠気がわきあがり、まぶたが重くなってくる。
「薫、眠いの?」
「んー、そうかも・・・・・・」
「そのうち師匠が帰ってきちゃうよ」
「ん・・・・・・ちょっとだけ・・・・・・」
目を閉じた薫は、程なくして寝息をたてはじめた。
呼吸とともに微かに震える唇は花びらのようで、大きな瞳を隠す長い睫毛が白い頬に長い影を落として。剣心はごく近い距離で薫の寝顔を飽きずに眺め
ていたが―――じきに薫につられたかのように、彼にも眠りの波が寄ってきた。
とろとろと意識が遠のいてゆくのにまかせて目を閉じる。
ふたりはひなたの二匹の子猫のように、身体を僅かに丸めて並んで、やわらかな眠りの中に落ちていった。
★
「・・・・・・ら、こら、起きろ馬鹿弟子!」
嫌と言うほど聞き飽きた声が耳朶を叩く。
心地よい眠りから無理矢理引き戻された剣心が無意識に不機嫌な唸り声をこぼすと、べしんと比古に頭をはたかれた。
「なんでこんな所で寝てるんだ」
「・・・・・・あれ、師匠? 薫、は・・・・・・?」
頭をさすりながら身体を起こす。きょろきょろと首を回してみたが、薫の姿は既にそこにはなかった。
「何?」
「あ・・・・・・いや、なんでもないです」
「もう日が落ちるぞ、夕飯作るから早く戻れ」
ずんずん歩き出す比古の背中を見ながら、剣心はこっそり手を伸ばした。
薫が寝ていたあたりの地面に触れてみる。
かすかに、彼女のぬくもりが残っていた。
11 「歴史の掟」へ 続く。