11  歴史の掟










        風鈴の音が耳をくすぐる。
        目蓋をかすかに開くと、夕焼けの橙色に染まった自分の指先が目に入った。

        「・・・・・・あら?」
        お腹のあたりにかけられた夏布団に、頭には竹枕。
        開け放たれた障子に、縁側から吹いてくる夕暮れ時の涼やかな風。



        「あ、起きたでござるか?」
        ひょい、と廊下から顔を出したのは、薫よりひとまわり大きな身体、頬に十字の傷のある、長い髪を首の後ろで結んだ―――明治の剣心だった。

        「おはよう、薫殿」
        「おはよ・・・・・・って、あれぇ?」



        薫が寝かされていたのは神谷道場で、そして時代は―――いつのまにか、明治に戻っていた。



        「や、やだ、わたしどのくらい向こうにいたの?!」
        「こちらの時間でほんの十数分でござったよ。昨日と同じような感じで消えてしまったあと、此処に戻ってきたのだが」
        しかし、その戻ってきた薫があんまり気持ちよさそうに熟睡していたから、そのまま寝かせておいてくれたらしい。
        「ご、ごめんなさい、向こうで剣心と手合わせしたから、すっかり疲れちゃって・・・・・・ああ、もう夕方じゃない・・・・・・」
        「手合わせ、でござるか」

        その言葉に反応した剣心はぐっと眉を寄せ、薫の傍らに膝をついてまじまじと顔をのぞきこんだ。
        「どこも、怪我とかしていないでござるか?」
        ことさら難しい顔で訊いてくる剣心に、薫は「してるわけないでしょー」と笑ってみせた。
        「昔の剣心、ちゃんとわたしに合わせて手加減してくれたもの。どこも痛くしてないわよ」
        「それならよいのだが」

        剣心は身を起こした薫の頬に手をのばし、両のてのひらでそっと挟みこんだ。ふわり、と彼の前髪が薫のそれに触れる。
        「心配でござったよ。あの当時の拙者は一番血気盛んな頃だったから、稽古といえども薫殿相手に無茶をするのではないかと・・・・・・」

        そう言って剣心は、首を前に倒した。こつん、と額と額が軽くぶつかる。
        確かに、あの師匠と大喧嘩をした挙句彼のもとを飛び出したというくらいなのだから、血の気は多かったのだろう。しかし、あからさまに昔の自分のことを
        信用していない様子がおかしくて、薫はまたくすくすと笑った。


        「大丈夫よ。そんな、危険な場所に行ってるわけじゃないんだし」
        「危険でござるよ・・・・・・あの時代というだけで、充分危険だ」

        剣心は頬を挟んだ手をするりと下におろし、ぎゅうっ、と薫を抱きしめた。
        彼の胸に顔をうずめながら、薫は「あいかわらず過保護だなぁ」と心の中で呟く。しかし、剣心は実際に、幕末の最も血なまぐさく苛烈な場面を生きてきた
        のだ。その渦中に遡った薫に、もしもの事があったらと考えるのは無理もないことだろう。
        薫も、剣心のそんな心情を察することは出来たのでそれ以上は何も言わず、彼の腕の強さを感じながら大人しく身を任せていた。






        「・・・・・・ねぇ、お夕飯の支度、今からでも手伝うわ」
        どのくらい、そうしていただろうか。やがて薫がそう言って身じろぎをすると、剣心は「ああ、大丈夫でござるよ」と抱きしめる腕を緩めた。
        「それなら従者殿と一緒に、あらかたやってしまったから」
        「へ? 従者さんと?」

        顔を上げた薫が目をぱちくりすると、剣心はその表情にくすりと笑みをこぼす。
        「ああ、台所仕事など滅多にできないからと、なんだか楽しそうでござったな」


        彼の役目は、神様が悪戯がすぎないよう見張るお目付け役である。
        とはいえ、実は彼も今の非常事態をそれなりに楽しんでいるのかもしれない―――と、薫はそう思った。







        ★







        「そんな、危険なことは起きない筈ですよ。違う時間に行った人間がそちらで命を落とすことはありませんし―――そういう決まりというか、仕組みとなって
        おりますから」



        夕食の後、剣心と薫、そして神様と従者である老紳士は、お茶を飲みながらあれこれと話し合った。
        正確に言うと、主に剣心たちが老紳士に質問をし、彼がそれに回答していくという形である。質問の内容は勿論、過去に遡ることについてのあれこれだ。
        薫が過去に行くことに対し、剣心は「向こうで何か危険なことがあったら」と心配しきりであったが、それに対し老紳士は「違う時代に行った際、そこで死ん
        だりすることはない」と、薫にとってはありがたい回答をしてくれた。

        「ほら、やっぱり危ないことなんて何もないんだってば。だいたい、神様だってそんな危険な場所にわたしを送りこんだりしないわよねー」
        薫が神様の顔を覗きこむと、神様はその口調を真似て「ねー」と言って小首をかしげてみせる。


        「違う時代の者同士は、それぞれの生き死にに互いに干渉できない仕組みになっているのですよ」
        「仕組み、でござるか」
        「ええ、異なる時代から訪れた人間が、その時代の人間を害することはできません。不愉快な例えで申し訳ありませんが・・・・・・奥様が過去に行かれた
        際、そこで誰かを害することはできませんし、逆に誰かが奥様を傷つけようとしても、それは不可能です」
        老紳士が口にした不穏な例えに、剣心はつい表情が険しくなってしまいそうになるのを辛うじてこらえた。彼は「そんな事は起こらない」と説明するために、
        あえてこんな例を挙げているのだ。

        「万一、そんな事態が起きそうになったり、事故に巻き込まれそうになったりしたら―――奥様は強制的にその時代から排除されて、こちらの時代へ戻さ
        れます」
        「それは・・・・・・『歴史が変わる』ことがないようにする為でござるか? 違う時代の物を、持ち出したり持ち込んだりできないのと同じように」

        剣心はそう尋ねながら、維新の同志たちの顔を思い浮かべた。
        桂小五郎や高杉晋作、大久保利通。もし彼らが、過去に遡った誰かの手によって維新前の時間に害されたとしたら―――確かに、歴史は変わってしまう
        に違いない。


        「名の知れた名士や武将だけではありませんよ。市井の者がひとり亡くなったとしても、歴史は変わってしまいますからね」
        「そんなに、厳密なものなんですか? 例えば、わたしみたいな普通の人が一人いなくなったくらいじゃ、歴史は変わらないような気もしますけれど・・・・・・」
        薫は不思議そうに首を傾げたが、老紳士はゆっくりと首を横に振ってその考えを否定する。

        「それは違いますよ。歴史とは、生きているすべてのものが繋がり、糸を織り成すようにして構成されるものです。この世に起きた事柄なにひとつ、生まれ
        てきた人誰一人欠けても、歴史は成り立ちません」
        そういうものなのか、と理解はしたものの、どことなく腑に落ちない様子の薫の肩を、剣心がぽんと叩いた。


        「薫殿がいなければ、弥彦は掏摸のまま剣術を始めず、左之は喧嘩屋のままだった」
        「でも、それはわたしじゃなくて剣心が・・・・・・」
        「薫殿がいたから、拙者はここに留まり、みんなに出逢った。今の拙者たちの繋がりがあるのは、薫殿が拙者と出逢ってくれたからでござるよ」
        「剣心・・・・・・」
        肩にあった手が、腕を伝って滑り降り、薫の手を包む。
        「それに・・・・・・薫殿のいない世界なんて拙者には考えられない。わたしくらいだなんて事は、言わないでくれ」

        剣心の手に力がこもった。薫は何か答えようと思ったが、うまく言葉が見つからない。
        どれだけ言葉を使ってもこの胸にある気持ちは表現しきれないような気がして、言葉にするかわりに、剣心のことをただじっと見つめた。
        そのまま互いの目と目を見つめあいながらふたりの世界に浸りそうになったのを引き戻したのは、神様だった。


        薫は、膝の上にあたたかい体温を感じてはっとした。見ると、いつの間にかそばににじり寄っていた神様が、膝によじ登って帯のあたりにぐいぐい頭を押し
        つけてきている。我に返った薫は頬を赤らめながら神様を抱き上げて、膝の上に座らせてやる。

        「そっ、それじゃあ・・・・・・どうして剣心は、子供の頃にわたしに会ったことを覚えていないんですか? わたしは去年の五月に剣心に会ったことを、ちゃんと
        覚えているのに・・・・・・」
        半ば照れ隠しのように訊いたが、それは剣心と薫が昨日からずっと疑問に思っていたことだ。


        剣心は、一年前の五月十五日に遡り、悲しみに打ちひしがれる薫に会った。そして薫も、その朝のことを覚えていた。
        薫は、幼い頃と少年の頃の剣心にこれまで計三回会って、しっかりと会話も交わして、剣の稽古をする程親しくなった。しかし現在の剣心は、その事をま
        ったく覚えていない。

        これは、一体どういう事なのだろう。
        この違いは何なのだろう、と。



        「それもやはり―――歴史を変えないための作用です」



        老紳士はそう言って、薫へと視線を向けた。
        「昨年の五月、奥様は過去からやって来た御主人に会われましたが、それを夢だと思いこんだ。あの朝の出来事を、奥様は事実として認識しなかったの
        で―――あの邂逅は『歴史に変化を及ぼさない』と判断されたのでしょう」
        「判断」の主語は何だろう、と剣心は思ったが深く追求はしなかった。おそらくそれは、人智の知るところではない「神の領域」というべき理によるものなの
        だろう。

        「一方で、奥様が三回、過去で御主人と会われたこと―――きっとこれは、それぞれの時代の御主人にとって、大変印象深い出来事だったのでしょうな。
        その後のあるべき歴史の流れを、歪めてしまう程に」

        思いがけず飛び出した不穏な表現に、剣心は眉を動かした。
        薫は神様を抱きながら、怪訝そうに首を傾げる。


        「・・・・・・未来の人間が過去の人間と接触を持ち、その接触が及ぼす影響によって、あるべき歴史が変化する場合も稀にございます。そのような場合、変
        変化を防ぐためにその接触を『なかったこと』にしなくてはならないのですよ」

        老紳士は淡々と言葉を紡ぐ。
        もともと彼の口調は常に落ち着いたものであったが、それが今は落ち着きを超えて、いっそ無機質に剣心と薫の耳に響いた。






        「奥様と御主人の幕末での出会いは、『歴史に影響を及ぼす接触』と判断されたようです。なので、三日後に扉が直るのと同時に―――過去の御主人の
        記憶から、未来から来た奥様のことは、すべて消去されることになるでしょう」







        御主人が覚えていないのはその所為ですよ、と。老紳士は話を結んだ。















        12 「支え」へ 続く。