12  支え










        「納得いかなーいっ!!!」





        八つ当たりのように力まかせに閉めた寝所の襖が、がたんと揺れた。
        この怒り声と襖の音は確実に従者たちにも聞こえたことだろう、驚いていなければよいが、と剣心は心の中で呟いた。



        「拙者は、納得がいってすっきりしたでござるが」
        記憶を消されるなら、薫の事を覚えていないのも道理だ。これで剣心はようやく「薫が過去の自分と出会った」ということを心から信じる気になれた。しか
        し、薫にしてみれば釈然としない。

        「剣心はよくてもわたしはよくない! だって、泣いているところを慰めて、ちょっと友達みたいになって、一緒に剣の稽古をしただけよ!? たったそれだけ
        のことで歴史が変わっちゃうっていうの!? そんなの意味がわかんないわよ!」
        寝間着の裾を乱暴にさばいて、薫は布団の上にどすんと腰をおろす。一足早く寝転がっていた剣心は、苦笑しながら身体を起こした。


        「薫殿にとっては『ちょっと』でも、拙者にとっては、そうではなかったのでござろう」
        剣心は、薫の髪に手を伸ばし、指を差し入れてゆっくりと梳いた。
        先程風呂で洗った髪はまだ僅かに湿り気を残しており、指に心地よく吸いついてくるようだった。


        「両親が同時にいなくなって衝撃をうけていたときに、胸を貸して泣かせてくれたり、師匠のもとで修行漬けの頃に、突然現れて友人になってくれたのだか
        ら―――確実に、拙者の心は動いていたでござろうな」
        「・・・・・・それって、いい方向に?」
        「ああ。傍にいてくれて心強かっただろうし、嬉しかったでござろうな。本人が言うのだから間違いないよ」
        「それなら、わたしも嬉しいけれど・・・・・・」
        剣心の真似をして、薫もほどいた彼の髪に手をのばして指を絡めてみる。
        「でも、やっぱり納得いかないわ。わたしが数回昔の剣心に会っただけで、一体どんなふうに歴史が変わるっていうのよ・・・・・・」

        俯きながら拗ねたようにこぼす。せっかく昔の剣心に会えて仲良くなれたというのに、それを「なかったこと」にされるなんて、薫としてはただただ寂しくて、
        残念でならなかった。剣心は、自分の髪の先をひっぱる薫の指を、そっと手で包んでやる。


        「薫殿は、昔の拙者に会えたことが、そんなに嬉しいのでござるか?」
        薫が顔を上げると、剣心と正面で視線がからまった。
        「・・・・・・わたし、あなたと一緒になるときに、思ったの。あなたをずっと支えていこう、って」
        明るい色の、彼の瞳の奥にむかって、薫は語りかける。
        「あなたが抱えている思い出とか、背負っている後悔とか・・・・・・そういうのも全部支えながら、一緒に生きていこうって、そう思ったの」

        正確に言うと、あの孤島での闘いのときに、そう思った。
        もっと正確に言うと―――そう、決めた。


        あの時、縁と決着をつけた剣心は、ずっと探していた「答え」を自ら見つけ出した。
        過去も罪もすべて手放さないまま、剣心はこれからも「守る」ための剣を振るい続けようと決意した。
        彼と同じく―――薫もあの時、決めたのだ。

        それまでは、ただただ剣心のことが好きで、剣心と紡ぐ日常が何より大切で、だからずっと一緒にいたいと思っていた。
        けれど、あの時。わたしはこれから、あなたの支えになろうと強く思った。


        人生を代わることはできないけれど、隣に寄り添って支えることはできる。
        痛みも苦しみも、分かちあえばあなたの辛さは半分になるだろう。

        あなたがずっと、わたしを守ってくれてきたように、わたしもあなたの、心を守ろう。
        いつまでもあなたの傍であなたを支えて、優しさと笑顔をあなたにあげよう。


        あの時―――薫は、そう決めたのだった。



        「実際、支えてもらっているでござるよ」
        剣心は、両手で薫の手を柔らかく握りながら言った。


        小さな、白いてのひら。
        この手を包むたび、華奢な身体を抱きしめるたびに、ひしひしと感じる。

        一番大切で、誰よりも守りたいと思う存在。誰よりも、大好きなひと。
        君が隣でいつも笑顔でいてくれるからこそ、俺は未来を見つめて歩いてゆくことができる。
        薫は支えであり―――決して失いたくない道標だ。


        乾いた手のひらの温かさが心地よくて、薫は目を細める。
        そして、小さく首を動かして剣心の指にそっと口づけると、そのまま唇を動かした。

        「―――でもね、剣心、わたし、欲張りなのよ」
        「え?」
        「わたしね、こんなふうに思ったことがあったの。剣心が、わたしと出会うずっと前―――あなたがひとりで辛かった頃とか寂しかったときに、わたしが傍に
        いてあげたかったな、って」


        たとえば、まだあなたが子供だった頃。両親を亡くして悲しんでいたときに、そばにいてあげられたら。
        大義を抱いた少年が人斬りになった頃。まだ巴にも出会っておらず、心に孤独を抱えていた頃。傷ついたあなたを抱きしめることができたなら。


        あなたが独りで心細かったとき、せめて一緒にいられれば、少しはあなたを支えられたのかしら―――



        「欲張りで、不遜よね」
        薫はそう言って、肩をすくめた。
        「でも、そう思っちゃったのよ・・・・・・」

        そう、思っただけだった。
        思うだけなら、願うだけなら、自由なのだから、と。
        まさか、こんなふうに本当に過去に遡ることになるだなんて考えてもみなかったから。


        「だから・・・・・・いま剣心が「心強い」って言ってくれたことが、とっても嬉しいの・・・・・・わたし、過去の剣心にとってそういう存在になりたかったから」


        少しでも、孤独だった頃のあなたの心を癒すことができて、よかった。
        つかの間の邂逅だとしても、僅かな間でも過去のあなたの支えになれて―――とても、嬉しい。



        「なのに、その記憶は剣心の中から、全部消えちゃうのね」
        扉が直って、神様が気まぐれな悪戯をやめてもとの世界に帰ってしまったら、過去の剣心の中から薫に関する記憶はすべて消えてしまう。
        何事も「なかったこと」として、あとには本来流れてきた時間の流れが残るだけ。

        「じゃあ結局、『昔の剣心の力になれたんだ』っていうのも、ただのわたしの自己満足で終わっちゃうのね・・・・・・」
        しゅん、と薫が肩を落とす。剣心は、彼女の手を包む指に力をこめた。
        「たとえ記憶が消えても、薫殿があの時代に行ったことは間違いなく事実でござるよ」
        「・・・・・・そうなんだろうけど・・・・・・」
        剣心は、まだ不満を残した様子の薫の手をぐっと引いて胸に抱きこみ、子供にそうするようにぽんぽんと軽く頭を叩いた。


        「仕方ないでござるよ、歴史を変えるわけにはいかないそうだから」
        「だからー、どうしてそのくらいで歴史が変わるのかが・・・・・・」

        腕の中、言葉が途切れる。
        ぐい、と上を向かされたかと思うと、唇を唇で塞がれた。薫は反射的に目蓋を閉じる。
        剣心の腕に力が籠もり、ぐっと身体を押しつけられ、薫の腰がよろめいた。


        「・・・・・・け、んしん?」
        「んー?」
        体重をかけられて押し倒されそうになるのを、薫は必死に手をついてこらえる。
        「だ・・・・・・め・・・・・・」
        「どうして?」
        「だ、だってまだ神様も従者さんも、起きて・・・・・・」
        口づけを繰り返される中、薫は喘ぐようにして剣心を諌める。

        「ねぇ、声、出ちゃうから・・・・・・」
        「だから?」
        「きっ、聞こえちゃうから! だめっ!」
        ぐん、と両手で顔を押し戻されて、剣心はしぶしぶ身体を離した。

        「けち」
        「・・・・・・だってぇ・・・・・・」
        薫は乱れかけた襟元を直してそそくさと布団に潜りこみ、細い肩までをすっぽりと隠してしまう。
        逃げられた剣心はやれやれとため息をひとつついて、布団ごしに薫の肩をそっと撫でた。




        「ね、薫」
        「なぁに?」
        「今日、拙者と立ち合って、楽しかった?」
        「・・・・・うん、楽しかった」

        言葉よりも雄弁に、その表情が語っていた。彼女まで子供に帰ったかのような、無邪気な笑顔。
        「じゃあきっと・・・・・・あの時代の拙者もそう思ったでござろうな」
        そう言って剣心が微笑むと、薫は笑った顔のまま、目蓋を閉じた。


        剣心はしばらくの間、時折髪を撫でてやりながら柔らかな弧を描く長い睫毛を見つめていた。やがて薫の珊瑚色の唇が、規則的な寝息をたてはじめる。
        ふと思いついて、枕元に置かれた乱れ箱に手を伸ばす。重ねた着物の一番下に手を差し入れ、年季の入った財布を引っ張り出した。






        財布の上から、中に納められたちいさな長方形のかたちを指でさすって確かめたが、取り出すのはやめてそのまま乱れ箱の下に戻す。
        布団の端をめくって薫の隣に並んだ剣心は、彼女の頬にひとつ口づけを落としてから、自分も目を閉じた。















        13 「ふたりで」へ 続く。