13  ふたりで










        「今日をいれて、あと三日かぁ」




        ばしゃばしゃと盥の中で小さな波を作りながら、薫は呟いた。
        空はからりと晴れわたり、いい風も吹いている。これは洗濯日和だと思った剣心と薫は敷布を剥いで布団を干して、大物の洗濯物を盥に放り込んだ。
        この暑さだから、冷たい水がむしろ気持ちいい。襷がけで井戸端に屈み込むふたりを、少し離れたところから神様が興味深そうに眺めていた。


        「薫殿、また向こうの拙者の事を考えてる」
        剣心に指摘されて、薫は小さく首をすくめる。
        「え、考えちゃいけなかった?」
        いけなくはないが・・・・・・万一師匠と鉢合わせでもしたら面倒でござろう」
        洗濯物の端と端をふたりで持って、両側からぎゅうぎゅうと絞りあげる。足元にかかる飛沫が、ひんやりと心地よい。
        「だいたい、向こうは幕末でござるよ? 下手をすると、危険な場面に出くわすかもしれない」
        「わたし、自分がそんなに運が悪いとは思っていないけど・・・・・・」

        語尾を濁したのは、剣心の言っていることはもっともだからだ。いくら老紳士から「違う時代で、命を落とすような事態にはならない」と言い切られても、政情
        の不安定な時代に行くことに変わりはないのだから。
        「それに、まだ剣心、比古さんのところにいたし」
        「でも、その後拙者は師匠のところを飛び出しているから・・・・・・そこから先は、いろいろと剣呑な場面も多いでござるから」
        絞った洗濯物を入れた籠をかかえて、剣心は物干しに向かう。薫はその後を歩きながら、何か言いたげに唇を尖らせた。


        「心配しているんでござるよ。従者殿の話によれば、向こうに行っても滅多なことは起きないというが、それにしても薫殿には無鉄砲なところがあるか
        ら・・・・・・向こうで何かあったとしても、拙者は傍にいないのだし」
        「向こうの剣心がいるけど」
        「それは・・・・・・」

        洗濯物を干しながら、今度は剣心が言葉に詰まる。
        確かに、薫が遡る先には過去の自分がいるのだろう。そして自分は―――幕末の自分も、きっと何かあった時には身を挺して薫を守るのだろうが―――

        「ごめんね? 剣心が意地悪を言っているんじゃないって事はわかってるのよ? でも・・・・・・」
        ぱん、と晒の皺を叩いてのばしながら、薫は洗濯物越しに剣心の顔を見る。その洗濯物―――物干しに掛かった敷布が、風をはらんで不意に大きくはた
        めいた。


        「きゃ!」
        薫は晒を一旦籠に戻し、あわてて竿に掛けられた敷布を押さえた。急に強くなった風を受け、大きな敷布が飛ばされそうになる。
        「薫殿、大丈夫で・・・・・・うわ!」


        ぶわ、と膨らんだ敷布がふたりの頭上に覆い被さる。
        ふたりまとめて大入道の風呂敷に包まれてしまったように、剣心と薫は白い布に飲み込まれた。

        風にあおられて暴れる敷布を頭からかぶって、剣心と薫は思わず顔を見合わせる。
        普段ならそこで、思わぬ椿事に破顔一笑するところだが―――そうはならなかった。




        ふっと、二人の視界が暗く翳る。




        それは、敷布に陽の光を遮られたからではなくて。もっと暗い、まるで唐突に真夜中が訪れたような―――




        異変に気づいた剣心は、殆ど反射的に、すぐ傍にいる薫に向かって腕を伸ばした。
        抱きしめられるのを感じながら、薫は思わず目を閉じる。この感覚は、きっと―――








        老紳士が物干しの方へ駆けてきたとき、一瞬前まで人の形をとっていた敷布が、ぱさりと支えを失って地面に落ちた。
        神様が邪気のない顔で笑い、「いってらっしゃい」と小さくつぶやいた。









        ★









        一瞬の浮遊感があった。
        その後、目蓋の裏が明るくなり、耳に喧騒が流れこんでくる。



        剣心と薫は、足元に地面を、そして腕と胸に互いの存在を感じ、おそるおそる目を開いた。



        ふたりの真横を人が通り過ぎてゆく。
        自分たちが昼間の往来に立っている事に気づくのには、そう時間はかからなかった。道の真ん中で抱き合っているふたりにくすくすと含み笑いが投げかけ
        られ、剣心と薫は慌ててぱっと離れて距離をとる。

        「ここは・・・・・・」
        遡った先の場所が街中だったのは初めてだ。薫は袖にかけた襷を外しながら、きょろきょろと辺りを見回した。
        「京都・・・・・・かしら?」
        「いや、違うでござる。ここは・・・・・・」
        剣心は、その街の風景に見覚えがあった。この道も、歩いたことのある道で―――



        「長州藩・・・・・・」



        剣心は呆然としてあたりを眺めた。
        ここが明治ではないという証拠に、街をゆく男性は皆髷を結っていたし、帯刀した武士も当たり前の顔で往来を歩いている。

        「なんだか、懐かしい感じがする」
        薫がぽつりと呟いた。彼女にとって幕末の風景は、まだ幼かった子供の頃、両親が生きていた頃に見てきた情景であった。
        「本当に、こういう事が起きるんでござるなぁ」
        剣心は嘆息した。自分も一度は過去に遡ってはいるが、それは一年目の神谷道場という「少し前の身近な場所へ」である。薫から話を聞いてはいたが、
        こうして十年以上昔に遡るのを身をもって体験する事は、さすがに衝撃的だった。


        「あら? ちょっと待って。ってことは、多分このあたりに・・・・・・」
        薫がはっと気づくのとほぼ同時に、聞き覚えのある声が響いた。



        「薫ー!!」



        声のほうを見やると、往来の人混みの向こうから、伸び上がるようにしてこちらに手を振っている―――この時代の、剣心がいた。



        「ごっ、ごめん剣心!ちょっと隠れててっ!」
        「ちょ、薫・・・・・・」
        薫は慌てて、隣にいる剣心をどーんと突き飛ばす。
        剣心には申し訳ないが、いくらなんでも彼らを鉢合わせさせる訳にはいかないだろう。剣心もそれは承知だったので、たたらを踏みながらも素早く脇の小
        路に滑り込んで、身を隠した。

        「びっくりした!やっぱり薫だ!」
        薫のもとに一直線で駆けてきたこの時代の剣心は、驚きに顔を紅潮させて薫の肩をつかんだ。
        「なんか似た人がいるなぁって思ったんだけど、驚いたなぁ・・・・・・また江戸から出てきたの?」
        「う、うん、ちょっとここには立ち寄っただけなんだけど・・・・・・剣心に会えるとは思わなかったわ」
        剣心にとっては今回も「久しぶり」になるのだろう。突然の再会に素直に喜びを露わにしていたが、ふいにその眉をひそめた。

        「・・・・・・まさかとは思うけど、師匠に言われて俺を捜しにきたの?」
        「え?」
        「いや・・・・・・俺、師匠と喧嘩別れして、勝手に飛び出してきたんだ。ひょっとして、それで師匠が薫を寄越したとか?」


        喧嘩別れ。
        そうだ、つい先程明治の剣心とその話をしていたばかりだった。そしてこちらの剣心には、薫は比古の遠縁と認識されている。

        「ううん、そうじゃなくて全くの偶然。剣心がここにいるのなんて知らなかったもん」
        「・・・・・・そっか」
        剣心は安心したように息をついた。そんな彼を見て、薫はつい頬をゆるめてしまう。比古のもとを出たといっても、まだこの時代の剣心は幼顔が抜けきって
        いない。
        「・・・・・・薫。今、時間ある?」
        薫がひとりなのを確認した剣心はそう尋ねてきた。薫は一緒に来た剣心の事を気にしながらも、首を縦に振る。


        「じゃあ、ちょっと付き合って欲しいところがあるんだけど・・・・・・」
        「いいけど、何処に?」
        「すぐそこだよ。この先にある、神社へ」



        つい、と剣心は道の向こうを指差した。








        ★








        明治から来た剣心は、少し離れた場所からふたりのやりとりを眺めていた。
        少年の剣心と並んで歩き出した薫が、ちらりと後ろを向く。少し困ったような顔をしてこちらを見ているので、安心させるように軽く手を挙げてみせた。



        「神社か・・・・・・」


        神様は、頃合を見計らって薫と自分を明治に戻すことだろう。
        政情が不安定な時代に遡ったとはいえ、昼日中の往来である。此処ならばそう危険な事も起きないだろうし、もしもの場合には強制的にもとの時代に戻さ
        れる筈だ。

        しかしながら、用心のため前を行く薫たちからは目を離さないでおこう、と剣心は思った。
        気取られない程度の距離を保って後をついてゆこう―――そう考えながら、歩き出したのだが。



        前方をゆく「昔の自分」の横顔が見えた。
        人懐っこい目をして、隣を歩く薫に何か話しかけている、少年時代の自分。
        現在はともかく、当時はさんざん周りから「愛想が無い」などと評されていた自分としては、それは稀有な表情で―――




        「どうにも・・・・・・恥ずかしいでござるなぁ・・・・・・」







        剣心は、額に手を当てて重々しく唸った。














        14 「願いごと」へ 続く。