鎮守の森に包まれた神社。
まばらな参拝客とすれ違いながら辿りついた本殿で、剣心は神妙に手を合わせた。
目を閉じた彼の表情は静かだった。
しかしその中に隠れた、年齢に似合わぬどこか思いつめた雰囲気を読み取って、薫の胸はわずかにざわめく。
彼に倣って手を合わせながら―――薫は心から神様に祈りを捧げた。
「何を、お願いしたの?」
境内に設えられた腰掛に並んで座ってから、薫は尋ねた。
なんとなく内容はわかるような気がしたが、訊かずにはいられなかった。
「俺、奇兵隊に入ろうと思ってるんだ」
薫は、はっとして剣心の顔を見る。
「知ってる? 奇兵隊は身分とか関係なしに入隊できるんだよ。まずは、ここから始めようと思って」
「はじめる?」
「俺は、弱い人や、苦しんでいる人を助けたいから」
剣心は開いた自分のてのひらに視線を落とし、じっと見つめた。
「俺はまだ子供だけど、俺より弱い、苦しんでいる人たちのために、何か出来ることがあるはずなんだ。だって俺には、師匠から学んだ剣があるんだから」
「奇兵隊に入るのは・・・・・・それを生かすための第一歩?」
「うん。俺の剣を、人のために役立てたいんだ」
剣心は、開いた手をぐっと握りしめた。
目に見えない、何処かにある希望を掴むように、力をこめて。
「だから俺は、これからの未来がよい方向に導かれますように、って―――それに俺の剣が役立ちますように、って、祈った」
剣心の声には、張りつめたような決意がみなぎっていた。
薫がよく知る明治の剣心も、幾度も何かを決断しなくてはならない岐路に立ってきた。命を賭しての闘いに臨む瞬間に、薫も立ち会ったこともあった。
でも、そんな時の彼の表情からは、「きっと大丈夫」と安心させらるような頼もしさを感じとることができた。
けれど―――目の前にいる少年のその表情には、触れれば破裂してしまいそうな危うさがあって、薫は言い知れぬ胸騒ぎを覚える。
「薫は、何をお願いしたの?」
ふっと、緊張をといた剣心が、薫の顔を覗きこむ。
「わたしは、剣心が怪我とかしないで元気でいられますように、って」
それは本心からの願いだったから薫はさらりと口にしたのだったが、剣心は意表をつかれたように目を丸くする。
「そんなことお願いしたの? 小さいなぁ」
少し照れているのか、そっけなく剣心は目を逸らした。
「そりゃ、剣心の大志に比べれば小さいかもしれないけれど、でも、神様だって大きなお願いばかりじゃ叶えるのに苦労するでしょ。だから、このくらい大き
さのお願いがあってちょうどいいのよ」
「そんなもんかな」
「剣心がこの国すべてのことを祈るかわりに、わたしが剣心のことを祈った。それでいいじゃない」
薫は腰をあげて、剣心の前に立った。少し、屈むようにして、剣心の顔をじっと見つめる。
「・・・・・・でも薫、俺は、どうなったっていいんだよ。俺はこの人生を、剣の腕を、この国のために捧げたっていいと思ってる。だから、こんな時代なんだから、
俺ひとりがどうなっても、この国のみんなが幸せになれば、俺はそれだけで・・・・・・」
「でも、あなたも『この国のみんな』のひとりでしょう」
薫の声は、幼い子供に語りかける母親のそれのようだった。
「みんなの幸せのなかには、あなたの幸せだって入ってるの。でも剣心は自分のことはどうでもいいみたいに思ってるみたいだから、わたしがかわりにあ
なたの幸せを祈るわ」
「・・・・・・やっぱり、小さい」
やはり照れ隠しのように、剣心はぶっきらぼうに言う。しかし薫には、そんな彼がとても愛おしく思える。
「小さくていいの。小さくたって、わたしはまず近くにいるひとの無事を祈りたいの」
薫は膝を折って、剣心を足元から見上げるようにする。それこそ、大人が子供に目線を合わせて話すときのように。
「それに、わたしは剣心に何かあったら悲しいもん。つまりね、剣心が無事でいることが、わたしの幸せなの」
じっと下から目を見つめられて、剣心は動けなくなる。困ったように返事を探していた剣心は、やがてふわりと肩から力を抜いて笑った。
「・・・・・・ずるいなぁ」
「何が?」
「そう言われたら俺、危険なことは何もできなくなるじゃないか」
「だって、剣心ってなんだか無茶しそうなんだもん。だから、これくらい釘を刺しておいたほうがいいでしょ?」
薫は、ぴょんと膝で跳ねるようにして立ち上がり、悪戯っぽく笑って首を傾げた。
「・・・・・・でも、ありがとう。嬉しいよ」
小さく剣心が呟く。
薫はもう一度彼のとなりに腰をおろした。先程より、わずかにだが彼に近い距離で。
「そんなふうに心配してくれるのって、薫だけだしなぁ」
「あら、比古さんがいるじゃない」
何の疑問もなく薫はその名前を口にしたが、剣心の眉は曇った。
「言っただろ? 喧嘩別れしたって」
座して時が経つのを待つことなど出来ないと言った剣心、それを諌めた比古。ふたりは頑として互いの意見を曲げようとはしなかった。
そして剣心は、比古のもとを飛び出した。
「・・・・・・怒っているだろうな、師匠」
今まで、比古と言い合ったことは何度もあったし、逆鱗に触れてぶん殴られたこともあった。しかし今回はそんな小さな諍いではなく、完璧に袂を分かって
しまったのだ。
「どう考えても師匠の言う事は納得できないし、自分の信じたとおりに行動したことは後悔していないんだ。でも・・・・・・それは別として、俺が恩知らずだっ
てことはわかっているんだよ」
両親を亡くして、路頭に迷ってもおかしくなかった自分を拾ってくれたのは比古だ。そして剣術という無二の物を与えてくれた。道を違えたといえども、今も
彼に恩は感じているのだ。だから、後ろめたさは否めなかった。
「そう思っているなら、いつか会いに行けばいいじゃない」
薫の言い方があまりに明るいものだったので、剣心は不思議そうに彼女の顔を見た。
「比古さん、怒っていたとしても剣心のこと絶対心配しているわよ。だから、いつか会いに行って元気な顔を見せてあげれば大丈夫よ」
「いつかって・・・・・・」
「剣心が望む未来が来て、新しい時代が始まってからだって会いに行けるでしょ? 一年後か五年後か、十年後になるかはわからないけれど―――」
薫は、あの京都での出来事を思い出していた。確かに、彼らは再会を果たしたのだ。
「生きてさえいればまた会えるし―――何度でもやりなおせるわ」
生きてさえいれば、必ずまた始めることができる。
生きて、諦めさえしなければ、人は新しい一歩を踏み出せる。
それは薫が剣心に出逢ってからずっと、つよく信じていること。
剣心に出逢って、薫は独りぼっちではなくなった。
そして、ずっと独りで流れていた剣心も、薫と新しい人生を歩み出したのだから。
薫の瞳は、強くはっきりした意志をたたえていて、視線を正面から受け止めた剣心は眩しいものを見るように目を細める。
「生きてさえ、いれば・・・・・・」
「そう、生きてさえいれば絶対なんとかできるから、だいじょうぶ。ね?」
剣心は、比古と決別して以来ずっと気にかかっていた事を軽々と「大丈夫」と保証され―――背負っていた荷物をようやく下ろすことができたように、気持
ちがふっと軽くなったのを感じた。
「薫は凄いな」
「え? 何が?」
「なんか、今ので楽になったから」
彼女は、なにかとても輝いているものを、身体の内側に持っているみたいだ。
薫と話していると、身のうちに心地よい風が吹くようで。彼女の言葉ひとつ、笑顔ひとつで力が湧くようで―――
剣心の台詞に、薫はますます嬉しそうな笑顔になる。
そんな彼女を見て、剣心はふと、以前からずっと気にかかっていたことを口にしてみた。
「・・・・・・薫は」
「うん?」
「薫は師匠のこと、好きなの?」
「・・・・・・・・・はぁ?!」
薫は思い切り眉根を寄せて、調子の外れた声をあげた。
その顔を見て、質問した当の剣心はうっかり吹き出しそうになる。
「ちょっと、訊いておいてなに笑ってるのよ!」
「いや、今の反応があんまり面白かったから・・・・・・」
くつくつと肩を震わせる剣心を、薫は憮然とした顔で軽く小突いた。
「剣心があんまり変なこと言うからよ! 何それどこから出た発想なの?」
「だってさ、今まで師匠の縁者が訪ねてきたことなんてなかったから・・・・・・だから、ひょっとして師匠に気があって、こっそり顔を見に来たのかなぁって、前
から気になっていて」
「それは絶対ないっ! 残念ながらそういうのじゃないからっ!」
さも心外と言わんばかりに、ぶんぶんと首を横に振る。剣心は笑いをおさめながら、「残念じゃないよ」と呟いた。
「残念じゃなくて・・・・・・むしろ、よかった」
その事が、喉に刺さった小骨のように、ずっと気にかかっていたのだ。
懸念が消えた剣心の頬に、無意識のうちに笑みが浮かぶ。
薫は、ふぅんと小さく呟きながらも、くすぐったい気持ちがわきあがるのを自覚していた。
今の質問と、剣心の表情が語る、その意味は―――
「・・・・・・なに?」
「別に、なんでもないわ」
―――その頃。
こっそり隠れて様子を窺っていた明治の剣心は、ふたりの初々しい会話の数々を目の当たりにして―――恥ずかしさのあまり死にそうになっていた。
15 「交換」へ 続く。