15  交換








        少し、風が出てきた。



        こちらでは、昨夜にでも雨が降ったのだろうか。境内の木立の間を縫って吹いてくる風は、僅かに湿り気を帯びていた。
        なんとなく途切れた会話はそのままに、剣心と薫が心地よい沈黙を涼風にたゆたわせていると、小さな女の子がふたり、きゃあきゃあとはしゃぎながら転
        がるように目の前を通り過ぎる。
        姉妹なのだろうか、揃いの真っ赤な浴衣を着たふたりは、ギヤマンの鉢から抜け出した金魚のようだった。生成と桃色、色違いで結んだ帯が足取りにあ
        わせて背中でふわふわ揺れる。薫はその姿を見て、「神様みたいだな」と心の中でつぶやいた。

        少女ふたりは拝殿のほうへと駆けてゆき、小さい手には余る大きさの筒型の御神籤箱をよいしょと持ち上げた。
        ふたりで支えあうようにしながら、力いっぱいがらがらと振って、棒を引き出す。

        小さな姉妹が楽しげにお神籤をひく様子を遠目に眺めていると、おもむろに剣心が口を開いた。
        「俺たちも、ひいてみようか」
        「え、おみくじを?」
        「うん、これからの事を占うつもりで」
        せっかく願掛けに来たのだからと立ち上がる。薫は頷いて後に続いた。





        「わたし、お神籤なんて久しぶりかも」
        剣心と薫は順に御神籤箱を振って、出た数字から籤を受け取る。小さな紙を開いて出てきた文字に、薫は「わ!」と小さくはしゃいだ声を上げた。
        「やった、大吉! ね、剣心は?」
        高く結った髪を弾ませて振り向くと、剣心はことのほか険しい顔で籤に目を落としている。
        「・・・・・・どうしたの?」


        手元をのぞくと、そこには―――「凶」の文字があった。


        「・・・・・・わたし、凶って初めて見たわ」
        「これは、幸先悪すぎだろ・・・・・・いくらなんでも、洒落にならない・・・・・・」
        剣心は本気で眉を寄せ、ますます思い悩む表情になる。
        「・・・・・・えーと、これだけ珍しいのを引き当てたんだから、却って運がいいかも・・・・・・って考えるのはどうかしら?」
        「いや、流石にこれは、そんな前向きに解釈する気にはなれないよ・・・・・・」
        今まさに人生の新たな段階に踏み出そうとしている矢先に、この「凶」だ。たかが籤とはいえども重く考えてしまうのは、無理もないだろう。一気に暗い顔
        になってしまった剣心は枝に結ぶべきかそうすると却っていけないのだろうかなどとぶつぶつ呟きだした。薫はそんな彼を見て小さく肩をすくめる。

        「剣心、ちょっとそのお神籤貸して」
        「え? どうして?」
        「いいから!」
        薫は訝しむ剣心からお神籤をもぎ取り、かわりに自分の大吉を彼の手に押し付けた。


        「はい、これ!」
        「えっ?」
        「交換しましょ」
        ちょっとそこのお醤油とって、と言うくらいの気軽さで、さらりと薫は言った。
        剣心は意味がわからず一瞬きょとんとしてから、手に握らされた薫の「大吉」に慌てる。

        「なっ・・・・・・!駄目だよそんなこと!」
        「いいのいいの!剣心は今が大事なときなんだから、そっちを持っていてよ」
        「でも!」
        「あら? ねぇ見て剣心、大吉と凶なのに、ここだけ全く同じことが書いてあるわ」
        「え?」


        薫が指差した、「待ち人」の項を目で追う。
        すると両人ともに書かれている文言は、「長く待てども、必ず来たる」。


        「ほんとだ・・・・・・」
        「ちょっと運命的じゃない? きっとこのお神籤は、どちらもわたし達が引くべくして引いたのよ」
        薫は「凶」のお神籤を丁寧に折り畳んで、大事そうに懐に仕舞う。
        「薫・・・・・・ほんとにいいの?」
        「いいの。わたしの運、剣心にあげるわ」
        薫は剣心の手からお神籤を取って、きちんと畳んでからしっかりと彼の手に握らせる。
        「わたし、結構運が強いのよ。今までも危ない目に遭いそうになったことは何回かあったけれど、ちゃんとこうして無事に過ごしてこられたんだから」


        実のところ、それは運だけではなく、いつも剣心が守ってくれていたからだ。
        今、こうして握っているこの手が、未来でわたしを守ってくれた。

        薫は、祈りを捧げるように目を閉じた。
        わたしには、あなたのように闘って守る強さはないけれど。
        でも、ささやかだけれど、少しでもこのお神籤があなたのことを守ってくれますように―――と、願いをこめる。



        「きっと、御守り代わりになるわよ。そのかわり、剣心は何があっても無事でいてよね?」
        きゅっ、と。薫は力をこめて剣心の手を両手で握ってから、ぱっと離した。

        剣心は握った手に目を落としてから、視線を上げる。
        大輪の花が咲いたような、明るい、きらきらした笑顔がそこにあった。



        「・・・・・・ありがとう、薫」



        まぶしいものを見るように目を細めながら、剣心も笑顔を返した。








        ★








        剣心は御守りをひとつ求めて、袋の中に薫がくれた大吉を入れた。



        「大切にするよ」
        きゅっと紐を結んで懐中にしまい、大事そうに着物の上から撫でる。
        薫は「わたしも」と、同じように自分の胸を撫でた。そこには勿論、剣心と交換した「凶」が入っている。ふたりは顔を見合わせて笑った。

        「じゃあわたし、そろそろ行かなきゃ」
        「え? もう?」
        「人を待たせているの」
        「そっか・・・・・・」
        剣心は明らかに残念そうに肩を落としたが、すぐに姿勢を正して薫の目を見た。
        「また、会える?」
        「ええ、きっと」

        嘘ではない、多分。
        また明日、そして明後日まで、神様は道場にいてくれる。きっとあと二回は、こうして過去の剣心のもとに導いてくれることだろう。
        剣心は薫の答えと表情に、安心したかのように笑顔になった。


        「じゃあ、お神籤、ほんとにありがとう」
        「うん、またね剣心」

        名残惜しいけれど、きっとまた会えるから。そう思いながら、薫は剣心に手を振り歩き出す。
        途中何度か振り返ると、剣心がまだ同じ場所に立ってこちらを見ていた。その度に薫はくすりと笑って手を振る。すると剣心は、出かけてゆく母親を見送る
        留守番の子供のように、大きく手を振り返す。


        そんなことを何回か繰り返して、何度目かに振り向いたとき。
        そこにある景色は、長州の神社の境内ではなく―――






        見慣れた神谷道場の庭だった。






        「・・・・・・あ」
        「お帰りなさいませ」


        またしても唐突に戻ってきて、薫は一瞬ぽかんとした。
        そばには上着を脱いだ姿の老紳士と、襷で袖をたくしあげた神様が立っていた。彼らの足元には空になった籠があり、物干し竿にははたはたと風を受け
        てはためく洗濯物があった。

        「干しておいてくださったんですか?」
        「はい。見様見真似でやってみたのですが、出来はいかがでしょうか?」
        手習いの師匠に作品を見てもらうような口ぶりに、薫の頬は緩んだ。きっちり綺麗に皺がのばされている洗濯物を見て、薫は「完璧です、どうもありがとう
        ございました」と笑顔で礼を言う。きゃー、と嬉しそうに歓声をあげて飛びついてきた神様を受け止めながら薫はまた笑ったが、そこで、はっとしたように顔
        を上げた。


        胸の袷に、手を入れる。
        指で探ってみるが、剣心と交換したお神籤は、影も形もなくなっていた。


        「消えちゃった・・・・・・」
        「仕方がありません、そういう規則です」
        どこかすまなそうな老紳士の声に、薫は首を横に振る。
        「大丈夫です、ちゃんと、わかっていますから」
        違う時代に存在する物を、持ち出すことはできない。それは歴史を変えないための規則だ。しかし、頭ではわかってはいるのだが。

        「でも、やっぱり残念・・・・・・」
        せっかく、向こうの剣心と交換したのに。
        剣心はきっと約束どおり、大切にしてくれているだろうに―――
        そこまで考えて、薫は慌ててあたりを見回した。

        「やだっ!そういえば剣心は?! 剣心も戻ってきたんですかっ?!」
        「ああ、御主人なら・・・・・・」
        老紳士と神様は、揃って縁側のほうを指差した。小走りで薫がうちの中に上がると、畳の上でうつぶせになっている剣心の姿が目に入る。




        「剣心!」


        薫は駆け寄って、膝をついて剣心の肩を揺らす。しかし剣心は、ぐったりと突っ伏したまま返事をしない。
        「剣心?!どうしたの?! しっかりして!」
        自分は平気だったが、剣心はもとの時代に戻る際に、気分が悪くなるような衝撃でもあったのだろうか。それとも、向こうで何か大変な目にでも遭ったので
        は―――

        「剣心ってば!」
        「・・・・・・死んでしまいそうでござる・・・・・・」

        ぼそぼそと、瀕死の蚊が鳴いているかの如く、力無いつぶやきが漏れた。
        さっと、薫の顔色が白くなる。
        「うそ・・・・・・やだ、剣心!いったいどうして・・・・・・」
        薫は泣き出しそうに顔を歪ませる。
        だが、次に剣心が吐いた言葉は、思いもよらぬ内容だった。




        「恥ずかしすぎて・・・・・・死にそうだ」














        16 「変わらないもの」へ 続く。


        「某少女マンガと内容がかぶっているじゃないか!」ということに関してのいいわけ大会は、こちら(爆)。