16  変わらないもの










        「ねぇ、剣心」


        薫は、蓑虫のように頭から布団をかぶってだんまりを決め込む剣心に声をかける。
        「いいかげん、顔出してよー」
        しかし、返事はかえってこない。まだ宵の口だ、寝入ってしまったわけでもなかろうに。




        過去の長州から戻ってきたあと剣心は、ひたすら「恥ずかしすぎて死にそうだ」と連発し、先程見てきた「過去の自分」と薫とのやりとりを思い出しては「う
        わぁぁぁ」と唸りながら頭を抱える始末だった。実際、どんな強敵と戦った後なのかというくらい彼の表情はぐったり疲れきっており、夕飯もろくに喉を通らな
        い有様だったので、彼が風呂に入っている間、うっかり湯船で溺れてたりしてないだろうかと薫は本気で心配した。

        そして、早々に寝所に逃げ込んで布団に隠れてしまった剣心に、薫は少々呆れ顔で息をつく。
        「えいっ!」
        ぼすん、と背中のあたりをめがけて倒れこんでやる。布団ごしの剣心の体温を探すようにぴったりと頬をおしつけて、ぐいぐい身体を揺すってやった。
        「ねえ、そんなに恥ずかしがるような事はしていなかったじゃない」
        返事は、たっぷり間をあけてぼそりと返ってきた。
        「・・・・・・充分、していたでござるよ・・・・・・」
        やっと反応してくれた剣心に、薫は黙って次の言葉を待った。

        「あんな青くさい台詞を、薫殿に連発して・・・・・・何度飛び出して奴の口を塞いでやろうと思ったことか」
        「奴って・・・・・・そんな、自分のことでしょう」
        「だからでござるよ・・・・・・だいたい薫殿にこう言われたらこう返すだろうなと、悉く予想通りの返答をしやがって」
        「しやがって、ねぇ」
        言葉遣いが微妙におかしくなってきている。余程いっぱいいっぱいなんだろうなと薫は苦笑した。
        「それに・・・・・・」
        「ん?」
        いよいよ小さくなる声は、くぐもって聞きづらい。薫は身体を移動させて、布団越しに剣心の頭に自分の頭をくっつけるようにする。


        「・・・・・・あからさまに、奴が薫殿への好意を表に出しているものだから・・・・・・もう、見ていていたたまれなくて・・・・・・」


        薫は軽く目をみはり、次いで頬を赤く染める。
        「・・・・・・剣心もそう思った?」
        「自分のことだから、手に取るようにわかるでござる・・・・・・」
        語尾が弱々しく消えてゆく剣心とは逆に、薫の声は明るく弾んだ。
        「えっとね、わたし、向こうの剣心もわたしの事好きなのかなぁって、ちょっと自惚れたこと考えたりしてたんだけど、そっかぁ・・・・・・えへへ」

        薫は布団の上から剣心の肩のあたりにぎゅうっと抱きついた。
        少年の頃の剣心が向けてくる、視線や言葉の端々に込められた好意。それを薫はうっすら感じとってはいたのだが、こうして「当の本人」から確証を取れ
        ると、より嬉しくなる。


        「まったく若い・・・・・・少しは隠そうとすればよいものを」
        大人になってからは、にこにこ笑う内側に感情を隠す術を覚えたけれど。まだ荒波に揉まれる前の、「少年の自分」の言動はストレートすぎて―――しかし
        その幼さは剣心自身確かに覚えのあるものだから、余計に恥ずかしい。

        そんな事を思っていると、薫が聞き捨てならない一言を口にした。
        「わたしは・・・・・・今の剣心と、そんなに変わっていないと思うけれど」
        ぴくり、と。布団の下で剣心の肩が震えるのを、薫は感じた。


        「・・・・・・変わっていない?」
        むくり、と剣心が身体を起こす。
        布団の上から覆い被さっていた薫は、反動でころりと畳の上に転がった。
        「あん、もう、漸く出てきた」
        「薫殿・・・・・・変わっていないって、どういう意味でござるか?」

        布団の上に座り直した薫の両肩を、剣心はがっしと掴む。
        「拙者は・・・・・・あんな青くさい子供の頃から変わっていないと言うのでござるか?」
        愕然としたふうに訊いてくる剣心に、「ほんとうによっぽど恥ずかしかったんだなぁ」と薫はむしろ感心する。確かに、もし自分が同じ立場に立たされたらそ
        う思うかもしれない、けど。


        「そういう意味じゃなくて・・・・・・剣心は大人よ。人間としてという意味で、わたしよりもずっとずっと大人だわ」
        それは本当にそう思うので、薫は素直に答えた。
        「それとはまったく別の意味で―――剣心は十年以上前から、根っこの部分にあるものはまったく変わっていないことが凄いと思ったの」
        「・・・・・・根っこ?」
        「なんていうのかな、真ん中にあるもの」
        誤解を生まないように、薫は慎重に言葉を選ぶ。
        「えぇと・・・・・・剣心は、この国が大きく変化する渦中にいて、辛いことや痛いことを沢山経験してきたでしょう。わたしなんかの、何倍も」

        苦しいことも沢山あった。自分の果たすべき役割を頭で理解はしていても、人を斬ることを思い悩んだ。
        愛し愛される人に出会えたが、幸せな暮らしは長く続かなかった。
        そして、贖罪の念を胸に―――長い時間を孤独のままさすらってきた。


        「そんなに色々なことが起こったら、当然、人間って変わるものだと思うの。でもね、剣心の真ん中にある、一番強く思っている事はずっと変わっていない」


        剣心は、薫の肩をしっかり掴んだまま、彼女の紡ぐ言葉に聴き入った。澄んだ夜空の色の瞳は深く、見つめているとひきこまれそうになる。
        「弱いひとを守りたいとか、自分の力を役立てたいとか、そんな想いは子供の頃からずっとずっと変わっていない―――今だって、そうでしょう?」
        軽く首を傾げると、洗い髪がふわりと寝間着の肩をすべり、剣心の指をくすぐった。
        「それって、凄いことだと思うの。それだけあなたの信念が強いってことだもの。だからね、そういう意味で『変わっていない』って言ったの」

        ちゃんと説明できたかしら、と薫は笑った。
        しかし剣心はそれに答えず、先程とは違う意味合いで、まじまじと薫を見ていた。
        「って、ねぇ剣心、聞いてるの?」
        「ああ・・・・・・納得したでござる」
        「え?」


        肩に置かれていた手が、首筋を撫であげるようにして、頬へと移動した。乾いた大きな手が、薫の頬を包み込む。
        ゆっくりと剣心の顔が近づいてきたので、薫は反射的に目を閉じた。

        ほんの僅かに、唇が重なる。
        尊いものに触れるような、静かな口づけ。


        「・・・・・・参ったなぁ」


        目を開けると、剣心が困ったような顔で自分を見ていた。
        一瞬、いま此処にいる彼と、少年の日の剣心の瞳が重なったように見えて―――薫はああやっぱり変わっていないわ、と思う。

        口に出して言ったら拗ねるだろうから言わないけれど、あなたは時折そうやってわたしに甘えてくるじゃない。
        そんな時の顔は、少年の頃のあなたと同じ目をしているのよ?


        「参ったって、何が?」
        頬を包んだ剣心の手の暖かさを感じながら、薫は訊いた。
        額がくっつきそうな距離。剣心は先程の薫のように、どう言ったらうまく伝わるだろうかと言葉を探した。が、結局のところ、変に言葉を選ぶよりも、感じたこ
        とをそのまま口にするのが一番よいのだろう。今日は散々恥ずかしい思いをしたのだから、照れくさいのなんて、今更だ。



        じっと、薫の目をのぞきこむ。
        瞳の奥にある、強く優しい光にむかって語りかけるように。




        「きっと拙者は、どの時代にどんな出逢い方をしても、必ず薫殿を好きになってしまうのだろうな」




        一瞬、何を言われたのかわからず、薫はぽかんと呆気にとられたような顔になる。
        そして一拍おいてからぼわっと頬に血がのぼり、あざやかな桜色になった。


        「だから、薫殿にはかなわないなぁ、と。参ったなぁと、そう思ったんでござるよ」
        頬を挟み込まれたまま、今度は薫が困ったような顔になる。
        大好きなひとからまっすぐに告げられた、愛の言葉。嬉しすぎて、嬉しすぎて苦しいくらいで、なんと答えればよいのかわからない。
        ごく近くで見つめられて、目を離すこともできないまま、薫の瞳が熱を帯びて潤んでゆく。

        剣心は薫から言葉は求めなかった。愛しさを乗せて伝えるように、もう一度唇に触れる。先程のような一瞬の口づけではなく、繰り返し強く押しつけて。
        頬にあった剣心の手はいつの間にか薫の華奢な背中にまわされており―――ぐい、とおもむろに抱き寄せられた。


        「け、けんしん・・・・・・」
        戸惑うように名を呼ぶと、剣心は答える代わりに開いた唇に舌を差し入れた。
        「んんっ・・・・・・!」
        きつく、瞳を閉じる。自分の舌に彼のそれが絡みついてくる感触に、頭の中が熱くなる。息苦しさと甘い感覚に、腰のあたりから力が抜けてゆき、薫は必
        死に剣心にすがりついた。

        「・・・・・・っ、あ!」
        体重をかけられた、と思ったときには既に押し倒されていた。
        のし掛かってくる剣心を押し戻そうともがくと、その手首を痛いほどに掴まれ、自由を奪われる。
        「け、剣心! いやっ・・・・・・!」
        薫の声を無視して、剣心は細い首筋に吸いつき、白い肌に赤い痕を刻んでゆく。寝間着の袷に手をかけて押し広げられ、薫は泣きそうな顔になって首を
        横に振った。


        「だ、駄目・・・・・・」
        「駄目って、どうして?」
        抗議の意味がわからない、というような不思議そうな顔で、剣心は組み敷いた薫を見下ろす。
        「だから・・・・・・今、わたしたち、ふたりきりじゃないのに・・・・・・」
        いつもと違って、今は神様たちが家にいる。それが気になると、昨日から言っているというのに。

        「ごめん、今日はもう・・・・・・我慢できない」
        「でも・・・・・・」
        「あまり派手な声を出さないよう、頑張って」
        「そんなっ・・・・・・!」


        言うなり胸に舌を這わされて、薫の眉が歪む。どんどん強くなる刺激に、涙が滲み始めるのがわかる。
        こうなってしまったらもう彼からは逃げられないことは、今までの経験上いやというほど判っている。
        やがて身体を重ねられて、欠けたところを満たされる感覚に、薫の白い喉が大きく反った。

        「好き・・・・・・」
        耳元で紡がれる、柔らかな声。
        「わたしも」と返そうとして震える唇を動かしたが、声は掠れて殆ど音にはならない。


        「・・・・・・聞こえない」
        彼が意地悪でそう言っているのは明白だった。
        だって、今無理に声を出そうとしたら、きっと―――

        「す、き・・・・・・っ、あぁ・・・・・・!」
        思いきり腰を引き寄せられて、語尾はそのまま悲鳴に近い泣き声になった。
        その口を手で塞ぎながら、剣心は薫に顔を近づけ、「しーっ」と無声音で囁く。




        声を塞き止められたまま、薫は自分に覆い被さる剣心を見上げる。
        とろりと甘えるような色を湛えた双眸。そこに、少年の表情が重なって見えた。









        夜は、まだまだ長い。

















        17 「人斬り」へ 続く。