「どうも、長々とお世話になりました」
翌朝、晴れ渡った夏空の下、綺麗に修復された社の前で老紳士は剣心と薫に神妙に頭を下げた。
扉は無事に直されて、今日、神様とその従者のふたりは居るべき場所へと帰ることになる。
「こういう事態が度々あっちゃいけないんでしょうけれど・・・・・・でも、もしまた何かったら、その時は会いにきてくださいね」
数日間だが同じ屋根の下で生活をして、すっかり彼らに親しみを感じるようになってしまった薫は、ついしんみりした声になる。剣心もそれは同じらしく、慰
めるように薫の肩を叩きながら自身もどこか寂しげな顔をしていた。
「これ」
と、神様が薫に向かって、きゅっと握った手を突き出す。
「なぁに?」
薫はしゃがんで、両手を差し出した。
「・・・・・・ほんとは駄目だけれど、とくべつ」
そう言って、神様はにっこりと笑う。
かさり、と。乾いた音をたてて、小さな何かが薫の手のひらの上に落ちた。
「あなたは神様にいろいろ優しくしてくださいましたので、嬉しかったのでしょう。その、御礼ですよ」
ぽん、と老紳士が神様の背中に触れた。促されて神様は「ありがとうございました」とお辞儀をする。
老紳士は社の扉に手をかけた。新しい扉にも可愛らしい花の木彫りが施されており、神様はそれをみて嬉しそうに笑うと、社の中へと入っていった。
「・・・・・・奥様が、あの時代のあの場所に、存在していた証拠です」
老紳士はそう言うと、自分も身体を折り曲げるようにして社に潜りこむ。
「それでは、おふたりともどうぞお元気で―――」
扉が閉まる瞬間、神様の小さな手がひらひらとひらめくのが見えた。
剣心と薫も、それに手を振って応え―――少しの間をおいて、社の扉を開けた。
中には、誰の姿もなかった。
ただひとつ、御神体であろう小さな子供を模したような古い木の人形だけが、ちょこんと鎮座ましましていた。
「・・・・・・帰っちゃったのね」
「そうでござるな」
「寂しくなっちゃうなぁ・・・・・・神様、あのままうちの子になっちゃえばよかったのに」
人間より高位の存在である「神様」だが、その姿も仕草もまるきり子供で、無邪気に懐いてくれる様子も可愛くて―――薫としては、思いがけず「娘を賜っ
た」ような気分だったのだろう。心から残念そうに肩を落とす。
「なに、娘なら、頑張ればじきにできるでござろう」
薫は真っ赤になって、冗談でもないふうに言う剣心の肩を軽く小突いた。剣心はそんな彼女に向かって、微笑みを深くする。
「・・・・・・薫殿、ありがとう」
ふいに、剣心が口にした礼の意味がわからず、薫は首を傾げる。
「ありがとうって、何が?」
「昔の拙者の、世話をやいてくれて、ありがとう」
「やだ、全然世話なんてやいてないわよー」
薫は小突いた手を下ろし、くすくすと笑って剣心の隣に寄り添う。
「でも・・・・・・よかった。昔のあなたに逢えて」
ことり、と。首を倒して、薫は剣心に寄りかかる。
ずっと、思っていた。
独りで闘っていた頃のあなたを、支えてあげたかった。あの頃のあなたの傍にいて、少しでも力になりたかった。
あなたに―――笑顔をあげたかった。
そんな夢みたいな「もしも」の話が、まさか叶うなんて思わなかった。
結果として、過去の剣心の記憶からわたしは消えたから―――あれは、あの出逢いは、もう本当にわたしの見た夢のようなもの。あの出逢いは、もう消え
てしまった。
「それでも、行ける筈のない時代に行くことができて、逢える筈のない過去のあなたに逢えたなんて―――わたし、贅沢者だわ」
それに、あの時代のあなたも、確かにわたしを好きになってくれた。
あなたに逢えたという事実は、あなたの記憶から消えてしまったけれど。あの邂逅は、束の間の幻にしか過ぎなかったのだろうけど、それでも―――
「消えない、でござるよ」
剣心が、ぼそりとつぶやいた。
薫は、え?と寄り添う彼の顔を見上げる。
「あの時代の拙者から、薫殿の記憶が消えても、忘れてしまっても―――拙者があの時、薫殿を好きになったという想いは、消えないでござる」
薫の目が、驚きに見開かれる。
それは、過去の剣心が、別離の瞬間に叫んだ言葉とまったく同じで―――
「剣、心・・・・・・覚えて、いるの・・・・・・?」
薫の唇が震える。しかし剣心は、ゆっくりと首を左右に振った。
「覚えてはいない・・・・・・けれど、もし今の拙者が昔の拙者と同じ立場だったら、きっとこう言うでござるよ」
何しろ自分の事だからな、と剣心は笑った。
「記憶が消えても、薫殿と過ごしたあの時間は、ちゃんと拙者のなかにある。それは、間違いないから」
剣心は、とん、と自分の胸のあたりを軽く叩いてみせる。思いがけない台詞に、薫は言葉を発せないでいた。
「それに・・・・・・これは、薫殿がくれたものだったんでござるなぁ」
剣心はおもむろに、懐中から財布を取り出した。そしてその中から―――古びた御守り袋を出してみせる。それは、薫にも確かに見覚えがある物だった。
少年だった剣心が奇兵隊に入ろうとしていた直前に、神社で買った御守り。
あの時、剣心はその中に―――
剣心の指が、御守り袋の中から、小さく折り畳まれた紙を抜き取る。
「いつ引いたものか、おかしいことにはっきり覚えていなかった。だけれど、何故かひどく大事なものに思えて―――この十余年、幕末の動乱の頃も、新し
い時代が始まってからも、ずっと持ち続けていたよ」
薫は、はっとして握った手に目を落とす。
ゆっくりと、むすんだ手のひらを開く。先程、神様が別れの寸前に薫にくれたもの―――それは、小さく畳まれた紙片だった。
震える指で、紙切れを開く。
そこにあったのは、見覚えのある「凶」の文字。
剣心は、自分の持つ紙切れ―――お神籤を開いて、薫のものと並べてみせる。
それは、「大吉」と書かれたお神籤。あのとき、ふたりで引いて、交換したものだ。
剣心のお神籤は紙の色がうっすらと変色し、文字が僅かに薄くなり、十年以上の時を経ていることが一目でわかった。
そして、薫の「凶」も―――まったく同じように古ぼけて、文字も色褪せている。
長い時間を刻んできた、二枚のお神籤。
「待ち人」の項にはどちらにも同じく、「長く待てども、必ず来たる」の文。
―――奥様があの時代のあの場所に、存在していた証拠です。
老紳士の最後の言葉が、耳に蘇る。
これを渡してくれたときの、神様の笑顔も。
「わたし、ちゃんといたのね・・・・・・あの時代の、あなたのそばに・・・・・・」
様々な感情が溢れ出てしまいそうで、胸が苦しい。こらえるように口許を手でおさえたら、かわりに瞳から涙が落ちた。
「いたよ、確かに」
一緒に過ごした思い出も、支えてもらった時間も、消えてしまったけれど。
それでも、俺は長い旅の果てに、君に辿り着くことができた。
忘れてしまっても、それでも―――俺は君のことを、ずっとずっと探し求めていたのだろう。
剣心は、寄り添っていた薫を改めて抱きしめた。
大切なものを庇うように優しく。かけがえのないものをもう二度と失わないよう、きつく。
「あの時確かに・・・・・・拙者は薫殿に、恋をした」
記憶は消えてしまっても、魂は覚えている。想いは決して消えはしない。
あれは確かに―――初恋だった。
わたしも、と言おうとしたが声にならずに、薫は剣心の胸に顔をうずめた。
いつ、どの時代に、どんな風に出逢っても、あなたを好きにならずにはいられない。
幾度めぐり逢って幾度忘れても―――わたしたちは必ず、恋をする。
「初恋」 了。
「そして」へ 続く。
2014.11.07
モドル。