「あああ・・・・・・とうとうやっちゃった・・・・・・」
川の方からあがった大きな歓声に、薫は思わず手で顔を覆った。
出稽古からの帰りの途中、弥彦は前川道場の門下生たちと一緒に河原に立ち寄り、川辺の水面から突き出ているごつごつとした岩の上を歩いて遊んで
いた。が、そのうちに彼らは川面を蹴って飛沫の高さを競い始め、やがて水の掛け合いになり―――そしてたった今、少年たちは皆で一斉に履物を脱ぎ
捨て、川の水に足を踏みこんだところである。
「まぁ、時間の問題ではござったな」
剣心と薫は河原に腰を下ろし、少年たちがはしゃぐ様子を眺めていた。剣心は可笑しげに笑ったが、薫は「もう〜!どう考えても寒いでしょう、今は四月
よ?」と、羽織を着こんだ道着の肩を抱くようにして、身を震わせる仕草をする。
「確かに寒そうだが、我慢比べの要素もあるんでござろう」
「まったく、風邪ひいても知らないから・・・・・・剣心、どうする?先に帰ってる?」
「いや、待っているでござるよ。折角こんなにいい天気なのだし」
「そうね、それは同感」
さすがに川に足をつける気にまではならないが、それでも今日は四月にしては気温が高く、屋外でのんびり寛ぐには快適な日和だった。
薫はぱたんと身体を倒して、柔らかな草を背中に寝転がる。
「うん、川に入るより、こっちのほうがずっと気持ちいいわ」
高い位置で結った髪が、緑の草の上に美しい流れを作る。その有様に、剣心は一瞬目を奪われた。
「ごめんね、お行儀悪くて」
「あ・・・・・・いや、別に、そんなことは・・・・・・」
薫が悪戯っぽく舌を出して、剣心は慌てて視線を川の方へと戻した。
青い空に、川のせせらぎ。
道着姿で、草の上に身を投げ出した薫の姿。
どうしてだろう。
一瞬、前にもこんな事があったように感じた。
―――そういえば、ずいぶん昔、師匠と田舎で暮らしていた頃。
住まいの近くには川が流れていて、少し森の奥に入ると小さな滝があった。
師匠の稽古はとにかく実戦的で、「荒っぽい」を軽く通り越して「命がけ」の域だった。足腰が立たなくなるほど打ち据えられて、これはこのまま死ぬかもし
れないと思ったことも一度や二度ではなかったが、その場所で稽古をするのは好きだった。
へとへとになって倒れこんだ身体を受け止めてくれる、草の感触は優しかった。仰向けに空をあおぐと、木々の間から見える空の青が目に沁みた。滝と川
の流れが奏でる旋律に包まれると、僅かながら疲れと痛みを忘れることもできた。今目の前にいる弥彦や門下生たちと同様に、川の流れに足を遊ばせる
こともあった。ああ、そういえばあの川は何箇所か淵みたいに深くなっているところがあって、それを知らずに川を渡ろうとした旅人が落ちてはまって騒ぎに
なったことも何度かあって―――
と、そこまで思い返したところで剣心は、「不思議だな」と心の中で呟いた。
こんなふうに、少年の頃の事を追想するなんて、久しぶりだ。
川の流れに、青い空に緑の河原に。そんな景色は今まで旅を続けてきた中で数え切れないくらい目にしてきたけれど、それをきっかけに過去に思いを馳
せることなどまず無かった。それなのに、今日に限ってはどうしたことだろう。
ふと、薫のほうを見やると、寝転がった彼女は瞳を閉じてうつらうつらと眠りの淵に身を沈めようとしていた。まだかろうじて意識はこちら側にあるようで、長
い睫毛が小さく震えている。
「薫殿、眠いのでござるか?」
「んー・・・・・・そうかも・・・・・・」
「こんなところで昼寝をしては、風邪をひくでござるよ」
「だいじょうぶ・・・・・・ここ、あったかいし・・・・・・」
確かに今日の陽気なら、少しくらいの時間ならば屋外でのうたた寝もどうということもないだろう。弥彦たちが水遊びに飽きたあたりで起こしてやればよい
か、と。剣心は、そんなふうに考えたのだが―――
「・・・・・・そのうち、師匠が帰ってくるでござるよ」
口にしてかから、首を傾げた。
何故、そんな台詞がこぼれ出たのか、自分でもわからなかった。
「・・・・・・父さんが・・・・・・?」
薫は目を閉じたまま、空気で紡ぐようにごく小さな声でそう言った。成程、彼女にとって「師匠」とは父親を指すのだな、と。剣心は微笑ましい思いで口許を
緩めた。
それにしても、今日は本当にどうしたことだろう。師匠の事を思い出すのも、これまた自分にしては珍しい事である。
今、彼はどうしているのだろうか。いや、あの師匠のことだから達者でいることはまず間違いなかろうが。
普段、彼の事を意識して思い出そうとしないのは、後ろめたさがあるからだ。まだ少年で今よりもずっと未熟だった頃、喧嘩別れという形で比古のもとを飛
び出した。あの時は、それが最善の行動だと信じていたが―――あの時から既に、彼の恩に何ひとつ報いることなく決別したことは後悔していた。道は違
えてしまったが、それでも、自分に「剣」という無二のものを与えてくれたことには、勿論感謝をしているのだ。
つくづく、不思議だった。
何故今頃、師匠のことなど思い出しているのだろう。もう何年も顔を合わせていなくて、恐らくは今後も二度と会うことはないだろうに。
―――いや、それとも。また会うこともあるのだろうか。
剣心は、薫の寝顔を見ながらなんとはなしに思った。
これまでずっと続けていた、あての無い旅暮らし。
二度と人は斬らないとこの刀に誓って、人を助けることだけを考えて、国中を巡っていた。
何年も続いていたその暮らしに、今、変化が起きている。
はじめて、ひとつの場所にとどまった。新しい出会いがあった。これらは自分にとって思いがけない出来事だった。
それなら―――今後、二度と会わないだろうと思っていた人物に再会することだって、あるのかもしれない。
再会、という言葉に、何故か小さく胸がうずいた。
その理由もまた、剣心にはわからなかった。
薫はすっかり熟睡してしまったらしい。花びらのような唇が、規則的な呼吸とともに微かに震えている。
大きな瞳を隠す長い睫毛が白い頬に影を落とすのを、剣心は「きれいだな」と思いながら見つめる。
せき止められ、停滞していた川の水が再び流れ出したように。
この少女に出逢ってから、自分の中で止まっていた何かがまた動き出したような―――そんな気がする。
薫の寝顔を飽きずに眺めていた剣心だったが、じきに彼女につられたかのように、眠りの波が寄ってきた。
とろとろと意識が遠のいてゆくのにまかせて、剣心は目を閉じた。
★
はるか頭上で、鶯が鳴いた。
青い空に響いた高い鳴き声に、薫の意識は半分ほど覚醒する。
目蓋を動かすと、剣心の顔が見えた。
彼は、眠っていた。
剣心はもともと年齢よりも若く見える顔立ちをしているが、こうして無心で眠っている顔は普段より更に幼く見えて、なんだか少年のようだった。
わたしよりずっと大人なのに、不思議だな、と。そんなことをぼんやりした頭で思っていると、剣心の唇が震えるように動いて、声がこぼれた。
「・・・・・・やっと、逢えた・・・・・・」
ごく近い距離だから、かろうじて聞き取れたような、微かな声。
逢えた、って―――誰にだろう。
小さく疑問に思ったが、きっといい夢を見ている最中なのだろう。
何故なら、眠る彼の口許は、かすかに微笑みの形をとっているのだから。
薫は自分も柔らかな笑みを唇に浮かべながら、もう一度目を閉じる。
剣心を追いかけるかのように、薫は優しい眠りの中に再び意識を沈めた。
剣心と薫が「神様」に出会ったのは、それから一年後の夏のことだった。
「初恋」了。
2014.11.18
モドル。