左頬に斜めに走った傷が語っていた。
剣心は、清里明良を斬ったのだ。
時間は確実に薫の知る未来へと進んでいる。
これから剣心に訪れる、出会いと別れ。彼が頬に受けるもう一筋の傷と、心に負う疵を思い、薫の胸は重くなった。
「でも、大きな怪我はしないで、これまで無事にやってこれたから―――薫がくれたお神籤のおかげだよ」
黙りこんでしまった薫を見て、自分の身体のことを心配しているのだろうと思った剣心は、ぽんぽんと懐のあたりを叩いて笑ってみせた。
「ちゃんと・・・・・・大事に持っているよ」
薫は彼に微笑みを返しながら、向かい合うふたりの目線が変化していることに気づく。僅かに、剣心のほうが高くなっていた。
「背、伸びたね」
「薫は、やっぱり変わらないな」
剣心は、薫が「自分が幼い頃から変わっていない」というふうに認識している。別に薫は歳をとらない妖怪の類ではないのだが、これはもう訂正のしようが
ないので曖昧に首を振ってみせるしかなかった。
「俺は、ずいぶん変わってしまったよ」
「その年の男の子だもん、まだまだ成長するわよ」
「・・・・・・そういう変わり方じゃなくてさ」
剣心は、ふいに頬を歪め、自嘲するように笑う。
「あの夜・・・・・・前に薫に逢ったあの夜は、生まれてはじめて人を斬ってあんなに動揺していたのに―――あんなに怖くて怯えて、あんなに辛いと思ったの
に、もう、何とも思えなくなってきているんだ。慣れてしまったよ、すっかり」
昏い瞳。その色は少年の見せる瞳の色ではなく、人斬りのそれだった。
「あれから何人も・・・・・・沢山の人間を斬った。でも、もう何も感じられないんだ」
薫は手を伸ばして、剣心の頬に触れた。まだくっきりと生々しい、一条の傷痕をそっと包み込む。
「この傷をつけた男を斬ったときも、こうして傷は残っても、心には何も残らなかった」
剣心は、薫の手に自分のそれを重ねる。冷たい夜風が走り、ふたりの髪を揺らした。
「・・・・・・変わって、しまっただろう? 薫は、なんにも変わっていないのに、俺は・・・・・・」
「あなたも、変わっていない」
きっぱりと、澄んだ声がしんとした夜の静寂に響く。
剣心ははっとしたように、すぐ近くにある薫の目を覗きこんだ。
「剣心、前にわたしに言ったじゃない。虐げられて苦しんでいるひとを守りたいって。自分の剣を、弱いひとたちを助けるために使いたいって。だから・・・・・・
その想いが変わっていないから、あなたは今、此処でこうしているんでしょう?」
それは、以前河原で稽古をしたときに、剣心が薫に語った言葉だった。今にやってくるこの国の大きな変化のときには、自分の腕を役立てたい、と―――
あのときの剣心の、決意の光を湛えた強い瞳を、薫は今でもよく覚えている。
「この前も、言っていたわよね。新しい時代を迎えるために、この道を進む覚悟はあるって」
新しい時代を迎えるための道程。そこが血にまみれたものでも踏みとどまりはしないと。はじめて人を斬った夜、剣心は改めて、そう思った。
「誰もが自由に、笑って暮らせる時代を創るために・・・・・・この国を変えるためには、今は闘わなくちゃいけないんでしょう? 誰かが、人斬りにならなきゃい
けないんでしょう? あなたはそれを、引き受けたんだよね。あなたにはその腕があって・・・・・・優しいから」
剣心の瞳が揺れた。ひとを斬ってもなんとも思わないと、そんな非情な言葉を吐いた自分を、彼女は何故「優しい」などと言えるのか―――
「優しいわよ。剣心は、仲間の誰よりも辛い役目を引き受けたんだもの。心が麻痺してしまうくらいの辛い役目を続けていられるのは、その先に『弱いひと
たちが安心して暮らせる時代をつくりたい』と願っているからでしょう? ほら、あなたは相変わらず優しくて、真っ直ぐで、昔からどこも変わっていないわ」
そう、薫は知っている。剣心がずっと、変わっていないことを。
弱い者を助けたいという気持ちは、明治の世になっても彼がずっと持ち続けているものなのだから。
「ひとは変わるわ。心も身体も成長するし、良くなるところもあれば悪くなるところもあるかもしれない。でも、そのひとの一番真ん中にあるものは、そんなに
簡単に変わらないものよ」
いつか、明治の剣心にも同じことを言ったっけ、と。薫は少し可笑しくなって、笑った。
「だから剣心、あなたはちっとも変わっていない。あなたは・・・・・・以前わたしに夢を語ってくれたときの、あなたのままよ」
息を飲んで薫の紡ぐ言葉に聴き入っていた剣心は、やがて泣きそうに顔を歪め―――ことり、と。首を薫の肩にむかって投げ出した。
「やっぱり、薫こそ変わっていない」
肩口に頭を預けたまま、剣心は腕を薫の背にまわし、再び抱きしめた。
「どうして君はそうやって・・・・・・いつも俺が一番欲しい言葉をくれるのかな」
勇気づけてくれるような、背中を押してくれるような。あるいは安心させてくれるような、穏やかにさせてくれるような。
最も求めている言葉を薫は当然のように口にして、笑顔をみせてくれる。出逢ったときから、ずっとそうだ。
「・・・・・・今に、かならず新しい時代が来る。俺たちが新時代を創るんだ」
そう、動乱の世はいつか終わりを告げる。今この国で繰り広げられている戦いは、変化を生み出すための戦いなのだから。
「新しい、時代が来たら・・・・・・」
剣心は、すっと顔を上げた。
僅かに腕の力を緩めて、薫の顔を正面から見つめる。
「新しい時代が来たら・・・・・・薫、俺と一緒になってくれないか? 俺は・・・・・・君と一緒に生きてゆきたい」
ずっとふたりで、同じ道を。ともに一生を歩みたい。
迷いのない瞳で、剣心は薫にそう告げた。
真夜中の暗闇の中で、ふたりの瞳に互いの姿がはっきりと映っている。
剣心は、薫が頷いてくれると信じて疑わなかった。これまでも彼女は、いつも自分が一番求める返事を与えてくれたのだから。
しかし―――薫は、静かに目を伏せた。
「ごめんなさい」
「え?」
薫の唇からこぼれた謝罪の言葉を、剣心はすぐに理解できなかった。
「ごめんなさい剣心、わたし、今はまだ・・・・・・あなたと一緒にはいられない」
予想もしなかった拒絶に、剣心は薫の二の腕を両手で掴んで、無意識に力をこめた。
「薫・・・・・・何を、言ってるんだ?」
「わたしね、これから・・・・・・遠いところへ帰るんだ」
剣心が、言葉を失う。無言のまま更に彼の手に力がこもったが、薫は痛みを感じなかった。だって、今、別れを告げている心のほうがよっぽど痛い。痛くて
痛くて、この身体ごとばらばらに千切れてしまいそうだ。
「でも!薫は今までも、江戸からだって来てくれたじゃないか、長州にも京都にも・・・・・・それなのに、どうして・・・・・・」
「・・・・・・ごめんね」
「やめてくれよ、そんな事で謝らないでくれ!」
つい今し方、久しぶりの薫との再会で胸が躍り、幸せな気持ちで満たされたばかりだというのに。薫の返答に、剣心は途端に奈落に突き落とされたも同
然になって、聞き分けのない子供のように取り乱す。
「俺は、薫がいたから、今まで歩いてこられたんだ。あの夜・・・・・・はじめて人を斬った夜も、薫が傍にいてくれたから耐えられたんだ!
逢えないときだっ
て、俺はいつもずっと、薫のことを・・・・・・!」
語尾が、震える。今の彼は、鬼神と畏れられる人斬りでも英雄でもなく、まるで独り暗闇に取り残されるのに怯える、無力な幼子のようだった。
「嫌だ・・・・・・ずっと、そばにいてくれ・・・・・・」
剣心の肩が、泣き出しそうに小刻みに震えだす。その肩に、薫はそっと手で触れた。
「大丈夫・・・・・・あなたは、独りじゃないから」
「・・・・・・独りだよ」
ゆっくりと剣心は、首を横に振る。
「同じ志の仲間はいても、昔のままの俺を知っているのは、もう、薫しかいないんだ。だから・・・・・・」
「聞いて、剣心。わたしはもうすぐあなたの前から消えるの。そうして・・・・・・あなたはわたしの事を、すべて忘れるの」
薫の口から紡がれた言葉を耳して、剣心の体に戦慄が奔った。
―――すべて、忘れる?
なにを、馬鹿な。
しかし、薫は―――普通の人間とは違う。
俺が幼いころから、変わらない彼女。彼女が人智を超えた存在だとしたら、あるいは人の記憶を消すこともできるというのか―――
「でもね、もうすぐあなたの前に、あなたを愛してくれるひとが現れるから・・・・・・あなたは、独りじゃなくなるわ」
薫の瞳が、わずかに潤んだ。胸の奥底から湧いてくる別離の悲しみが、あふれてしまったかのように。
「その女性は、わたしよりもずっと大人で、綺麗で、優しいひとで――― 一所懸命あなたを愛してくれる。そして、あなたも彼女を好きになるの」
「なんだよそれ・・・・・・意味がわからない・・・・・・」
剣心は、困惑したように首を振ることしかできなかった。ただ、彼女の表情と声音から、薫が本当に自分の前から消えようとしているのだと、それだけは理
解できた。そんなこと、理解などしたくもなかったが。
「だから・・・・・・さよなら、剣心」
決定的な、一言。
剣心は薫をきつく抱きしめた。
「・・・・・・嫌だ」
薫が何処へも行けないように、自分の前から消えてしまわないように、力をこめて。
「俺は・・・・・・苦しんでいるひとたちのために、新しい時代を創りたいと思った。そして・・・・・・その時代で薫と一緒に生きていきたいと、ずっとそう思っていた
んだ・・・・・・なのに、薫がいなければ、そんな時代が来たって、俺は・・・・・・」
「ねぇ、聞いて、剣心。わたしは一度あなたの前から消えるけれど、これでお別れではないの。この先の未来・・・・・・新しい時代になったら、わたしたちは
また逢えるわ。約束する」
きつく抱きしめられながら、薫は腕を動かした。指を伸ばして、両の手のひらで剣心の頬を挟み込む。
「さよならするのは、ひとときの間だから。新しい時代になれば―――あなたは必ず、わたしに逢えるから」
薫の顔が近づいて、剣心は反射的に目を閉じる。重なる唇の上で、薫は「大丈夫」と呼吸で紡ぐように囁いた。
「あなたは、もうすぐわたしを忘れるから。だから、あなたが寂しいと感じるのはほんの一瞬のことだから―――」
それは、薫にしてみれば剣心を悲しませたくないが為に口にしたことだった。実際に、薫が消えたら直ぐに、彼の中から薫の記憶は跡形もなく消えてしま
うのだから。記憶が消えれば、別離の悲しみも寂しさも一緒に消えてしまうのだから。
しかし、その言葉に反発するかのように―――
剣心の胸に、身体の奥から突き上げられるような、ただひとつの感情が沸き起こった。
嫌だ、忘れたくない。
忘れるなんて―――忘れてしまうなんて、そんな馬鹿な!
「俺は―――忘れない、忘れるもんか」
薫は、思いつめたような剣心の声に、はっとして顔を上げる。
「たとえ忘れてしまったとしても、俺が、薫を好きだという気持ちは消えたりしない!絶対に・・・・・・消えやしないんだ!この、気持ちだけは―――!」
もう一度、重なる唇。
薫は驚いたように目を見開いて―――すぐに、閉じる。
剣心は彼女を必死に繋ぎとめるかのように、強く薫をかき抱く。けれど―――その腕から、彼女の感触が消え始めた。
まるで、手のひらで受けとめた雪のひとひらが、溶けてなくなってしまうように。
目を、開けられなかった。薫が消えてしまうところなんて、見たくはなかった。
「ずっと、消えない・・・・・・ずっと、君が・・・・・・好きだ・・・・・・」
叫びは次第に絞り出すような悲痛な声に変わる。
それとともに、腕の中の薫のぬくもりが幻のように薄れてゆく。
「・・・・・・わたしも、ずっと・・・・・・」
愛しいひとの気配が消え行くなか、剣心は最後に、彼女の声を聞いた。
「あなたが・・・・・・好き」
★
目を、開ける。
気がつくと剣心は、道の真ん中に独り立ち尽くしていた。
街全体が眠りの気配に包まれる時刻、あたりは水をうったように静かだ。
―――ああ、帰らなくては、と。剣心は思った。
今晩は仲間の警護のみで、もう役目は終わった。暗殺の仕事も無い。早く帰って寝床について―――
ふと剣心は、首筋に流れた雫を感じて、おや、と首を傾げる。
そして、その雫の出どころが自分の両の目であることに気づく。
瞳から流れ落ちる涙。
どうして? 俺は、何故泣いて―――
その時、頭の中で声が蘇った。
『・・・・・・泣いて、いいのよ』
それは、聞いたことのない、知らない女性の声。
『どうしても、泣きたいときには泣いてもいいの。今泣いておかなきゃ、きっと後から、もっともっと辛くなるわ。あなたが泣いたこと、誰にも言わないから、秘
密にしておくから、だから・・・・・・』
誰が言った言葉かわからない。
しかし途端に剣心の胸を、いや身体全体を押しつぶしてしまう程の、悲しみの感情が襲った。
悲しすぎて、胸が、心が、総てが痛い。
それは喪失の痛みだった。
大切なものを失った痛み。自分の半身を、引きちぎられて奪われた痛み。
何故、悲しいのかわからなかった。
何故、急にこんな感情が溢れたのかわからなかったが――――
「う・・・・・・あぁあああああああああああっ!」
胸を突き破ってしまいそうな痛みと苦しみに、堪えきれず剣心は吼えた。
空を仰ぐように首をのけぞらせて叫んだ声は、冷たい夜の空気を引き裂いて長く尾を引いた。しかし、やがてその声は闇に吸い込まれて消えて、元のとお
りの静寂が戻る。
幾度か大きく肩で息をしてから、剣心は頬を伝う涙をぬぐった。
たった今爆発させた、斬り裂かれるような悲しみの感情は、跡形もなく消えていた。
先程の女性の声がなんと言っていたのかも、どんなに優しい声だったのかも、もう思い出せない。
何を失ったのか、わからないまま。
いや、そもそも失ったことにすら気がつかないまま、剣心は歩き出す。
「・・・・・・新しい、時代になれば・・・・・・」
独り、真夜中の道を歩きながら、剣心は半ば無意識に呟いた。
それは、かねてから同志たちとともに渇望しているもの。
しかし、どうしてだろう。
今まで以上に、強く、狂おしく―――
早く、その時代を迎えなくては、と。剣心は理由もわからぬまま、苦しいくらいにそう思った。
その、新しい時代で―――誰かが、俺のことを待っている。
新しい時代になったらきっと―――俺は、そのひとに逢える。
何故かはわからないけれど、そんな気がしてならなかった。
★
「おかえり」
過去に遡ったときと同様に、薫は一瞬自分が何処でどうしているのかわからずに、直ぐにその声に反応できなかった。
まず、ごく近いところから認識しはじめる。肌に感じる、自分のとは違う着物の感触。包み込むように抱かれている、優しい腕の力。耳をくすぐった、よく知
った色の声。真夜中ではなく、夕方の橙色のひかりに、まだ暑さの残る風に風鈴がひとつ鳴った音。
「おかえり、薫殿」
ゆっくりと薫は、うつむいていた顔を起こした。
そこは、過去に遡る前に薫がいた場所。自分の生まれ育った家と、大好きなひとの腕の中。
「・・・・・・薫殿?」
自分の顔を見てはいるものの、ぼんやりと反応を示さない薫に、剣心は心配そうに繰り返し呼びかける。
「薫殿・・・・・・薫? 大丈夫でござるか?」
ふるり、と。薫の唇が震えた。
ゆらりと腕を持ち上げ、その両手でそっと剣心の頬に触れる。
「けん、しん」
「うん」
「わたし、帰ってきたのね」
「うん」
薫の顔がくしゃりと歪む。
剣心は、彼女が泣くのかと思った。
しかし薫は目に涙を浮かべながらも―――剣心に笑顔を見せた。
「ただいま、剣心」
そう言って、再び剣心の胸に顔をうずめる。
「ああ、おかえりなさい」
腕の中に還ってきた愛しいひとの体温を確かめるかのように、剣心はしっかりと薫を抱きこんだ。もう何処にも消えてしまわないように、しっかりと。
「わたし、どのくらい消えていたの?」
「五分かそこらか。今回もあっという間だったでござるよ」
「おなじ場所にもどして、って、たのまれたの」
その声を聞いて薫が顔を起こすと、襖の陰に、やはり先程と同じように神様の姿があった。剣心が腕を緩め、薫は神様に手招きをする。とことこと歩み寄っ
てきた神様に向かって薫は腕をのばし―――神様と剣心と、ふたりの首を両腕で抱えるようにして、ぎゅうっと抱いた。
「・・・・・・ありがとう・・・・・・」
様々な想いをこめて、薫は感謝の言葉を口にする。
剣心がぽんぽんと優しく薫の背中を叩く。それに倣って、神様も小さな手で同じようにする。
ふたつの優しい感触に、薫はくすぐったそうに目を細めた。
最終話 「初恋」へ 続く。