20  七日目










        朝の光が満ちる気配に目を覚ました薫は、自分がすっぽり剣心の腕の中におさまっていることに気づく。
        寝起きのぼんやりした思考のまま、しばらくそのままの姿勢で彼の寝顔を眺めていたが、やがて意識もはっきりしてくる。
        このまま腕からすり抜けたら剣心も起こしてしまうかしら、と考えていたら、彼のまぶたがぴくりと動いた。


        「おはよう・・・・・・」
        「おはよう、剣心」
        「・・・・・・大丈夫?」
        「え?」
        起きるなり突然何がだろう、と目をぱちぱちさせていると、剣心の顔が近づいたので瞳を閉じた。

        「・・・・・・大丈夫って、何が?」
        「今日が、最後の日でござろう」
        目蓋に唇を寄せながら喋るのがくすぐったい。薫は軽く身を捩り、絡みつく剣心の腕をほどく。
        「うん、今日で最後ね」
        薫ははっきりした声でそう言うと、剣心の額にひとつ口づけてから、布団を抜け出した。うーんと大きくのびをして、彼に背を向けて夜着を脱ぐ。身支度を整
        え始めた薫の背中を、剣心は横になったまま眺めていた。




        「今日も、いい天気みたいねー」




        そう言った薫の声音も、とても晴れやかな響きだった。







        ★







        その後、ふたりは朝食の準備をして、神様と老紳士と四人で膳を囲んだ。
        陽がのぼるにつれて、今日もじりじりと気温が上昇する。薫は道着に着替え、神様をともなって出稽古に出かけた。剣心は警察署に呼ばれ、老紳士は社
        の具合を見に行き、ごく普通に日常の時間が流れていった。

        夕方、ようやく暑さもやわらぐ頃、先に帰宅した薫が剣心を迎えて逆刃刀を受け取る。おかえりなさいと笑う顔はいつもどおりの明るい笑顔で、昨日垣間見
        せた悲しさは、そこからは微塵も感じられない。



        「・・・・・・その、薫殿」
        「はい?」
        「今日は、向こうには・・・・・・まだ?」
        「うん、まだなの。なんだか神様に焦らされちゃって」
        薫は半分開いた襖の陰からこちらを見ている神様に対して、うーんと唸って眉をひそめてみせる。その大袈裟な仕草に神様がきゃらきゃらと笑い、剣心も
        肩の力をふっと抜いて、漸くという感じで口許を緩ませた。
        「よかった」
        「え、よくなーい! ひょっとしたらこのまま何もないまま明日になっちゃうんじゃないかって・・・・・・」
        「そうじゃなくて、薫殿が元気そうで、よかった」

        え、と薫は、唇をまるい形にして呟いた。
        必死に隠そうとはしていたが、彼女が昨日、悲しい気持ちをこらえて笑っていたことに気づかない剣心ではなかった。


        「昨日は・・・・・・いつの頃の拙者に会ってきたのでござるか?」
        不意打ちの質問に、薫はぴくりと肩を震わせ―――僅かな逡巡ののち、唇を動かした。
        「はじめて・・・・・・人を斬った、その後だった」
        うつむきがちに、小さな声で薫は答える。剣心は数度瞬きをしたのち、「成程」というふうに頷いた。

        昨日、辛そうに歪む表情を必死に隠して、笑顔を保とうとしていた薫。
        彼女のことだ、生まれてはじめて人を斬ったことに取り乱す俺を、必死に落ち着かせようとしてくれたに違いない。
        苦しい思いを共有して―――まるで自分のことのように、胸を痛めてくれたのだろう。


        「ありがとう、一緒にいてくれて・・・・・・嫌な場面に、付き合わせてしまったでござるな」
        薫はふるふると首を横に振る。確かに、思いがけない局面に居合わせることとなったが、むしろ今では「遡ったのがあの瞬間でよかった」と思っている。は
        じめて人の命を奪ったことに動揺する剣心の、傍についていてあげることができたのだから。
        それに、神様はひょっとして、そのためにわたしをあの瞬間へと送りこんだのでは―――とも薫は考えていた。最終的に記憶は消えてしまうとしても、あの
        夜、壊れそうに軋んでいた剣心の心を守るために。


        「・・・・・・でも、辛いのは、それだけが理由ではないのでござろう?」
        そう、辛いのは、別れが迫っていることもあるだろう。せっかく心を通わせた過去の剣心と、薫は今日を限りに会えなくなるのだから。

        勿論、この明治の時代に、薫の良人である剣心はちゃんと居る。これからも未来へ続く同じ道を、ずっと一緒に歩んで、ともに生きてゆく。
        ―――けれど、そうは判っていても、これは理屈で片付けられる話ではないだろう。


        「・・・・・・わたし、ようやく良かったって思えてきたの」
        ぽつり、と。薫が小さく漏らした。
        「剣心の記憶が消えるってことが―――よかったな、って」
        「・・・・・・え?」

        薫はぺたんと畳の上に腰を下ろし、意外な発言に驚く剣心をじっと見上げた。
        「あのね、剣心。わたし・・・・・・過去のあなたも、わたしのことを好きになってくれたことは―――もちろん、最高に嬉しいの」
        今の彼より僅かに幼顔の面影を追うように、薫はそっと目を閉じた。
        「でも、あの剣心がわたしのことを忘れてしまうなら・・・・・・それなら、わたしが彼の前から姿を消した後、彼は悲しまなくて済むってことでしょう?」

        剣心は幕末に遡った際目にした、過去の自分の様子を思い返す。十代の自分は、清々しいくらいにまっすぐ、薫への好意をあらわにしていた。
        その彼女ともう二度と会えないと知ったら―――どれだけ衝撃を受けることだろう。どれだけ嘆くことだろうか。
        けれど、彼女と過ごした記憶を失ってしまえば、嘆き悲しむ理由も無くなる。
        だから―――薫は「よかった」と言ったのだ。



        ふっと近づく気配に目を開けると、すぐ近くに剣心の顔があった。膝をついた剣心は、腕をのばして薫の頭を抱きこむ。
        別れの悲しさを味わうのは、自分ひとりで充分だと―――そう考えているであろう彼女のいじらしさに、胸が苦しくなった。
        「記憶が消えても・・・・・・薫殿は、確かにあの時代にいた。それは、紛れもない事実でござるよ」
        「・・・・・・そう、なるのかなぁ」

        ―――でも、わたしが過去に遡ったことは事実だけれど、そこで対話をして心を通わせた相手がそれを忘れてしまっては、もうそれは「事実」とは呼べない
        のではないだろうか。と、薫は思う。
        過去の剣心に、わたしの記憶は残らない。わたしがあの時代に束の間でも存在したという証拠も、何ひとつ残らない。
        残らないのでは、それは存在しなかった事と同じではないだろうか、と。


        それでも、短い間でも、彼の傍に居られたことは僥倖だったと思える。
        幼い剣心が泣いているときに、一緒にいてあげることができた。比古との決別に罪悪感を抱いていた彼を、励ますことができた。
        はじめて人を殺めた夜、自分の歩む道の険しさを知った彼を、抱きしめることができた。

        忘れられても、記憶には残らなくても―――剣心が独りで不安だった瞬間、泣きたかった瞬間に、傍にいて寄り添うことができて、よかった。
        「孤独だった頃の剣心を、支えたかった」と、わたしはずっと思っていたのだから。



        それに、昨夜剣心は、わたしと過ごした時間を「覚えていたかった」と言ってくれた。
        それだけで―――もう、充分すぎるほどだ。



        「剣心、言ってくれたわよね? どの時代にわたしと出逢ったとしても、わたしのことを好きになっただろう、って」
        剣心の胸に頭を預けた薫は、彼の着物の端をきゅっと握った。
        「わたしも・・・・・あなたと同じよ」

        剣心は、ふと視線を感じて顔をあげた。襖の陰から、神様がこちらを見つめている。
        黒い瞳が濡れたようにきらりと煌めき、剣心は、ああこれから薫は「向こう」に行くのだなと理解した。



        「わたしもきっと、どの時代のあなたに逢っても、間違いなく・・・・・・恋をするんだわ」



        これが、最後だ。
        過去へと遡る、これが最後の機会。



        「さよならを、言ってくるね」



        剣心は目を閉じる。
        抱きしめた腕にはまだ、愛しいひとが居る感覚。



        「・・・・・・行っておいで」



        送り出すその一言が、きっかけになった。
        ふっ、と。
        それまで触れていたぬくもりが―――消える。





        目を開けると、腕の中はからっぽだった。








        ★








        「薫!」




        一瞬、薫は自分が何処にいるのか認識できなかった。




        振り向いて名前を呼ばれた方を見やると剣心の姿。ただし、幕末の彼だ。
        ああ、遡ったんだわと思うより早く、駆け寄ってきた剣心にぶつかるようにして抱きしめられた。
        ぎゅうっと彼の腕に閉じこめられながら、薫はこちらの時間が夕方ではなく夜中だということに気づく。
        しんと静まりかえる闇の中。前回と同じく、寝静まる京都の街中にいた。


        「久しぶり・・・・・・会いたかった」
        薫にとって彼との逢瀬は昨日の出来事だが、こちらの剣心にしてみると「久しぶり」と言うくらいに時が経っているらしい。薫は前回の別れ際、また会える
        かと不安そうに問うた剣心の顔を思い出して、彼の心情が伝染したかのように切なくなった。痛いくらいに抱きしめる腕の強さからも、彼の気持ちが伝わっ
        てくる。

        ふたりはしばらく、互いの体温を確かめるかのようにぴったりと身体を重ね合っていたが―――やがて剣心は「顔を見せて」と言いながら、くっつけていた
        頬をそっと離した。そして、薫は改めて正面から彼を見て、はっと息を飲む。
        「剣、心・・・・・・」
        先程は、ろくに顔も見ないまま捕まえられるように抱きしめられたから気がつかなかった。




        剣心の左頬には、こめかみの下あたりから顎の近くにまで走る、一筋の傷があった。
        夜目にもはっきりとわかる、それはまだ新しい傷痕。




        「ああ・・・・・・これ? 大丈夫、ちょっと撫でただけの傷だから」
        剣心はまじまじと頬に注がれる薫の視線に気づいて、さらりと答えた。
        「もう塞がっているよ・・・・・・痛くもないし」


        薫は彼の言葉に頷きながらも、時が流れていることを感じずにはいられなかった。








        剣心は、清里明良を斬ったのだ。

















        21 「最後の逢瀬」に 続く。