19  月見酒










        月が綺麗な晩だった。
        神様の従者である老紳士は彼女を寝かしつけた後、縁側に座ってぼんやりと夜空を眺めていた。

        扉が壊れてこちら側に来てから、まもなく一週間。修理は予定通り進んでいるようなので、もうすぐもとの「居場所」に戻れるだろう。
        このような事態で神様がこちら側に出てきてしまう事はこれまでも幾度かあったが、今回のように特定の人間のもとで過ごすのは初めてだった。そう考え
        ると珍しい事例であったことだ―――と、彼はこの数日間を思い返す。



        「月見でござるか?」
        降ってきた声に頭上をふり仰ぐと、そこには寝間着姿の剣心が立っていた。
        「よければ、少しつき合ってほしいのだが・・・・・・」
        彼の手には酒瓶と、ふたりぶんの猪口があった。
        「奥様は?」
        「薫殿は風呂でござるよ」
        そう言う剣心も湯上りらしく、長い赤毛は無造作におろしたままである。老紳士の隣に腰をおろすと、剣心は彼の手に猪口を持たせてとくとくと透明な液体
        を注いだ。

        「酒、でございますか」
        「飲んだことは?」
        「何度かありますが・・・・・・久しぶりですな」

        ご相伴にあずかります、と言って、老紳士は手元の猪口に口をつける。するりと喉を滑った冷たい液体が、身体の内側に落ちてじんわり染み込んでゆく熱
        に変わり、存在を主張する。
        「旨いでござるか?」
        「旨いですが・・・・・・どちらかというと、面白いものですなぁ」
        「拙者たちにとっては、貴方がたこそ面白く思えるでござるよ」
        剣心はそう言って笑うと、自分も手酌で飲み始めた。


        「従者殿と神様は、今回のような事がある度に『こちら側』に出てくるのでござるか?」
        「そう度々ではありませんよ。この前は、確か・・・・・・五十年ほど前のことでした」
        「それは・・・・・・確かに度々ではござらんな」
        「神様はこちら側が好きでいらっしゃいますからなぁ。たまにこういう事態が起きるのを、むしろ楽しみにしていらっしゃるのですよ。まったく、悪戯がお好き
        で困ったものです」
        神様と、この従者殿は幾つなのだろう。剣心はそう思ったが、尋ねるのはやめておいた。きっと彼らは人間とは違う理の中の時間を生きているのだ。

        「あなたがた御夫妻には迷惑をおかけしました。神様は、特に奥様を気に入られてしまったようで・・・・・・最初にお会いしたときから優しくしていただいて、
        それが嬉しかったようです」
        老紳士の言葉に、剣心は口許をゆるめた。
        「・・・・・・そう、優しいんでござるよ。薫殿は」
        くいっと一息に猪口の中身を飲み干して、剣心は続けた。
        「優しくて、朗らかで明るくて、誰からも好かれて―――どんどん綺麗になってゆく。拙者には勿体ないくらいの妻でござるよ」
        空になった猪口を弄びながら、剣心は夜空を見上げた。ほどいた赤毛が、ぱさり、と背中を滑る。



        「だから―――どの時代にどんな形で出逢っても、拙者は薫殿を好きにならずにはいられないんでござるよ」



        老紳士は何も言わなかった。そのかわり、剣心の手からすっと猪口をとりあげ、酒瓶を傾ける。彼から注がれた一杯を、剣心はかたじけないと受け取っ
        た。少しの間剣心は無言で、ゆらゆらと酒の中に浮かぶ輪郭の落ち着かない月明かりを見つめていたが、しばらくして、口を開く。

        「従者殿」
        「なんでしょう」
        「過去の拙者が薫殿に会って、そのまま記憶を残しておくと『歴史が変わる』ということの理由は―――よく、わかるでござるよ」
        薫は「それくらいで歴史が変わるなんて」と憤慨していたが、剣心は理解できた。何故なら、それは剣心自身の心についての事だから。
        「実際に、過去に遡って自分自身を見て、確信したでござるよ。あの時代の拙者は、確実に薫殿を、好きになっている」


        薫に恋をした、少年の自分。
        このままだと彼は、薫が自分の傍から消えても、彼女のことを想い続けるだろう。しかし―――
        「正しい時の流れからすると、拙者はその後・・・・・・巴に出会うからな」

        幕末、人斬りと呼ばれるようになった剣心は巴に出会った。巴が剣心に近づいたのは復讐のためだったが、やがて、互いに恋をした。
        「けれど、薫殿を慕うままの拙者が、巴に出会ったとしたら―――」


        剣心は、ひと息に酒を飲み干した。
        すでに心に愛しい人がいる自分が、巴に出会ったとしたら、どうなっていただろう。

        ひとの感情は、単純に二者択一で選べるものでも量れるものではない。
        しかし剣心は、自分が一度にふたりの女性を想えるような器用さを持ちあわせていないことは承知していた。
        薫への想いを抱いたまま、巴と出会っていたら。その場合、あるべき歴史の流れと同じに、巴を愛せただろうか―――



        「・・・・・・だから、記憶を消さなくてはならないのでござろう?」



        神様が戻るのと同時に、過去の剣心の中から薫についての記憶は消える。
        愛しい女性の記憶が、すべて消えてなくなるのだ。
        そうすれば―――歴史は正しく流れる。

        剣心は巴と結ばれて、それが故に彼女の復讐は意味を為さなくなり破綻する。
        そして巴は剣心を救けるため、彼の刃の前に身を投げ出し―――

        それに続く復讐。恨みと憎しみを糧に生き延びた雪代縁。武器商人の彼にまつわる様々な事件。
        もとをただすと剣心と巴が出会い、互いを好きになってしまったことから始まった、これらの歴史。
        歴史を正しく進めるためには、あの時代の剣心の心の中に、薫がいてはいけないのだ。



        「・・・・・・そういうことでござろう?」
        老紳士は表情を動かさずに虚空に視線を漂わせていたが、たっぷり間をおいて、ゆっくり口を開く。

        「私が決めた訳ではございませんよ。これは、時の流れそのものが判断する事です。なので、細かい事情については私の口からはなんとも言えません」
        「狡いでござるな」
        「申し訳ありません」
        「本当は、わかっているだろうに」
        老紳士からの返事はなかったが、それは殆ど肯定を意味しており、剣心は苦笑する。


        「・・・・・・覚えていたかったな」
        ぼそり、と。
        老紳士に語りかけるわけでもなく、ひとりごちるように、剣心は言った。

        昨日、薫とともに過去に遡り目にした、少年の日の自分の姿。
        あまりに未熟で青くさいその言動を目の当たりにして、恥ずかしさのあまり死にそうになったが―――でも、あの時耳にした薫の言葉は、どれも自分にとっ
        て嬉しいものばかりだった。


        師匠と喧嘩別れをして、奇兵隊に入ろうとしてひとり長州へと向かったあの頃。
        大義に燃えてはいたが、誰一人知る辺もいないはじめての土地で、心細かったのも事実だった。
        そんな自分を、励ましてくれていた薫。師匠の恩を裏切った悔恨に救いをくれて、新しい道を歩もうとする俺の為に祈ってくれて―――きっと彼女は過去に
        遡る度に、あんなふうにその時代の俺が一番欲しかった言葉を、当然のように与えてくれたのだろう。

        薫がくれた言葉や微笑みは、過去の俺の支えになったに違いない。
        彼女自身が思っているよりも遥かに強く―――薫は、あの頃の俺にとっての「希望」そのものだった筈だ。


        けれど、今の俺にはその記憶がない。
        過去で、この目は確かに薫の笑顔を見ていた筈なのに。この耳は、薫の言葉を聞いていたのに。
        きっと―――この指は彼女に触れただろうに。


        「わかっているでござるよ、記憶を残していたら歴史は変わってしまう。だから、忘れてしまうのが正しいことだと―――理解は、しているでござる。でも」
        理屈ではわかっている。ちゃんと納得もしているし、ましてや歴史を変えたいわけでもない。
        自分は巴に出会って恋をして、心から彼女を愛した。その事実を否定するつもりは毛頭ないし、巴と生きた時間があったからこそ、今の自分が形成された
        とも思っている。その後自分が辿った道程も、歩むべき道を歩んできたと思っている。
        けれども、そう判ってはいても、理屈ではなく―――



        「覚えて、いたかったな・・・・・・」



        珍しく、僅かの酒で酔ったような、ぼんやりとした瞳で剣心は呟いた。
        それは、我侭とも呼べる―――けれど、ごく純粋な欲求。
        ただ、好きなひとと過ごした記憶を失いたくない。それが素直な気持ちだった。





        夏の夜にしてはいやに涼しい風が縁側に吹きこみ、風鈴を揺らした。






        ★






        縁側のある奥の間で、細い影が、動いた。


        寄りかかっていた自分の体重を支えきれなくなったかのように、壁にもたれた背中をずるずると滑らせて、床にがくりと腰を落とす。
        風呂からあがった薫は、廊下を通りかかった際に聞こえてきたふたりの会話を、そのまますべて聞いてしまった。

        呆然と見開かれた目にやがてふわりと涙があふれ、頬を伝う流れになって、胸に雫を落とす。
        どうして泣けてくるのか、自分でもわからなかった。でも、正体の知れぬ涙が後から後から湧き出して、止める術を知らない。
        胸の奥からこみ上げる震えに嗚咽が漏れそうになったが、薫は自身で口を塞いでこらえた。苦しくて、目を閉じる。



        どうしてか―――この涙を彼らに見せたくない、と。
        わからないままに薫は、それだけを強く思った。






        月が冴えざえと庭を照らす。
        誰も次の言葉を発さないまま、無遠慮な風鈴の音が藍色の空を割って響いた。














        20 「七日目」に 続く。