18  近づく別離










        「このまま・・・・・・朝まで、一緒にいてくれる?」




        抱きしめられながらそう言われて、薫は顔をあげた。
        「あ、ええと・・・・・・変な意味じゃなくて・・・・・・その、何もしないから、だから・・・・・・」
        つっかえつっかえ言い訳をする剣心に、薫はくすりと笑って「うん、一緒にいる」と答えた。もう一度頭を倒して彼の胸に頬をすりよせると、剣心は心の底か
        ら安堵したように深いため息をついて、薫の身体をぎゅうっと抱きしめる。
        何かしてもいいのにな、と。薫は頭の隅で思ったが、いやそれは「浮気」になるのかしら、とすぐにその考えを打ち消す。どちらも同じ剣心なのだから浮気と
        は違うのかもしれないが、そういう理屈ではなく―――彼らが同じ人物だからといっても、それは明治の剣心に対して不誠実に思えた。

        退避所である店には仮眠用の布団も用意されていたが、数は一組だけなのでふたり寄り添うように並んで横になる。剣心にもう一度「何もしないから」と
        念を押すように言われて、薫は「うん、信用してる」と微笑んだ。


        「・・・・・・こうしていると、安心するな」
        ひとつの布団にくるまって、薫のぬくもりを感じながら、剣心は囁くような小さな声でそう言った。
        「ちゃんと、眠れそう?」
        「どうかな・・・・・・わからないよ」
        「子守歌、歌う?」
        薫の申し出を、剣心は笑って「赤ん坊じゃないんだから」と遠慮した。

        はじめて、人を斬った直後である。気が昂って眠れなくても無理もないことだった。
        けれど、すぐ傍に感じる着物越しの体温と優しい香りは、限界まで研ぎ澄ましていた神経を柔らかく解きほぐしたようだ。目蓋を閉じた剣心の唇からはじき
        に規則的な寝息がこぼれはじめ、薫はほっとして目を細める。




        寝顔が、少し違うな、と思った。
        それは当然のことなのだが、薫が普段目にしている明治の剣心の寝顔より、今眺めている彼のそれは幾分幼い。
        それに、なんだろう、危うい感じがする。
        眠っているというのに、眉には思いつめたように力がこもり、僅かにひそめるような形をとっており―――どこか、苦しげだ。

        無理を、しているのだろう。
        自分の進む道について、改めて覚悟を決めた剣心。その思いは心からのものだろうけれど、それはあまりにも重く厳しい決意だ。
        自分の覚悟に、自分で押し潰されかねない程に。

        実際、いつか剣心が語ってくれた過去の彼―――巴と出会う直前の彼は、あまりに沢山の死を経験して、心が壊れる寸前で―――
        剣心の寝顔からは、彼の悲壮すぎる決意が透けて見えるようで、薫の胸は鋭く痛んだ。


        そばに、いてあげたいと思った。
        この時代で、自分に何ができるのかはわからない。けれど、この剣心の心の支えにはなれる筈だ。
        彼はこれから、今夜のような苦しみを何度も経験する。新しい時代のためと心を決めてはいても、辛くないわけはないのだ。この優しい少年が、人の命を
        奪って平気でいられるわけはないのだ。
        けれど、彼の周囲にその苦悩を判ってくれる者はどれくらい居るというのだろう。志を同じくする仲間はいても、大義のため人斬りとなった少年の苦衷を理
        解している者は少なかった筈だ。そういう意味では、剣心は巴に会えるまで、孤独のまま過ごさなくてはならなかった。


        支えて、あげたい。傍にいたい。
        明治の彼にも語ったことがあるが、それは以前から思っていたことだ。
        今夜の、この剣心の姿を目にして―――その想いは切実なものとなった。

        そばにいて、少しでも彼の孤独を癒したい。苦しいとき、今夜のように寄り添って、抱きしめてあげたい。
        けれど、きっとここにはそう長くはいられない。今に神様が、わたしをもとの時代へと、明治へと戻すだろう。



        身体がふたつあればいいのに。そうしたら、両方の時代に居ることができるのに―――





        薫は、せめて夜があけるまで自分の身が此処にとどまれるよう祈った。
        彼の目が覚めたとき、隣に居ることができるよう、神様の顔を思い浮かべながらただそれだけを願った。








        ★







        一昨日、遡ったときは、剣心と竹刀で手合わせをしたあと眠ってしまった。あの時は目が覚めたら明治に戻っていたので、それを恐れた薫は眠らずに朝が
        来るのを待った。もともと、幕末に遡る前は昼日中だったから眠いわけでもなかったし―――眠るような気分にもなれなかった。

        じきに空が白みはじめ、閉じた戸の隙間からうっすらと光が差し込んでくる。
        もうすぐ、夜が明ける。薫が心の中でそう呟いたのを感じ取ったかのように、隣で眠っていた剣心が身じろぎをした。



        目蓋が震え、ゆっくりと開かれる。
        剣心は少しの間ぼんやりとすぐ近くにある薫の顔を眺めていたが、やがて掠れた声で「・・・・・・よかった」と言って深く息をついた。

        「何が、よかったの・・・・・・?」
        おはようを言うより先に安堵のため息をついた剣心に、薫は小さく首を傾げる。
        「目が覚めて、薫が消えていたらどうしようかと思っていたから、よかった」
        それは、薫自身も懸念していたことである。「手合わせをしたときは、勝手に帰っちゃってごめんなさい」と薫は謝ったが、それに対し、剣心はゆっくりと首を
        横に振る。
        「あの時みたいにじゃなくて・・・・・・おとぎ話、みたいに」
        「え?」
        「おとぎ話の雪女や鶴女房は、秘密を知られると、姿を消してしまっただろう? あんなふうに、薫も消えてしまうんじゃないかと思って・・・・・・俺の、前から」


        剣心は、薫は少女の姿のまま、時を止めてしまった存在だと信じている。
        剣心はそんな薫を気味悪がるわけでもなく、ただ、彼女がこれきり自分の前から去ってしまうのではないかと、その事だけを心配していた。
        横になったまま、薫を見つめる剣心の目はとても悲しげで―――薫は僅かに身を起こして、彼の髪をそっと撫でた。

        「おとぎ話に出てくるひとなら、こんなふうに触れたりすることも出来ないでしょう? わたしは・・・・・ちゃんと此処にいるわよ」
        その言葉を聞いて、氷が融けるように、剣心のこわばった顔が笑顔に変わる。
        しかし、反対に薫の胸はきりきりと痛んだ。



        それは、限りなく嘘に近い答えだ。
        おそらく、薫がこうして過去の剣心に逢えるのは、あと一回を残すのみなのだから。

        明日になったら、神様は扉の向こうへと帰ってしまう。
        そうすればもう、過去に遡る事は出来なくなるし―――過去の剣心の記憶から、薫の存在は消えてしまう。



        剣心は、身体を起こして手を伸ばした。それに引き寄せられるように、薫は彼のとなりに膝をつく。
        「俺、そろそろ行くよ。夜が明けきる前に、戻らなくちゃ」
        「わたしも・・・・・・もう行くわ。また、会いに来るわね」
        寂しさを押し殺して、薫は微笑む。その内側に彼女が隠した本心には気づかずに、剣心は薫の頬に触れた。

        彼の手をより感じたくて、薫は目を閉じる。
        頬をつつむ、あたたかい大きな手。それは薫のよく知る剣心の手とまったく同じ感触だった。
        ずっと、守ってきてくれた―――大好きな彼の手。


        ふわりと、彼の息を感じたと思うと、唇が重ねられたのがわかった。
        やわらかさとぬくもりを、確かめるように。ぎこちなく、ゆっくりと、剣心は唇を押しあてる。

        時が止まったような、静かな、長い口づけ。
        互いに、いつまでもこうして触れあっていたいと思ったが、そんな事が許される筈もなく。やがてどちらからともなく、離れた。



        「・・・・・・またね、剣心」
        内心を気取られないように、薫はせいいっぱい明るい笑顔をつくった。
        「うん、また」
        数刻前の取り乱し様からすっかり落ち着きを取り戻した剣心が、穏やかな顔で答える。
        背中に彼の視線を感じながら、薫は引き戸にむかった。


        群青色に冴えた空気が部屋に流れこむ。
        戸を閉める瞬間、薫は一度振り返った。まだ幼い色の残る剣心の瞳が、まっすぐに薫を捉えている。




        薫は笑みを崩さないよう努力しながら―――払暁の中へと足を踏み出した。








        ★








        からり、からからと。薪が地に落ちて転がる音。





        「・・・・・・薫?」


        何かに躓きでもしたのかと思い、剣心は音のしたほうへ小走りに向かった。



        「薫殿?」
        庭の裏手で、立ち尽くす薫。足元には薪が転がっている。
        「どうしたのでござるか? 気分でも悪いので・・・・・・」
        問いは中途半端に途切れた。振り返った、薫の顔を目にしたからだ。

        ほんの一瞬前、薫は口づけに頬を染めて幸せそうに笑っていたのに。今の彼女はまるで正反対の顔をしていた。
        ぎりぎりまで膨らんだ悲しみが、噴き出さないように耐えているような。そんな痛々しい表情に、剣心は言葉を最後まで紡げなかった。
        「何が・・・・・・あったのでござるか?」
        薪を運ぶと言って身を翻したのは、ほんの僅か前のことなのに。この瞬間に、いったい何が―――



        「あちらに行って、そして帰っていらしたようですね」



        剣心が振り向くと、そこには老紳士が立っていた。
        「今回、奥様がこの時代から姿を消していたのは、一瞬でした。しかし、奥様にしてみると向こうで数時間を過ごしてこられましたから―――少々感覚が狂
        ってしまうかもしれませんが」
        「・・・・・・あ、やだ、ほんとだわ。一瞬しか経っていないのね」
        あたりをきょろきょろと見回した薫は、陽の高さや地面に散らばった薪を確認して、首を傾げる。
        「うーん、たしかに、変な感じだわ・・・・・・向こうでは、結構な時間が過ぎていたのにね」
        かがんで足元に転がる薪を拾い集める薫に、剣心は気遣うように声をかけた。

        「薫殿」
        「なぁに?」
        「その・・・・・・大丈夫でござるか?」

        何が、と訊かれたら剣心も困るのだが―――たった今薫が見せた表情があまりに辛そうだったので、そう質問せずにはいられなかった。
        「うん、大丈夫だいじょうぶ! 今回も危険な目には遭わなかったもの。だから、そんな心配することないんだってば」
        哀しげな色を面から消して、薫はからりと笑ってみせる。
        彼女が咄嗟に隠した、笑顔の奥に押し込めた感情に気づかない剣心ではなかった。しかし、それ以上訊くことは出来なかった。



        いつも素直に、泣いて、怒って、笑う彼女が、感情を表に出さないよう無理矢理に押し殺すのには、それなりの訳があるとしか思えない。
        一瞬垣間見れた表情から察するに、きっと、哀しい訳が。





        剣心は、それを殊更に問い詰める気にはなれなかった。















        19 「月見酒」へ 続く。