7 氷の要害










        「・・・・・・あの、これって、なんだか」
        「様子が、おかしいですな」






        無人の、通りである。
        天気のよい日中だというのに、何故か一人として通行人のいない道。そこは、先程航吉をはじめとする子供たちが気勢をあげていた場所だ。
        その数分後、同じ場所に立った薫と老人は、不自然な静けさを訝しみ、足を止めた。


        「お嬢さんも、感じますか」 
        「ええ、何かあったのか・・・・・・と、言うより、誰か何かしたのかしら?」
        この静寂は、おそらく人為的なものだ。誰かが何らかの理由でこの場所から人払いをして―――いや。
        「誰か、いるみたいだわ」
        「左様、隠れておるようですな」

        薫と老人は、そこかしこに潜む人の気配に気づいていた。それも、ひとりではないようだ。
        幾人かが、薫たちから身を隠し―――こちらの様子を窺っている気配が。

        「なんだか、妙な感じがします。気をつけたほうが・・・・・・」
        言いながら薫は、一歩前に足を踏み出した。



        その足が、つるり、と滑る。



        「え?!」



        前に進もうとした身体の、バランスが崩れる。
        一瞬の浮遊感。視界が大きく動き、青い空がぱっと目の前に広がる。
        転ぶ、という感覚が、いやにゆっくりと迫ってきて、薫は青ざめた。



        あ、転ぶ。
        転んじゃう。
        ・・・・・・嫌、今は、転びたくないのに!



        長い長い一瞬のうちに薫はそう考え―――ぎゅっと固く目を閉じた。
        しかし、倒れる身体を受け止めたのは、冷たい雪の地面ではなかった。



        「大丈夫でござるか?」
        背中に、よく知っている腕の感触。おそるおそる目を開けると、自分を覗き込む剣心の顔がすぐ近くにあった。

        「けん、しんっ・・・・・・?!」
        「ああ、そこ、滑るから気をつけて・・・・・・」


        抱きかかえるように支えられながら、薫は注意深く姿勢を立て直す。風呂敷包みが手にない事に気づいて視線を足元に落としたが、薫が動くよりも早く
        剣心が拾い上げてくれた。
        「あっ、ありがとう剣心、びっくりしたぁ・・・・・・え、でも、なんでここにいるの?」
        「うん、ちょっと用がござってな」
        航吉の家に向かっていた剣心は、行く手の先に薫の後ろ姿を見つけた。背中に声をかけようとしたところで彼女が足を滑らせ転びそうになり、それを見
        て声よりも先に、咄嗟に身体が動いたのだった。

        「薫殿こそ、今日は出稽古だったのでは?」
        普段着の首元に暖かそうなショールをぐるりと巻いて、髪にはリボン。肩には竹刀袋も担いでいない。どう見ても稽古にゆく格好ではない薫に、剣心は
        首を傾げる。
        「えーっと・・・・・・それは、後で説明するから・・・・・・あ、そうそう」
        剣心の問いを微妙にはぐらかすように、薫は視線を逸らした。そしてそのまま傍らに立つ老人に、突然現れた良人を紹介する。

        「あの、紹介します。彼がわたしの主人で」
        「いやいや、御新造様には大変助けられまして」
        「おろ、これはどうもご丁寧に・・・・・・」
        「おや? どこかでお会いしたような・・・・・・」
        などと互いに会釈をしながら、剣心は薫から引きあわされた老人が、自分の探し人だったことに驚いていた。
        「荷物が大変そうだったからお手伝いしてたんだけど、お話を聞いていたら驚いちゃって。あのね、実はね・・・・・・」



        薫は、道々老人から聞いた話を手短に剣心にも説明した。
        そして剣心も、何故自分がこの場所に来たのか、その理由を解説した。
        そうして話しているうちに―――三人は、今何が起きているのかが判ってきた。



        「―――え、じゃあ剣心の話だと、航くんはお母さんを『悪者』から守ろうとしているわけ?」
        「いや、薫殿の話からすると、全然悪者などではなかったわけでござるが」
        「これはまた―――儂がもたもたしていた所為で、ややこしいことに・・・・・・」
        「ちょ、ちょっとちょっと待って! じゃあひょっとして、今わたしが転びかけたのって・・・・・・」


        薫は改めて、さっき自分が一歩踏み出した、雪の地面を見た。
        よく見ると、そこは「普通の道」ではなかった。

        ただ積もった雪が、そのままにしてある道ではない。磨き上げた硝子の板のように、つるつるの路面。
        わざと、転びやすいように。人為的に手を加えた道だ。


        「すみませーん、もう終わったかしらねぇ?」
        呆然とする薫に、のんびりとした声がかけられた。
        声のする方を見ると、道路に面した家の玄関から、そこの主婦とおぼしき女性がこちらを眺めている。
        「終わったとは、何がでござるか?」
        薫に代わって剣心が答える。主婦は「いやね、今朝から子供たちが必死になってそこの仕掛けを作っていたから」と、自宅の前の道路を指差した。
        「雪の上に、水を撒いて凍らせてね、朝早くから一所懸命やってたのよ。なんか誰だかを引っ掛けるんだって言ってたけど、危ないからしばらく家から出
        るなって言われちゃってねー。なに? そこのお姉さんを驚かせるつもりだったのかしらね?」

        剣心と老人が顔を見合わせる。子供たちがひっかけようとした対象は、まず間違いなく老人であろう。
        このつるつるの道は、航吉宅へと向かう「悪者」の行く手を阻むための罠というわけだ。

        「あー、御迷惑をおかけいたした。もう済んだでござる」
        「そう? それならこの道、直しちゃうわね。このままじゃ危ないからねぇ」
        「いや、重ねがさね申し訳ない」
        剣心が如才なく答えると、主婦はあらかじめ用意していたのか「それじゃさっそく」と、太い棒切れを手にして表に出てきた。それで氷を割るつもりなのだ
        ろう。
        「しかし、氷の道とはよく考えたものでござるなぁ」
        「まったくです、一見すると普通の道のようですから、わたしひとりだったらまんまと引っ掛かっていたかもしれませんなぁ」
        「子供ながら、侮れない戦術でござるな」
        男二人は「いやぁなかなかやるものだ」と妙に感心した顔で頷きあったが―――薫はそんな会話も耳に入らない様子で、小刻みに肩を震わせていた。


        「・・・・・・剣心」
        「おろ?」
        呼びかけられた声は、常よりずっと低かった。
        薫がこんな声を出すのは―――心の底から怒っているときだ。


        「これは、航くんが、仕掛けたものなのね?」
        「あー・・・・・・そうでござるなぁ。まぁ、これは航吉なりに御母堂を守ろうとしての」
        「・・・・・・まもる?」
        薫は、完全に据わった目を剣心に向けた。

        「冗談じゃないわっ! だからといってこれはないでしょう! もし誰かが怪我でもしたら大変じゃないのっ!」
        「とはいえ、ちゃんと隣近所のみなさんに累が及ばないよう声がけもしているのだし、そこはちゃんと気を遣って」
        「わたしはっ! 転びかけたものっ!」
        剣心は言葉に詰まる。それはまさに薫の言うとおりなので、それ以上航吉を弁護することは出来なかった。


        薫は、凍った道の更に先を、ぐっと睨みつける。
        「・・・・・・おじいさん、ご対面の前に申し訳ないんですが、がつんと叱ってもいいでしょうか?」

        薫の声音は、許可を貰うというよりはむしろ、決意表明の色を帯びていた。
        老人は可笑しそうに目を細め、迷わず二つ返事をする。
        「無論です、がつんとやってしまってください」



        剣心はやれやれと肩をすくめ、いずれにせよこのタイミングでここに駆けつけられてよかった、と考えた。
        航吉と老人の間には色々と誤解が生じているが、この場合第三者が調停に入るのは正解かもしれない。
        それに、転びかけた薫を助けることもできたし―――さて。


        剣心は、首を伸ばすようにしてつるつる道の向こうの様子を窺いながら、道路の氷を割る作業をしている主婦に声をかけた。






        「誠に申し訳ないが・・・・・・迷惑ついでにもうひとつお頼み申したい。傘を、貸して頂きたいのだが」



















        8 「雪の攻防」に続く。