5 交錯する朝









        「行ってきまーす!」





        玄関の方から声がして、剣心はおや、と首を傾げる。
        一夜明けて、またも冷え込みの強い朝。そのかわり空は青い一枚板のように澄み渡り、冬の低い太陽は白い光を柔らかく下界へと投げかけていた。


        「薫殿? もう出かけるのでござるか?」
        今日は出稽古の日だった筈。しかし、普段よりずいぶん早い時間での出発だ。
        「うん! ちょっと用もあるからもう行くー! 剣心も気をつけて行ってきてねー!」
        剣心が玄関に向かうと、既に薫は引き戸の外に出るところだった。
        「ああ、行ってらっしゃい」

        妻の背中にむかって声をかける。いやに慌ただしいな、と思いながら、剣心はもう一度首を傾げた。
        薫はいつも、出稽古には自宅から胴着を着込んで出かける。しかし、今見送った後ろ姿は、普段着のようだったが。


        ・・・・・・見間違えたのかもしれない、ちらりとしか見えなかったことだし。
        剣心はそう思い直して、自分も戸締りをして出かけなくては、と踵を返した。






      
        ★







        「申し訳ありません・・・・・・その方なら今朝早くお出かけになりまして」



        またしてもの空振りに、剣心はがくりとうなだれた。
        「もう、出立されたというわけでは・・・・・・」
        「いえ、それはございません。荷物も置いてゆかれましたし、宿代も前金しかいただいておりませんから、また戻ってこられます」
        番頭は、そこは自信を持って請け負った。

        あの老人が泊まっている宿をもう一度訪ねたものの、見事にすれ違ってしまったらしい。前もって、来訪することを言付けておけばよかっただろうか、とも
        思ったが、老人が航吉宅を探っている真意がわからないうちは、下手な接触は避けたほうがよいだろうと考えなおす。


        「とは言え、そう悪い御仁とも思えぬのだがなぁ」  
        

        宿を後にした剣心は、雪道を歩きながらひとりごちる。
        鋭い眼光を持った、あの老人。なんとなく、もとは武士だったのではないかと想像する。
        しかし、雰囲気は鋭くとも、そこまで剣呑というか、悪い空気を持っているわけではなかった。航吉は「悪者」と決めてかかっていたが、長かった旅暮らし
        のなか、本当に性質の悪い人間と何度も相対したことのある剣心から見ると―――そう悪者とは思えないのだ。あくまでも、勘ではあるが。

        しかし、老人とすれ違ったとなると、どうしようか。効率は悪いが、このあたりを虱潰しに探し回るしか手はないか―――
        そんな事を考えていると、不意に背中から声をかけられた。


        「あーいたいた剣心! 探したぜー!」
        振り向くと、冷たい空気に頬を赤くした弥彦が立っていた。 
        「おろ、おはよう弥彦。探していたとは?」
        「おはよーっす。今、道場まで行ってきたとこだったんだよ、剣心に伝言があってさ」
        「拙者に?」
        弥彦は頷いた。
        「航吉が、さっき俺のところに訪ねてきたんだよ」

        今朝方、弥彦の長屋に航吉が現れた。
        そんな事は初めてだったから、弥彦は航吉の家で何かあったのかと心配したが―――そうではなく、聞けば「剣心さんに伝言をお願いしたい」という。
        弥彦は拍子抜けしながらも、航吉の顔を見て、不審に思った。


        「たかが伝言に、いやに切羽詰った顔してたからさ。訳を問いただそうとしたらあっという間に逃げちまうし」
        航吉の逃げ足の速さを思い出したのか、弥彦は顔をしかめる。
        「だいたい、伝言なんかしなくても直接道場に行きゃいいじゃねーか。なぁ?」
        「・・・・・・直接は、言いにくいことだったのでござるかな。それに」

        剣心は、航吉の家の場所を頭に思い浮かべる。
        道場よりも、弥彦の長屋のほうがずっと彼の家に近い。何らかの理由があって、彼が急いでいたとしたら―――

        「で、弥彦。航吉は拙者になんと?」
        「いけねっ、肝心なことを」
        弥彦は、ぴしゃ、と自分の頬を軽く叩いて、言った。


        「約束破って、すみません。だってさ」


        剣心は、眉を寄せた。
        約束とは、昨日「任せます」と言ったことだろうか。
        一旦は、自分で動くことをとどまると言ってくれた航吉だったが―――

        「確かに・・・・・・それは、直接は言えぬでござろうなぁ」
        面と向かっていったものなら、そのまま剣心は航吉の首根っこを捕まえてどういう事だと問いただしただろう、とにかく。
        「かたじけない、弥彦。拙者はこれから航吉の家に行ってみる」
        仔細ありげな剣心の様子を見て、何か厄介事だろうかと弥彦は好奇心をくすぐられた。しかし「あー、俺も赤べこがなかったらついて行くのによー」と、あ
        からさまに残念そうな声をあげる。
        今日は手伝いに行く日らしい。弥彦はこういう点に関しては真面目なので、すっぽかすという事は頭に浮かばないようだ。剣心は、大仰に落胆する弥彦
        につい笑ってしまった。

        「別に、弥彦が期待しているような事件とかではござらんよ・・・・・・そうだ、今晩はうちに夕飯を食べにくるといい」
        道場まで走ってくれた礼に、と剣心が持ちかけると、しかし弥彦はぶんぶんと首を横に振る。
        「えー? いらねーよそんなの、今日の夕飯、薫のだろ? あんなもんが礼になるかよ」
        「おろ、薫殿も大分腕を上げているのだが・・・・・・いや、そもそも今日は出稽古だから拙者が作るつもりでござったが」

        薫が出稽古の日の夕飯は剣心が作るのが常だった。とくに決めたわけでもないが、それは二人で暮らしているうちに、自然に出来た流れだった。
        しかし、弥彦は剣心の言葉に首を傾げる。


        「あれ? 今日って出稽古休むんじゃなかったのか?」
        「え?」
        「俺の聞き間違いかなぁ、なんか昨日、薫がそんなこと言ってたような気がしたんだけど」
        弥彦はうーんと唸って、昨日の記憶を辿る。剣心が出かけた後、弥彦の目には、薫はどうも具合が悪そうに映った。
        だから、「明日は休む」と口にしたのだと思ったのだが―――

        「特に、身体の調子が悪い様子はなかったが・・・・・・」
        「そっか? じゃあ大したことなかったのかもな。まー俺の勘違いかもしれないから気にしないでくれよ、じゃーなっ」


        昼の仕込みの手伝いに間に合うように、と、弥彦は赤べこに向かった。
        剣心は、自分も行かなければと思いながら、今の話から薫のことが気になっていた。

        そう言われてみれば、昨夜の薫は平素よりどこかぼんやりしていたかもしれない。それが、体調が悪かった所為だとしたら、気づいてやれず申し訳ない
        ことをしてしまった―――しかし。



        それでは薫は、今朝、あんなに慌てて何処に出かけたのだろうか?



        道端に立ち止まって考えていると、足元からしんしんと雪の冷たさが伝わってくる。剣心は、ぶるりと身を震わせて、「いや、先ずは航吉の方でござるな」
        と呟いた。
        「任せる」と言った約束を反故にするということは、つまり―――自分から行動を起こすということだろう。


        場合によっては、止めなくてはならない。
        剣心は、急ぎ足に歩き出した。








        ★







        思い切り首をそらせて、空を仰ぐ。
        リボンに飾られた黒髪が、背中をすべってゆらゆら揺れた。

        雲ひとつない快晴、混じりけのない明るい青が目にまぶしい。
        街をすっぽりと覆うように積もった雪に、光が反射しているからこんなに綺麗に見えるのだろう。



        「・・・・・・って、それだけじゃないかぁ」



        剣心には内緒の「用事」を済ませた薫は、空を見上げたまま自分の頬に手をあてる。油断すると、ふにゃあと緩んでしまいそうな頬に。
        胸の奥から、あとからあとからこみ上げてくる嬉しさ、幸福感。それが今日の空を更に美しく見せてくれているのかもしれない。


        「いけないいけない、ぼけーっとしていたら冷えちゃうよね」
        小さく呟いた薫は、姿勢を正して歩き出す。
        とはいえ、この後はどうしよう。

        早く家を出たため、思いのほか早く「用事」は終わった。
        出稽古は休ませてくれと前川道場に伝えてはいるが、今後の事もあるし報告には行ったほうがいいだろう。


        ―――でも、剣心より先にっていうのはなぁ。ちょっと嫌だなぁ。


        剣心は、今日も雪だるまの件で出かけると言っていたから、おそらくまだ帰ってきていないだろう。とりあえずは帰宅して、彼の帰りを待つのが一番だろ
        うかと考える。
        と、昨夜の剣心との会話をふいに思い出した。航吉の、家族の話である。
        「・・・・・・栞さんに、会いに行こうかな」
        しばらく会っていないが、そろそろお腹が目立ってくる頃だろうか。下の子が風邪と聞いたから、お見舞いがてら顔を見に行ってみよう。彼女には、いろ
        いろと相談したいこともあるし。

        行き先を決めた薫は、さくさくと雪道を歩きだす。
        しかし、一町ほど進んだところで、鮮やかな色彩が薫の行く手を阻んだ。
        蹴飛ばしそうになって、慌てて立ち止まる。足元に転がったのは、華やかな振袖を身にまとった、人形だった。


        あ、可愛いなと思い―――そして、人形は一体だけではないことに気づく。いや、人形だけではない、お手玉や白木細工の船の模型など、様々な玩具
        が雪の上に転がっていた。
        
        「やだ、大変」
        薫はほとんど反射的にしゃがみこんで、玩具を拾い集めようとした。すると、すぐ傍から低く通る声が響いた。



        「ああ、これはかたじけない、お嬢さん」





      
        薫が顔をあげると、そこにいたのは帽子を目深にかぶった、洋装の老人だった。















        6 「昔話と道案内」 に続く。