「薫殿、今日休んでいた航吉でござるが―――」
「・・・・・・え?」
その日の夜、差し向かいでの夕食の席。
剣心が話しかけると、薫はたっぷりの間をあけてから反応した。
「あ、ごめんね、ちょっと今ぼーっとしちゃって。航くんがどうかしたの?」
「父上が留守がちと聞いたが、何をしている人なのかと」
「あー、航くんのお父さんね。船乗りさんなのよ」
「船乗り?」
「そう、関西のほうへ行き来することが多いみたい。ほら、前に上方からの新酒のお福分けをいただいたじゃない」
「ああ、そういえば・・・・・・」
記憶のひきだしを探った剣心は、「父ちゃんの運んだお酒です」と大きな酒瓶を抱えた航吉の姿を思い出し、うんうんと頷いた。言われてみれば、航吉も
舷太も、船に関係した名前である。自分の職業に誇りを持つ父親が、息子たちにその想いを託してつけた名なのだろう。
「航くんも、将来は船に関係する仕事がしたいみたい。道場に通ってるのもそのためなんだって」
「おろ、船と剣術に関係が?」
「直接はないでしょうけど、でも船乗りさんは体力勝負だから体を鍛えたいって。航くんのお父さんも、うちの門下生だったのよ」
勿論、薫の父親が道場主だった頃のことだ。航吉の父親は少年の頃、まだ東京が江戸と呼ばれていた頃から神谷道場に通っていたという。
やがて、航吉の父親は仕事で赴いた関西から、美しい女性を伴って帰ってきて、小さな祝言を挙げた。
それが、航吉の母親、栞である。
「わたしはまだ小さかったけれど、うっすら覚えてるわ。身内だけの簡単な祝言だったんだけれど、わたしも父さんについてお祝いに行って」
「餅搗き、したんでござるか?」
「そうそう! 搗かせてもらった! 父さんが、こう、手を貸してくれて・・・・・・」
ふたりは顔を見合わせて笑った。いつ誰が始めたことなのかは不明だが、このあたりで剣術道場に通う者が祝言を挙げる際には、どういう訳か餅搗きを
するのが慣例になっている。前の年の剣心と薫の婚礼でも、庭に立派な臼を「でん」と据えて、客たちがかわるがわる杵をふるったのだった。
はじめに薫から聞いたときは、「何故餅搗きなのだろう」と不思議に思った剣心だったが、祝言の当日、杯事が済むや否や大挙して押しかけた他道場の
門下生たちを見て「成程」と納得した。これなら大勢の門下生にも簡単に振舞えるし、何より大人数での餅搗きは賑やかで盛り上がるものだ。
ましてや、剣心と薫の婚礼は「憧れの剣術小町の花嫁姿を拝みたい」とやってきた若者が沢山いたため、特に人数が集まったわけだったし。
会話の流れから自分たちの祝言を思い出した剣心と薫は、ひととき箸を止めて、昨年の晴れの日の話で笑いあった。
「早いものねぇ、もう一年経っちゃうなんて驚きだわ・・・・・・あ、剣心おかわりは?」
「うん、では少しだけ・・・・・・そうだ、航吉の話をしていたんでござった」
「あ、そうだった。そんなわけでね、航くんは親子二代で神谷道場の門下なの」
ありがたいわよねぇ、と薫は茶碗を受け取りながら微笑んだ。
「母上殿は、関西の方でござるか」
「うん、でも・・・・・・そういえば、栞さんから故郷の話とか聞いたことってないなぁ」
するりと名前が出てきたあたり、父親の代から航吉の家とは家族ぐるみで付き合ってきたことがうかがえた。
「航吉が年の割にしっかりしているのは、父上殿の仕事柄でござるかな」
「そうね、どうしても留守がちになっちゃうから、長男の自分がちゃんとしなきゃって思っているのかも」
「しかも今は、母上殿が身重でござるし」
「栞さん、五人目かぁ・・・・・・」
剣心に茶碗を渡した薫は、ふっと視線を宙に浮かせて何かを考えるような面持ちになる。
一方の剣心は、日中の航吉とのやりとりを思い返していた。
雪だるまが流行したのは、やはり航吉が端緒となっていたらしい。
「敵」を攻撃するのに身をかくす砦のつもりで、自宅のまわりに幾つも雪だるまを作ったところ、それを見た他の子供たちが真似をして、この有様になって
しまったらしい。航吉としては特に「流行」として広めるつもりはなかったそうだが、結果としては、街のどこにいても敵に対処できるということで、好都合
だったそうで―――
しかし航吉は、剣心の「任せてほしい」という申し出を受けてくれた。
茶店を出た後、航吉と弟を家まで送った剣心は、警邏中の新市を探し出して例の老人の居所を聞き出した。新市の話によると、老人はやはり地元の人
間ではないらしい。商用で東京まで出てきたということで、現在は宿住まいだという。
剣心は礼を言って老人の宿泊先まで足を伸ばしてみたが、外出したまままだ戻ってきていないということで―――暫く宿の近くで様子をうかがってはみ
たが、結局今日のところは、それきり老人の姿は確認できなかった。
と、なると、明日また仕切り直しをしなくては。
とりあえず早い時間のうちに、宿を再訪することにしよう―――
そんなことを考えつつ、剣心は「ごちそうさま」と箸を置いた。
薫はまたぼんやりと考え事をしていたらしく、半拍遅れて「お粗末様でした」と返した。
★
ちょうどその頃、航吉の家でも兄弟姉妹四人と母親とで賑やかな夕食をとっていた。
「舷太お兄ちゃん、おしょうゆとってー」
「自分でとれよー」
「こらダメよ、お箸で人をささないの」
「母ちゃん、お茶いる?」
「あ、お願いするわ」
航吉の母親・栞は膝の上に座らせた末の娘の口元を拭いながら答えた。航吉は慣れた手つきで淹れた茶を母親の前に置く。
「ありがとう。航吉、今日の稽古はどうだった?」
栞にすると何気ない問いかけだったが、後ろ暗いところがある航吉はどきりとする。それでも、動揺を気取られないよう、さらりと「いつもどおりだよ、楽し
かった」と返した。
「楽しかった、かぁ」
栞は目を細めて湯呑を手にとった。末っ子がぱっと膝から立ち上がり、今度は姉の背中に甘えるように飛びついた。
「昔は、剣術の稽古に『楽しい』なんて言えなかったものだったのにねぇ。なんにせよ航吉の性に合っていて良かったわ、お父さんにそっくりね」
「母ちゃんも、剣術やってたの?」
航吉は驚いて尋ねた。母親の今の台詞は、まるで剣の稽古の様子を知っているような口ぶりだったから。
しかし、栞は「まさか!」と笑って首を横に振る。
「そうじゃないわよ。でも、母さんのよく知っている人がね、昔から剣術に厳しい人だったから」
そう言って栞は、どこか遠くを見るような目をした。
その、「剣術に厳しい人」の事を思い出しているのだろうか。
そんな母親を見て、航吉は幾度か躊躇った後、思い切って口を開いた。
「あのさ母ちゃん」
「ん? なあに?」
「ここに、古い傷跡のある爺さんって知ってる? 背が低くて口髭があって、洋服を着ていて―――」
がたん、と硬い音が響いた。航吉と、てんでにお喋りをしていた子供たちは、驚いてぴたりと動きを止める。
それは、栞の湯呑が膳に置かれた音だった。
いや、置かれたというよりは、手にしていた湯呑を半ば取り落としてしまった音、と言うべきか。
「母ちゃん! 大丈夫?!」
「・・・・・・え?」
「手! 火傷したんじゃ・・・・・・」
「あ、ああ、大丈夫よこぼしてないから・・・・・・ごめんね、びっくりさせちゃって」
―――驚いているのは、母ちゃんのほうだ。
航吉は、喉まで出かかったその言葉を無理矢理に飲み込んだ。
まだ小さな末の娘も母親の常ならぬ雰囲気を感じとったのか、不安げな顔で再び膝にすがりついた。
「・・・・・・航吉、その人は、洋装だったの?」
「う、うん」
「そう・・・・・・それなら、知らない人だわ」
末っ子の頭を撫でながら、栞は呟くように言った。
「あの人が洋服を着ているところなんて、想像もつかないもの。西洋のものが大嫌いなひとなんだから・・・・・・それに、そうよ、そんな今更・・・・・・」
それは航吉に喋っているというよりは、自分自身に言い聞かせているようで、小さくなった語尾は栞の口の中で消えた。
「・・・・・・母ちゃん」
「ああ、ごめんごめん、ほんとに何でもないからね」
そう言って、栞は笑った。
しかし、航吉は確信していた。
母ちゃんは、あの爺さんを知っている。
あの爺さんは、やっぱり母ちゃんに何かしようとしている。
父ちゃんがいれば、すぐに母ちゃんから事情を聞きだして、なんとかしてくれるのに―――
その晩、航吉は遅くまで布団の中で「対策」を考えた。いや、むしろそれは「戦略」と言うべきかもしれない。
そして心の中で、剣心に頭を下げた。
ごめんなさい、剣心さん。
それでも、父ちゃんのかわりに、母ちゃんは俺が守らなきゃいけないんです―――
5 「交錯する朝」 に続く。