3 小さな犯人








        少年は身を隠しながら、前方を歩く「敵」の背中をじっと睨みつけた。



        大丈夫、見つかる心配はない。小さな身体は、大きな雪だるまが隠してくれている。
        注意深くあたりを窺い警戒する。慎重になるのは大切だが、しかしあまりに敵との距離がひらくと雪玉が届かなくなってしまう。
        やるなら今だ。



        さあ、狙いを定めて、力をこめて。
        雪玉を投げ―――




        「こらこら」




        ひょい、と。
        剣心は少年の襟首を引っ張った。
     

        「うわぁっ!」
        持ち上げるようにされて、少年のかかとが雪の積もった地面から浮き上がった。彼は慌てて手足をばたつかせる。
        「わぁぁっ! はっ、はなせー!」
        「あああ、わかったから暴れるな暴れるな」

        剣心は、まだ十にも満たないであろう子供の襟首を捕まえたまま、小さくため息をついた。
        道場を出てから雪だるまの連なる道をしばらく歩いて、街の賑わいを少し抜けたあたりで剣心はその「現場」に出くわした。
        雪だるまに身を隠しながら、前をゆく男性にむかって雪玉をぶつけようとしていた子供の姿を見つけた剣心は、後ろから無造作に近寄って難なく「犯人」
        を捕らえることに成功した。なるほど署長の言っていたとおり、こんな悪戯をする子供が何人もいるとしたら確かに問題だと憂いた気分になって―――そ
        して、捕まえた子供の顔を改めて見たところで、剣心は「おや?」と首を傾げた。その少年の顔に、見覚えがあったのだ。
         

        と、同時に剣心は後方から近づいてくる気配に気づいた。


        「舷太を放せぇっ!」
        ひゅ、と風を切る音とともに、雪玉が飛んできた。
        剣心は背後からの攻撃を振り返ることもせずに難なく避ける。肩の横を勢いよく通り過ぎた雪の塊は、その向こうにあった雪だるまの首の付け根に「ぼ
        すっ」と食い込んで止まった。剣心はそれを見て、「ほう」と感心した声を上げる。
        「なかなか、いい肩をしているでござるなぁ」


        振り向くと、そこには先程道場で話題の中心になっていた少年が立っていた。
        今日、稽古を休んだ門下生、航吉である。

        道の向こうから走ってきた航吉は、たった今雪玉を投げつけた相手が自分の剣の師匠の良人であることに気づき、急停止する。
        明らかに「しまった」という顔になって足を止めた航吉だったが、すぐにきりっと表情を引き締めて、ずんずんと大股に剣心に歩み寄った。


        「・・・・・・こんにちは」
        こんな状況でも、真面目に挨拶をするのが妙に微笑ましく、剣心はつい頬をゆるませながら「うん、こんにちは」と返す。
        「弟を、放してください」
        「おろ?」
        剣心は、捕まえたままだった子供の顔を見る。なるほど、見覚えがあると思ったら、航吉によく似た顔なのだ。あるいは、航吉について道場に来たことも
        あるのかもしれない。
        「弟御でござったか、これは失礼した」
        剣心が掴んでいた手を首元から放すと、弟―――舷太はぱっと航吉のほうに飛んでいった。航吉は弟を背中に庇うようにしながら、じっと剣心の顔を見
        据える。

        「・・・・・・今日は、休んでしまって、すみませんでした」
        謝りながらも、その表情からまだ警戒心を解いていないことがうかがえた。子供ながら意思の強そうな目が、少し弥彦に似ている。いい目をしているな、
        と思いながら剣心は、のんびりとした動作で振り返って後ろを見た。
        「その、休んだことについて、少し話を聞きたいのだが・・・・・・」
        剣心は視線を航吉に戻して、ふっと声を小さくする。

        「やり過ごしてからにしたほうが、よさそうでござるな」
        「あ、どうも緋村先生!」


        すぐ目の前にいる剣心に気を取られていた航吉は、その後ろからこちらに向かって歩いてきた巡査にようやく気づいた。
        そして、巡査の隣にいる男性―――ひとりの老人の姿に、表情を険しくした。


        「先生も見回りでありますか、ご苦労様です!」
        巡査は、一昨年の鯨波の一件以来剣心のことを「先生」と呼ぶようになった新市であった。その呼称はどうだろうと剣心が何度訴えても改めようとはせ
        ず、そのまま今に至っている。
        「新市殿こそ、寒い中大変でござるな。どうでござるか? 悪戯の現場は押さえられたでござるか?」
        「いやー、全然です。例の、悪質なものの被害に遭ったのは、今のところこちらの御仁のみなのですが」

        剣心は、新市の横の老人を改めて見やり、おや、と思った。
        確か、先ほど航吉の弟が背中を狙っていたのは、この男ではなかったろうか?


        「それは先日、石を仕込んだ雪玉をぶつけられたという・・・・・・」
        「はい、幸いにして怪我はなかったそうなのですが」
        「東京の子供は、物騒な悪戯を思いつくものですな」

        老人は、低い声でぼそりと呟くように言った。
        新市の肩ほどまでしかない小柄な体躯を洋装で包み、頭には帽子を被っている。目深に被ったその帽子のせいで顔はよく見えないが、鼻の下に蓄え
        た立派な髭と、更にその下の口元に古い傷跡が走っているのが目についた。そして、ちらりと剣心を見た眼光には老人らしからぬ鋭さがあった。
        そして、「東京の子供」という言い方が剣心の耳にひっかかった。と、いうことは、この老人は東京の人間ではないのだろうか―――

        「たまたまそこで行きあいまして・・・・・・まだ『犯人』が見つかっていないのでお叱りを受けていたところです」
        「と、いっても、誰がやったのかを特定するのは難しいでござろう」
        「確かに、普通の事件とはちょっと訳が違いますからねぇ。ところで緋村先生、その子供たちは?」
        「うちの門下生でござるよ、今送ってゆくところでござる」
        「あ、神谷道場の子ですか。と、いうことは未来の名剣士ですね」
        微塵の疑いも持たず「君たち精進するんだぞー」と笑いかけてくる新市巡査に、航吉は困ったような顔でぺこりとお辞儀をした。


        「・・・・・・では、儂はここで。見回りしっかり頼みますぞ、警官さん。儂のような目に遭う人が、これ以上出ないでほしいですからな」
        「はっ、勿論でありますっ」
        「じゃあ拙者たちも・・・・・・ふたりとも、行こうか」
        互いに会釈をし、三組はそれぞれの方向に歩き出す。

        そして剣心は老人と新市がこちらを見ていないことを確認してから、すっと手を伸ばし、先ほど航吉が当て損ねた雪玉を雪だるまの首の付け根から回収
        した。
        「それはっ・・・・・・」
        「ん?」
        「いや、あの・・・・・・危ないから、気をつけてください」
        「うん」
        剣心は手の中で、「危ない」という雪玉を林檎のように転がしながら、ふたりの子供に尋ねた。



        「腹、減っていないでござるか?」








        ★








        この寒い中立ち話もなんだから、ということで、剣心は航吉とその弟の舷太を連れて近くの茶店に入った。
        汁粉を注文すると子供ふたりは目を輝かせたが、「そのかわり、事情はしっかり話してもらうでござるよ」と釘をさされて、揃ってうなだれた。

        「・・・・・・でも、あの、さっきはありがとうございました」
        「ん? 何がでござる?」
        「警察のひとにもあの爺さんにも、言わなかったから。俺たちのこと」
        「うん」
        剣心は懐から、畳んだ懐紙を取り出した。その中には、先程の雪玉に仕込んであった「危ない」ものが包まれている。
        「他ならぬ薫殿の門弟でござるからなぁ、訳も聞かずに突き出すことなどできぬよ」


        そう言うと身びいきのように聞こえるが、実際剣心は稽古に通ってきている航吉の様子を普段から目にしている。航吉は真面目で稽古熱心で、目下の
        子たちの面倒見もよい少年だ。面白半分で通行人に悪さを仕掛けるなどという事は、どうも彼には似つかわしくない。
        
        「それもっ、剣心さんや、関係のない人にぶつけるつもりで持っていたわけじゃないんですっ。さっきは弟が捕まっているのを見て、とっさに・・・・・・標的
        は、ひとりだけなんですっ!」
        「ああ、とりあえず食べてからにするでござるか。ほら、冷めないうちに」
        給仕の娘が汁粉を運んできた。鼻先をくすぐる暖かい湯気と甘い香りに、ふたりの少年たちは反射的に箸をとった。
        娘は剣心の前にお茶の入った湯呑を置きながら、「いつの間にお子さんができたんですかぁ」と笑った。航吉は汁粉を口に運びつつ、店員とすっかり顔
        見知りになっているらしい剣心に尋ねる。

        「この店、よく来るんですか」
        「ああ、薫殿が甘いものが好きでござるから」
        「先生と剣心さん、仲いいんですね」
        「ん? いやぁ、そうでござるかなぁ」
        子供相手とはいえずばりと言われると照れくさいのか、剣心は目を泳がせて言葉を濁す。隣の席で茶を注いでいた給仕の娘が「そりゃもう、いつも仲睦
        まじくて、他のお客様があてられてしまうくらいですよ」と茶々を入れ、剣心はますます居心地悪そうに肩をすくめた。


        「・・・・・・うちの、父ちゃんと母ちゃんも、すごく仲がいいんです」
        ぼそり、と航吉が呟き、汁粉を勢いよくかき込んだ。
        あっという間に底が見えた椀を、たん、と卓子の上に置くと、餡のついた口元をぐいっと手の甲で拭う。
        

        「だからっ!父ちゃんが留守の間は、俺が父ちゃんのかわりに母ちゃんを守らなくちゃいけないんだっ!」


        兄の発した大きな声に、隣で汁粉を食べていた舷太が驚いて箸を止めた。
        航吉は、安心させるように弟の頭を軽くなでた。舷太は、再び汁粉椀に口をつける。
        「うち、今父ちゃんが仕事で留守にしているんです。それはしょっちゅうある事だからいいんだけれど・・・・・・今回は、なんか怪しい奴が母ちゃんを狙って
        いるんだ」


        航吉は、ここ最近周りで起きている異変について、剣心に話し始めた。








        「父ちゃんが仕事に出た、次の日からでした。なんか、誰かが家の傍にいるような感じがしたんです」



        航吉が感じたのは、何者かの気配。
        そして、誰かが家の様子を窺っているような視線だった。
        
        「最初は、気のせいかなって思ってました。でも―――足跡が残っているのを見つけたんです」
        航吉の父親が仕事に出てから程なくして、東京の街は大雪にみまわれた。航吉は、ある朝起きて一番に自宅の戸を開けたとき、雪の上に幾つも残され
        ていた足跡を発見した。

        足跡は家の周りを何度も行ったり来たりしたらしく、同じものが沢山残っていた。
        それも、下駄ではなく、西洋の靴の跡がはっきりと。


        「それで、先程の御仁を?」
        あの、鋭い眼光を持つ老人は、確かに洋服を身につけ洋靴を履いていた。だからといって、彼が「覗き犯」と断定するのは短絡的すぎるようだが―――
        「ちゃんと、確かめたんですよっ! 俺、よそのうちの陰に隠れて見張ってみたんです。そしたら、あの爺さんが現れて」
        「ほう?」
        「爺さん、うちの周りをぐるぐるまわって、何かを調べているようだった・・・・・・それどころか、近所の人に訊いていたんです。栞さんの家はあそこかって。
        どんな暮らしをしているのか・・・・・・って」
        栞、というのが航吉の母親の名前らしい。
        老人のことをそこまで探っている航吉に、剣心はこの少年がどれほど真剣に母親のことを心配しているのかを、改めて認識した。
        「きっと・・・・・・きっとあいつは、何かよくないことをたくらんでいる悪者なんですっ!」


        航吉は大きな声で一息に言い切った。
        剣心は彼の弁舌になるほどと納得しつつ、卓子の上に置いた懐紙に手をのばした。
        包んだ懐紙を指で開くと、中から覗いたのは―――きらりと剣呑な輝きを放つ、割れた硝子片。


        「だからと言って―――これは、やりすぎでござろう?」
        「それは・・・・・・」
        「あの御仁が実際にお主の家について探っていたとしても、闇雲に攻撃していい訳ではないでござろう。無闇に力でもって相手を害することは、活心流
        の教えにも反することだ」
        流派の名を出されて、航吉は言葉につまった。
        まだ子供の彼にも、薫は神谷活心流の「剣を持つこと」の意味と覚悟については、しっかりと教えこんでいる。そして航吉は師の教えをきちんと受け止め
        ているらしく、剣心の言葉に神妙な顔で唇を噛んだ。


        「・・・・・・わかって、います」
        長らく黙りこんだあと、航吉は絞り出すような声で、そう言った。
        「では、仕込み雪玉は金輪際やめるように」
        剣心は、硝子片をもう一度包みなおし、懐に収めた。

        「お主がどれだけ母上殿を案じているかも、父上殿にかわって家を守ろうとしているということもわかったでござる。しかし、こんなふうに力で解決するよう
        なことは絶対にお主のためにならない。だから、あの御仁については、ひとまず拙者に任せてはくれぬだろうか?」
        「剣心さんに?」
        俯きがちだった航吉は、視線を上げて剣心の顔を見た。
        「ああ、拙者の顔に免じて・・・・・・では頼りないか。なら、薫殿の顔に免じて、このとおり」
        
        剣心は卓子に手を突き、真面目くさった顔でそう言った。
        航吉は、子供相手にかしこまった口をきく剣心が可笑しくて、ずっと張りつめさせていた気がようやく緩み―――少しだが、笑顔になった。


        自分では信が足りないと思ったのか、航吉の師匠である薫の名まで持ち出した剣心。
        そうまでしなくても、神谷道場の緋村剣心といえば、この界隈の剣術少年の憧れの的だというのに。



        「わかりました。剣心さんに、まかせます」



        航吉の返事に、剣心はあからさまにほっとした顔になり、「かたじけない」と頷いた。
        それがまた可笑しくて、航吉は肩の力を抜いて笑った。
















        4 「夕餉と決意」 に続く。