時は、深夜。
雨音に包まれた部屋の中、ふたりきり。
いや、家の中には弥彦もいるのだから正確には違うのだが、きっと彼はこの雷雨の中でも天下泰平に熟睡していることだろう。そうなれば実質的に、今は
ふたりきりだと言える。
そういう状況で、いつになく近すぎる距離に、薫がいる。
無防備に薄い寝間着一枚の姿で、雷の音に震えながら、小さな手で肩先にすがりついている。
呼吸が、感じられそうな近さ。
ゆるく編んだ髪には特別何かつけているわけでもないだろうに、花のような良い香りがする。
―――しまった。
どうしよう、困った。このまま抱きしめてしまいたい。
彼女は怖がって震えているのだから、抱きしめてやるのはこの場合正しい行動のような気もするが、でも、抱きしめたら確実に、そのまま後戻り出来ない
展開になだれこんでしまう自信がある。
それはまずい、絶対にまずい。
今、この場ではふたりきりとはいえ、同じ屋根の下には弥彦もいるというのに。いや、この天気だから雨風の音が邪魔をして、弥彦の耳にそういう音とか声
とかが届く心配はないだろうけれど。いやいやいや、そんなことを考えてしまう時点でもうだめだ。
少し前なら、薫に会ったばかりの頃ならば、こんな状況になったとしてもまだ冷静に行動できたことだろう。けれど、この数ヶ月を一緒に過ごして、すっか
り彼女に心が傾いてしまった今では、理性的に振る舞うのはかなり難しい。と、いうよりこれはもう苦行と言えよう。
しかし、こういう状況を作ってしまったのは俺なわけで―――つまりは自業自得だ。
とにもかくにも、彼女は怖がっているのだから、その怖さの元凶を取り除いてやらなくては。
「・・・・・・薫殿」
剣心は、薫の肩におそるおそる手を置きながら、「その、とりあえず・・・・・・どうぞでござる」と、布団の上に座るようぎこちなく促した。
薫は一瞬、怖さを忘れてしまったかのようにきょとんとすると、次の瞬間、真っ赤になって剣心の身体をどーんと力いっぱい突き飛ばした。
「や、やだっ!馬鹿っ!!何考えてるのよ剣心のすけべっ!!!」
「いや!違うでござるよそうではなくて!昼間の話の続きを聞かせるから、まずは座ってという意味でござるよ!」
たたらを踏んで転びかけつつも、なんとか堪えた剣心は、やはり赤くなって弁解する。しかし、薫は腕を胸の前で交差させ防御の威勢をとっており、警戒
を緩めようとしない。剣心は、まぁ仕方ない反応かとひとつ息をつく。
「わかったでござる、信用できぬなら、とりあえず拙者は居間にでも行くでござるよ。落ち着いたら来るといいでござる、そこでちゃんと話すから・・・・・・」
その提案に、薫は慌ててぶんぶんと首を横に振った。
「だめよ!ひとりでいるのが怖いから来たのに、それじゃあ意味がないじゃない!」
言ってから、薫は「しまった」というふうに目を大きくする。
あんなに、怖がっているのを認めずに強がっていたのに。それなのに、つい勢いで正直な気持ちを白状してしまった。
ふたりは、ぽかんと顔を見合わせる。
そして、同時に吹き出した。
笑い声を追いかけるように雷が雨戸を震わせ、薫はびくっと肩をすくめる。
「座るでござるよ、そこでは足が寒いでござろう?」
剣心の言葉に、薫は今度こそ素直に頷き、布団の上に膝を揃える。剣心は自分も腰を下ろすと、すぐさま彼女にむかって頭を下げた。
「・・・・・・すまなかった」
「え?ううん、わたしの方こそ、いきなり突き飛ばしちゃってごめんなさい」
「いや、そうではなくて・・・・・・いや、そっちもまぎらわしい事を言ってしまったが・・・・・・」
正面に座る薫の顔を見て、剣心は「怖がらせてしまって、すまなかったでござる」と謝った。
ぱちぱちと目をしばたたいた薫は、「まったくだわ!」と胸をそらせる。おどけたようなその仕草に、剣心はなんだか救われたような気持ちになりつつ、「その
上、からかうような態度をとってしまい、申し訳ない」と続けた。
「わたしも、意地を張っちゃってごめんなさい・・・・・・あーあ、むきにならずに素直になっていれば、怖くて眠れなくなったりもしなかったのにねぇ」
そう言って、薫は笑う。とはいえ―――元をただせば、悪戯心を起こした俺が悪いのだ。
結果的に、「想い人の夜中の来訪」などという理性が試されるような試練に見舞われたのは、神様が俺にバチをあてたに違いない。
「山越えの話の続きでござるが、今から、話すでござるよ」
「え、でも・・・・・・大丈夫なの?そりゃ確かに気になるけれど、聞いちゃったら余計に怖くなって眠れなくなるんじゃない?」
薫は眉間に皺を寄せたが、剣心は「いや、それはないでござるよ」と請け合った。
「大丈夫、むしろ最後まで聞いたら、怖がっていたのが馬鹿馬鹿しく思えるはずでござるよ」
そして、昼間の話の続きが始まった。
5 へ続く。