午後に泣き出した空は、夕刻に一度機嫌を直した。
雨音はいつの間にか静かになり、このまま晴れるものかと思われた。が、漆黒の雲はまだまだたっぷりと雨粒を温存していたらしい。夜半、ふたたび雨は
道場の屋根を叩き始め、更には風も加わって雨戸をがたがたと揺らし、賑やかなことこの上ない。
寝床の中、剣心は冴えた目で天井を眺めながら、この晩何度目かのため息をついた。
布団に入ってからだいぶ経つが、いっこうに眠気はやってこない。とはいえ、眠れないのは雨音がうるさいからではなく、薫のことが原因である。
薫殿を、怒らせてしまった。
今までも彼女の機嫌を損ねたことは何度かあった(そして殴られたり怒鳴られたりした)。しかし、それらはすべて不可抗力によるものだった。
けれども、今回は違う。
彼女を怖がらせて、からかって、あまつさえその様子を面白がって―――これは完全に故意だった。薫の言葉を借りれば「意地悪」をしてしまったわけ
である。
もっとも、最初ははぐらかすつもりはなかったし、ただ単に「雨にまつわる昔話」をするつもりだったのだ。
案内してくれた者の「正体」を普通に明かしてもよかったし、そもそも最初は隠すつもりもなかった。しかし、よせばいいのに気が変わってしまった。
怖いのに、それを気取られないよう強がる様子が可愛くて。もう少し、もうちょっと、この様子を見ていたいなと、そんないたずら心が首をもたげてしまい、
その結果がこれである―――まぁ、実を言うと、結末をはぐらかしたのには、もうひとつ理由があったりもするのだが。
とはいえ、経緯や理由はどうあれすぐに謝るべきだった。なのに、夕食の席で時機を逃してしまい、その後も薫は剣心が声をかける隙を与えなかった。頑
なに目を合わせようともせず、夜が更けるとそのまま「おやすみなさい」も言わず自室に引っ込んでしまった。薫の拗ねた横顔を思い浮かべながら、剣心
はまたひとつため息をついた。
そういえば―――こんなふうに、いわゆる「人間関係」で思い悩むのは、久しぶりではないだろうか。
いや、久しぶりどころか、流浪人になって初めてである。
なにしろ旅を始めてからは、悩んだりこじれたりする程に、他人と関わること自体がなかったのだから。
そう考えると、なんだか不思議だ。
この家に流れ着いて数ヶ月が経つが、その間に、人との繋がりが生まれた。一度は闘った相手と仲間になって、年少の者の将来を慮るようになって。
その上―――あろうことか、ひとりの少女に恋までしてしまった。
自分がまた、誰かを好きになることがあるなんて、思ってもみなかった。芽生えた恋心を、圧し殺そうとしても無理だった。こんなふうに心を制御できない
のは、まさしく恋をしている証拠だ。
生まれてしまった気持ちを、消し去ることはもう出来ない。この想いは決して表に出してはいけないけれど、せめて一緒にいられるうちは、彼女にはできる
限り優しくしたい。笑っている顔を、見ていたい。
それなのに、こともあろうに今日は、彼女に意地悪をしてしまった。
好きな相手をいじめるだなんて、まるで子供がすることではないか。
「弥彦に説教を垂れている場合ではないな」と、反省しつつ、目を閉じる。まだまだ眠りに就くことはできそうにないけれど。
今日は謝りそびれてしまったが、明日起きて彼女の顔を見たら、いの一番で謝罪しよう。決して悪気はなかったことを伝えて―――いやでも意地悪をして
しまったことは事実だし、怖がるのが可愛かったからと正直に言って―――いやいやそれは駄目だいくら正直にといってもそれはほとんど「君のことが好
きだから」と告白しているのと同じではないか。
―――と、枕に乗せた頭をぶんぶんと振ったところで、雨音と風が唸る音に混じって、低い響きが夜気を震わせた。遠雷である。外は、いよいよ嵐の様相
を呈してきた。
風にあおられた雨が雨戸に叩きつけられる音を聞きながら、庭木は大丈夫だろうか、屋根瓦が飛ばされたりしないだろうかと、そんなことを案じていた剣心
は、ふいに目を開けた。
ちょっと待て。
心配するのはそういう事ではなくて・・・・・・何か、大事なことを失念してはいないか?
薫殿を、怒らせてしまった。
怒らせた理由は、俺が彼女をからかったから。
何をからかったのかというと、彼女が山越えの話を怖がったことをだ。
そうだ、俺は彼女を怖がらせてしまったんだ。
強がった彼女は、あの話の結末を知らないままだ。
と、いうことは―――今現在も彼女はまだ、怖い思いをしているのではないか?
そこに思い至った剣心は、はじかれたようにがばっと身を起こす。
そうだ、不気味な話の結末を知らないまま夜をむかえて、更には天気も荒れてきて、薫が嫌いな雷まで鳴り出したのだ。いくら気が強くて男勝りだといっ
ても、薫はうら若き女性である。もしかすると、今頃頭から布団をかぶって震えているかもしれない。
こうしてはいられない、と。剣心は布団をはねのけた。
そのまま自室から飛び出そうとして、襖の引き手に手をかけたところで、はっとする。
今すぐ彼女のもとに行って、恐怖の根源を取り去ってやりたい。しかし、この時間に未婚の女性の部屋に踏み込むのは、それはそれでまずいのではない
だろうか?
ずっと前、それこそこの道場に身を寄せた最初の夜にも、彼女の部屋に走ったことがあった。だが、それは彼女の悲鳴が聞こえたからで、つまり明らかに
非常事態だったからだ。
しかし今回は違う。俺の心配が杞憂ならば、駆け込んだところで彼女はすやすやと寝息をたてていることだろう。それなら何も問題はないが、彼女が起き
ていて、尚且つ怖がっていなかったとしたら。その場合、俺が夜這いをかけた格好になってしまうのでは?
いや、こんな風に考えてしまうのは俺にやましい気持ちがあるからだ。とにかく、ここは余計なことは考えずまずは彼女のところへ―――
そんなことをぐるぐる考えていると一際強い風が吹き、がたんと大きく雨戸が鳴った。
それに続いて、「きゃっ!」と、小さな声が聞こえた。
―――え、と。
剣心は耳をそばだてた。雨風の音に混じって廊下のほうから聞こえたのは、間違いなく薫の声だ。
立ち尽くしていた剣心は、襖の引き手から手を離す。
稲妻が奔り、雨戸から漏れた光が室内をぱっと明るくする。またひとつ「きゃあ!」と悲鳴が聞こえた。
「・・・・・・薫殿?」
ためらいがちに呼びかけてみると、ごく近くから「・・・・・・剣心?」と声が返ってきた。そして、目の前で静かに襖が開く。
そこには、寝間着姿の薫が、困ったような怒ったような―――怯えたような顔で立っていた。
「あの・・・・・・ごめんね?こんな夜中に」
どうしたのでござるか、と訊くまでもなかった。やはり、彼女は怖がっていた。
怖くて、その所為で眠れなくて、だから―――
「えっと、こんな時間に男のひとの部屋に来るなんて、非常識だってわかっているんだけれど、でも、そういうんじゃなくて、あのね・・・・・・」
視線を足下に落としたまま、薫は言い訳めいた言葉をぶつぶつ続けていたが、再びの雷光がそれを遮った。
大木を割くような、凄まじい音が響く。
薫は今度こそ、こらえきれずに悲鳴をあげた。
落雷の音に背中を押されたかのように、とん、と小さな足が床を蹴る。
廊下から、剣心の部屋へと移動するには、そのたった一歩で事足りた。
ふわり、と。
黒髪が揺れ、細い指が、きゅっと剣心の寝間着の肩のあたりを掴んだ。
4へ 続く。