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        「ねぇ、剣心。さっきの話なんだけれど・・・・・・」



        夕飯の支度をしている襷がけの袖を、つん、と引っ張る。
        すると剣心は、「ちょうどいいところに」という風に、小皿を差し出してきた。

        「ああ、薫殿。これの味を見てほしいのだが・・・・・・」と言われ、それを反射的に受け取ってしまった。受け取った以上味見をしなくてはと、薫は素直に口を
        つける。
        「・・・・・・おいしい」
        「うん、かたじけない」
        にっこり笑った剣心に「では、あちらの皿によそっておいてはくれぬか?」と頼まれ、薫は「いい、けど・・・・・・」と頷いた。

        頷きながらも、もの問いげな目を剣心に向ける。
        聡い彼のことだから、それだけで察してくれてもよさそうなものなのに。しかし剣心は、ただにこやかに手を動かして鍋の様子を見ていた。



        先程の、山越えの話。
        あの話の、結末が気になる。

        でも、剣心が「聞かないほうがいい」と言うからには、相当に怖い展開が待っているのかもしれない。
        おそらくは、幽霊とか妖怪とかそちらの系統の怖い展開が。


        まさか、そんな馬鹿なと笑い飛ばしてしまいたいところだが、馬鹿げているとも言えないのではないだろうか。
        例えば「手」の正体が、実は山賊とか追い剥ぎとかの悪人のたぐいで、助けてくれたと思いこませ安心させたところで襲ってきたとか、そういう展開だとし
        たら、それはそれで剣呑な話ではある。
        しかし、剣心ならばそんな危機くらい、容易に切り抜けられるであろう。何せ、彼は比類なき剣の腕の持ち主なのだから。

        生きた人間からの害意なら、剣心はやすやすと打ち払えるに違いない。けれど、その相手が「人ならざるもの」だったとしたら―――?


        「・・・・・・薫殿?」


        かけられた声に、薫はびくりと肩を震わせる。
        「何か、考え込んでいるようでござったが・・・・・・大丈夫でござるか?」
        ついつい、怖い方向へ怖い方向へと想像をめぐらせてしまい、いつのまにか盛り付けの箸の動きは止まってしまっていた。

        首をかしげて顔を覗きこんでくる剣心に、「ねぇちょっと気になって仕方ないから、さっきの話の続きを教えて!」と、勢い込んで訊いてしまおうかと思った。
        けれど―――


        「なんでもないの!大丈夫よ」
        と。口をついたのは、別の言葉だった。

        なんとなれば、大丈夫かと尋ねてきた剣心の顔。その口許が、くすくすと楽しげにほころんでいるのが目に入ってしまったから。
        そしてその表情に、明らかにからかうような色が見てとれたから。



        ただそれだけのことで、意地をはって強がってしまう自分の性格がうらめしかった。








        ★








        「・・・・・・でさ、それで燕のやつ、すっ転びそうになったんだよ。で、前につんのめったところで、ちょうどそこにいた客に体当たりしちまってさ」


        焼き魚をつつきながら弥彦が話すのは、赤べこで燕の身に起きた災難についてだった。
        今日、店に出ていた時に、突然彼女の下駄の鼻緒が切れてしまい、客達の前で転びかけたのだという。

        「幸いさ、肉の追加を出した後だったから、持ってた盆は空だったんだよな。だから、皿をぶちまけるとかはなかったんだけど・・・・・・」

        前のめりに転びそうになった燕は、ちょうど目の前にいた客にぶつかってしまった。ぶつかった、と言うよりはその客が体格の良い男性だったため、彼が
        燕を受け止めて支えてくれたのだった。
        燕は「ごめんなさいっ!失礼しました!」と、真っ赤になって謝罪したが、その客は気を悪くしたふうもなく「いやいや、可愛いお嬢さんを助けられて役得で
        した」とにこにこ答え、あたりからはほのぼのとした笑い声が上がったのだった。

        誰も怪我をせず何も壊れずに、無事にその場は収まったわけだから、剣心は素直に「おろ、それは良かったでござるなぁ」と感想を述べた。すると弥彦は
        「だろ?なのに燕の奴、すっかり落ち込んじまってさー」と、顔をしかめる。
        「『お客様に迷惑をかけた』とか、『鼻緒が切れるなんて不吉だ』とか、その後もずっとくよくよしやがってさぁ。ったく・・・・・・あのうじうじした性格、直すんじゃ
        なかったのかよ」


        苦り切った様子でそうは言うものの、きっと弥彦は「燕が男性客に助けられた」ことが面白くないのだろうな、と。剣心はそう思った。
        今後、恋心に発展してゆくかはまだ不明だが、弥彦にとって燕は同じ年頃の身近な異性として、気になる存在ではあるだろう。そんな女の子が、事故とは
        いえ他の男性に抱きとめられた場面を見るのは面白くないだろうし、あるいは、自分が彼女の災難を救えなかった事も気に入らないのかもしれない。

        とはいえ、そんな感情の動きは、弥彦自身は自覚していないのだろう。だから剣心は、やんわりととりなすように「まあまあ」と笑った。
        「燕殿も相当に恥ずかしかったのでござろう、そのように言ってはかわいそうでござるよ。なぁ薫殿?」

        剣心としては、薫が「そうよ、ひどいこと言っちゃ駄目よ」と同意してくれるものと思い、水をむけた。
        しかし、もくもくと箸を口に運んでいた薫は、剣心をじとりと睨み「・・・・・・仕方ないんじゃないの?」と返す。


        「だって、剣心もだけれど、男のひっとてみんなみーんな意地悪なんだから!弥彦がそんな言い方するのも、仕方ないわよっ」


        棘のある声音に、剣心はひやりとしたものを感じる。薫の顔を見やると、彼女はふっと剣心から視線を逸らした。
        つんとしたその表情は、どこからどう見ても不機嫌で。と、いうより―――これはもう、怒っているときの表情だ。


        「・・・・・・薫、殿?」
        どうしたのでござるか、と聞くまでもなかった。これはきっと、先程の「話の先」をはぐらかした事が原因であろう。
        いや、正確には、怖がる薫をからかうような態度をとってしまったことを怒っているのだろうが―――

        剣心の口から、ほぼ反射的に謝罪の言葉がついて出そうになった。しかし、弥彦が「なんだ、喧嘩かよー?空気悪ぃから早く仲直りしろよ」と言うほうが早
        かった。結果として、それに遮られる形となってしまう。


        「別に、わたしたち喧嘩するほど仲良くないもんっ」
        ぴしりと撥ねつけるように言い切られて、弥彦は「大人げねー」と肩をすくめた。




        とりつくしまもない、という空気を漂わせる薫に、剣心は自分が謝る時機を逃してしまったことを知る。
        心の中で「しまった」と繰り返しながら食べる夕飯は、ほとんど味がしなかった。













        3 へ続く。