その晩のことはよく覚えていた。
数年前、まだ神谷道場を訪れる前のこと。風のおもむくまま日本中をさすらっていた頃のことだ。
今ぐらいの季節だった。その日、ある山を越えるつもりで歩いていたが目測を誤り、山中で日暮れをむかえてしまった。
夜になる前に山を抜けるはずだったのに、失敗したな、と。ため息をつきながら、あたりを見回した。野宿するのは常のことだから構わないのだが、それに
しても現在歩いているこの辺りは勾配も急で、ごつごつした岩も多い。どうせならもう少しまともな場所で休みたいものだな、と考えながら山道を歩いてい
た。
折悪しく、厚い雲が流れて月が陰った。月明かりがないと、周りは文目もわかぬ漆黒の闇だ。弱り目に祟り目というように、雨まで落ちてきた。
人より夜目はきくほうだが、流石にこの足場の悪い中を進むのは躊躇われる。下り坂で足を滑らせ、転げ落ちて怪我でもては事である。雨足は強くなって
きたが、仕方ない。止むのを待って、雲が晴れてから先に進もうか。
そう思った矢先に、ふと―――いきものの気配を感じた。
何かが、近くにいる気配。
狸か、狐か。熊であったら洒落にならないが、いや、これは―――
立ち止まっていると、指先に、誰かの手らしきものが触れた。と、いうことは、人間か。
深い山の中である。こんな場所に、しかもこんな時間に、人がいるというのか。
次の瞬間、その「誰か」に手を掴まれて、ぎょっとした。
冷たく、かたい手に引っぱられる。つられて足を一歩踏み出す。
更に手を引かれ、またもう一歩。
―――先導しているのか?
急な下り坂は、明るいうちでも歩くのは困難だ。しかし謎の手の持ち主は、剣心の足に合わせるかのように、慎重に手を引きながら次に踏み出す位置と方
向を教えてくれる。
「その、どなたかは分からぬが、かたじけない」
声をかけたが、返事はない。
きっと、大きな雨粒が、木々を激しく叩く音に邪魔をされて聞こえなかったのであろう。
それにしても、この手の持ち主は何者なのだろうか。こんな山奥で、しかも夜中に篠突く雨が降るなか、なんの迷いもなくするすると歩いてゆくなんて。
闇が邪魔をして、すぐ前にいるその人物の姿を確認することができない。いや、それとも。これは果たして「人」なのだろうか。
体温を感じない冷たい手。これは単に、雨に濡れているから冷えているだけなのか。
あるいは―――深山に棲む狐狸妖怪のたぐいが、気まぐれに道案内をしてくれているのだろうか。
まさかそんな、と。頭に浮かんだ馬鹿げた発想を打ち消そうとした。しかし、獣道という表現がぴったりな悪路を迷い無く進む足取りといい、一言もことばを
発しないところといい、馬鹿げているとは言い切れない気もしてきた。
そんなことを考えているうちに、勾配は穏やかになり、地面の感触も石混じりの不安定な足場から濡れた土へと変わってきた。
ぴたり、と「手」の動きが止まる。おや、と思い立ち止まると、それを待っていたかのようにぐいっと大きく腕を引っ張られた。
「あ」
指先に触れた、木の感触。
自然のそれではなく、人の手が加えられたもの。おそらく、山小屋の扉であろう。
よかった、これで人心地がつける。今夜は野宿を免れた。
安堵の息をつきながら、ここまで案内をしてくれた何者かに、改めて礼を言おうとした。
しかし―――
★
「・・・・・・それで、どうなったの?」
昼間だというのに薄暗い居間で、剣心の話に耳を傾けていた薫は、袖の上から二の腕のあたりをうそ寒そうにさすった。
「ああ、とうとう降ってきたでござるな」
話に一息いれたところで、雨粒が屋根を叩きだした。
「赤べこまで、迎えに行くべきでござったかなぁ」と呟く剣心に、薫は「弥彦なら、もううちに向かっている頃じゃないの?」と返し、じれったそうに話の先を
促した。
「ねぇ、その・・・・・・先導してくれた人って、何者だったの?まさか・・・・・・」
昔話―――と、いうほど昔の出来事でもないが、その話のきっかけは、今日のこの天気である。
午後になってから湧き出した暗灰色の雲は、いつしか東京の空を覆い尽くしていた。いかにも雨を孕んでいそうな重たげな空を見上げながら、薫が「昼間
じゃないみたいな暗さね」と呟いた。そして「剣心は、旅をしていた頃、こんな天気のときはどうしていたの?」と尋ねた。
「人里や町中にいるときは軒先を借りてしのいでいたが、そうでないときは大きな木の下に逃げるとか・・・・・・そんな感じでござったな」
「夜に雨に降られたときも?」
「だいたいは野宿でござったよ」
その返答に薫は眉根を寄せ、まるで濡れ鼠の剣心を目にしたような表情になる。
「うちの近くにいたなら、泊めてあげられたのに・・・・・・」
彼女らしい物言いに、剣心は笑った。そしてふと、ある日山中で雨に降られたときの出来事を思い出し、「雨といえば、こんなことがあったでござるよ」と語
り出したのだったが―――
「ねぇ、まさか、その人って・・・・・・」
まさか、その手の主は、「人」ではなかったのではないだろうか。
剣心の語り口は、雨にまつわる思い出話というよりはむしろ怪談話のようで、聴く側の薫のほうもすっかりその姿勢になっていた。昼とは思えない暗さの
中、剣心の顔を上目遣いに見ながらおそるおそる先を促したとき、玄関先から、「ただいまー!」と弥彦の元気な声がした。
「おかえりでござるー」
つい今し方、怪談話を―――もとい山越えの話をしていたのとはうってかわっての呑気な声音で、剣心が答えた。
「ぎりぎりで降られてしまったでござるな・・・・・・手ぬぐいを持っていってやらねば」
そう言って立ち上がる剣心を、薫は「ちょっと!」と引き止める。
「うん?」
「だから・・・・・・その、助けてくれたのって誰だったの?普通に、たまたまそこに居合わせた、ただの親切な人だったのよ・・・・・・ね?」
真顔で尋ねる薫の瞳を、剣心は凝っとのぞきこんで―――そして、にっこりと笑った。
「・・・・・・ここから先は、薫殿は聞かないほうがいいかもしれぬなぁ」
「えええ?!」
まさかの返事に、薫は目を剥いた。
「ちょっと、ここまで話しておいてそれはないでしょう?!気になるじゃない!」
「まぁ、とにかくその日はちゃんと雨をしのげて、無事に山を下りられたでござるよ。ただそれだけの話でござる」
「だから、そうじゃなくてー!」
剣心が無事だったかどうかも大事なことだけれど、それはそれとして気になるのは助けてくれた「手」の正体である。
それを「聞かない方がいい」ということは、「ただの親切な人」ではなかったということか。
そもそも、悪天候の夜の山中で、道に詳しい親切な人に助けられるなんて、そんな偶然あるのだろうか。
と、いうことは―――
玄関に向かった剣心の背中を見送りながら、薫は「そういうの、ほんとやめてよ・・・・・・」と呟き、背中をぶるりと震わせた。
2 へ続く。