左腕に、馴染みの深い重み。
胸に脚に感じる、人肌の温もり。
自分のものではないけれど、すっかり自分の一部のように感じられる、心地よい体温。
ああ、あたたかいな。
そう思いながら剣心が目を開けると、すぐそばに薫の寝顔があった。
そろそろ起きる時間かな、と思いつつ、前髪の隙間からのぞく額に唇を寄せる。が、反応はない。
薫が枕にしている左腕を注意深く抜いて、彼女の頭を敷布の上に落ち着ける。
長い睫毛に縁取られた瞳は閉じたままで、目を覚ます気配はない。
寝間着の帯はほどけて、着ているというよりは申し訳程度に羽織った姿で。
緩く編まれた三つ編みはすっかり乱れて。はだけた胸元には、花びらを散らしたような赤い痕。
昨夜のことを思い返してみる。
・・・・・・ちょっと、疲れさせてしまったかもしれない。
心の中で反省の言葉を呟きつつ、剣心は布団から抜け出して身支度を整えた。
雨戸を開けると、注ぎ込んでくる白い陽の光。眩しさに、目を細める。
立夏を過ぎて、ここのところ随分と夜明けが早くなってきた。
朝食の支度をしていると、一足遅れて起きてきた薫が台所に駆け込んできた。
「おはよう!ちょっと寝坊しちゃったー!」
彼女が加わると、それだけで台所の中が明るくなったように感じられる。
先程太陽に対してそうしたように、剣心は眩しいものを見る表情で「おはよう」の挨拶を返した。
ふたりで、ふたりぶんの朝食を用意する。
さしむかいで「いただきます」と言う。
箸を動かしながら、今日の予定をふたりで話す。
先月から、道場には弥彦のほかに新しい門下生がひとりふたりと加わっている。
「それでね、今日はその子がお友達も連れてきてくれるって」
「見学でござるか、入門してくれるとよいでござるなぁ」
新しい門下生はいずれも竹刀を初めて手に取るような子供ばかりだったが、「まっさらなほうが教えがいがあるわ」と、薫はむしろその事を喜んでいた。
「洗濯物、大きなものがあったら出しておくでござるよ。今日は天気がいいから、まとめて洗ってしまうでござる」
「そうね、今日はほんとに・・・・・・」
そして、今日は今日はと口にしているうちに、ふたりは「今日」が何日なのかに気がついた。
「・・・・・・あ、今日って」
「うん・・・・・・あれから一年経ったんでござるな」
ふたり、暦に目をやる。
今日の日付は、明治十二年、五月十四日。
門下生たちがやってくると、道場はにわかに賑やかになる。
見学に来た少年は、小さな妹を伴っていた。
まだ幼い少女は兄と一緒に行儀よく、そして興味深く稽古を眺めていた。
「やる気があるなら女の子だって歓迎するわよ」と言う薫に対し、弥彦は「こんなになっちまったら嫁の貰い手がなくなるから、やめておいたほうがいい
ぞ」と、自分の師匠を指差した。弟子に「こんな」呼ばわりされた薫は、眉間の皺をもみほぐしながら「やーひーこー?」と唸る。
「おっかしいわねぇ、あんたわたしの花嫁姿見たの忘れたの?このとおりちゃんとお嫁に貰われていますがー?」
「剣心みたいな物好きで趣味の悪い男がそう滅多にいるわけじゃねーし・・・・・・って、いててててっ!」
ぐりぐりと拳固で小突かれて弥彦が悲鳴をあげる。そこに他の子供たちの笑い声が重なる。
道場からのそんな声を遠くに聞きながら、剣心は洗濯や掃除を片付けてゆく。
稽古が終わったあと、ふたりは弥彦と一緒に簡単に遅い昼食を済ませる。
弥彦が長屋に帰った午後、庭に鶯のつがいが訪れたのを発見して、剣心と薫は並んで鳴き声に耳を傾けた。
気がつくと、互いに距離を縮めて寄り添っていた。
互いの顔を覗きこんで、同じタイミング瞬きをして、互いに引き寄せられるようにして、小さく口づけを交わす。
ふたりでくすくす洩らした笑い声に、鶯の囀りが重なった。
朝食の席で話したとおり今日は爽やかな青空が続き、いい風も吹いて洗濯物もからりと乾いた。
ふたりで取り込んで片付けをして、その後、連れ立って街に出た。
露天をひやかしたり、ばったり会った顔見知りの巡査と立ち話をしたりしながら、ゆっくりと歩く。
稲荷鮨の屋台で売っているのがとても美味しそうだったので、ふたりぶんを買った。
「夕飯、ちょっと手抜きができるわね」と薫が笑う。
並んで家路につく途中、ふと指が触れあったから、剣心はそのまま薫の手を握った。
薫の小さな手をひいて歩くのが、剣心は好きだった。
夕食には稲荷鮨と、彩りよく煮た野菜と吸い物が並んだ。
稲荷鮨の中身は、わさび漬けを刻んだのを混ぜたのと、ひじき煮を入れたのと二種類の酢飯があって、どちらも美味しかった。
「これ、うちでも出来ないでござるかなぁ」
「剣心の料理の腕があがるのは嬉しいんだけど、あんまり凝りすぎるとわたしの立場がなくなるから、ほどほどにしておいてよ?」
真剣な顔で訴えられて、剣心は笑った。
「それなら、今度一緒に作ってみよう。それならいいでござろう?」
薫はそれは大歓迎と大きく頷く。
そんな会話をしながら箸をすすめて、ふたりで「ご馳走様」と言う。
後片付けをして、風呂を沸かして、順番につかう。
穏やかに始まった今日が、穏やかに暮れて、穏やかに夜が更けてゆく。
「薫殿?」
もう夜も遅いというのに、寝間着と裸足で縁側に出ている薫を見つけて、剣心は驚いたように彼女を呼んだ。
「そんな薄着で夜風にあたると、風邪をひくでござるよ」
「大丈夫よ、もう髪も乾いたし、今日はあったかいし」
「でも・・・・・・」
と、剣心は薫のおとがいが僅かに上を向いているのに気づいて、その視線を追った。
見上げると、そこには降るような星空。
黒いびろうどの上に宝石を砕いて散らしたような、無数のきらめき。
「・・・・・・綺麗でござるな」
「ほんとね」
薫の言うとおり、割合あたたかな夜だったが、それでも剣心は風よけになるように、背中から薫の身体を抱いた。
体温を分け与えるかのように、ぴったりと身体をくっつける。
そうしてしばしの間、ふたりは無言で星空に見とれた。
「去年は」
「え」
「星って、見えてたかしら」
去年の今日。風の強い夜、愁嘆場をむかえていたふたり。
剣心は薫に別れを告げ、薫は剣心の背中を追えないまま、その場に泣き崩れた。
「どうだったかな・・・・・・覚えていないでござるよ」
「そうね、わたしも」
「たとえ見えていたとしても・・・・・・それどころではなかった、というか」
「・・・・・・うん、わたしも」
薫は、自分の肩を包み込む剣心の腕に、そっと指を添わせた。
「考えてみるとあの時、はじめて剣心に『ぎゅっ』ってされたんだわ」
「う・・・・・・」
改めてそう言われると照れくさいのか、むしろばつが悪いのか、剣心は口ごもる。
「ほんとなら嬉しいはずなのに・・・・・・それどころじゃなかった」
「うん」
「嬉しいどころか、悲しかった」
剣心は、ぐっと薫を抱く腕に力をこめ、彼女の身体を反転させる。
真っ正面から、薫を抱きしめる。
一年前と同じように、でも、一年前とは全く違う。
あれから幾度となく交わした抱擁は、いつも優しく、強く、熱く、暖かいものばかりだ。
互いに抱きしめあうのは、悲しくなるためではなく、愛しさを伝えるためだ。
「あれから、いろいろあったでござるな」
東京を去ってからも、京都で皆と再会してからも、そしてまた東京でも。いろいろと。
「いろいろあったけれど、わたしは今こうして、剣心のお嫁さんになってるわ」
「・・・・・・うん」
剣心は、薫を抱く腕に力をこめた。
去年の今日が、今生の別れになると思っていた。
一年前は、こんな「今日」を迎えているなんて、想像もできなかった。
しかし、あの別れの夜から一年経った今、ふたりは同じ屋根の下で暮らしている。
この先もずっと一緒に歩く未来を約束して、一緒に日常を生きている。
「いろいろなこと」が起きる中、剣心も薫も何が一番大切で、手放さずに守るべきものは何かを知った。
「いろいろなこと」を経て今こうしているのが、ふたりが選んで決めた必然だったとしても、それでも―――
それでも、今こうして薫と夫婦になって、一緒に星を見ていることがまるで奇跡のように思える。
剣心は薫の髪に指を梳き入れ、もどかしげにかき乱した。
どうしたら、この泣きたくなるような感情を上手く伝えられるのか、もどかしくて。
指に触れる髪が、ひんやりと冷たい。
剣心は、顔を上げて薫の瞳をのぞきこんだ。
「冷えてしまったでござるな、中へ入ろう」
「うん、そうね」
促す剣心に薫は微笑みで答え、肩を抱かれて家の中へ戻る。
無人になった縁側に、星の光はただ煌々と降りそそぐ。
その後、寝室にて薫は剣心に身体を傾けられて、布団の上に押しつけられた。
「今日は、疲れさせないようにするから」
そう囁かれて薫は真っ赤になって―――
そして、去年は剣心にさよならを告げられたあと、独りで一夜を泣き明かしたことを思い出した。
「・・・・・・薫?」
腕をのばして、力いっぱい首に抱きついてきた薫に、剣心は不思議そうな顔をした。
「・・・・・・なんでもないの」
ただ、あなたと一緒にいられるという幸せに、泣きそうになってしまっただけ。
夜が深くなる。
時計の針がまた、新しい「今日」の訪れを刻む。
ふたりの日々は、続いてゆく。
(了)
2012.05.14
モドル。