「・・・・・・剣心がこんな人だとは思わなかった」
かすかに、遠くから子供たちの笑い声が聞こえた。
道場の傍の道を走りぬけたのか、声は近づいてまた遠ざかってゆく。
傾きかけた陽が、浮かぶ雲を明るい蜜柑色に照らす頃。夕暮れには、いまひとときという刻限。
居間に射しこむ陽の光が障子を透かして、畳に格子柄の影を落とす。
右腕を下にした格好で横たわる薫の白い肩と背中にも、同じ模様が映っていた。
そろそろ夕ご飯の支度をしなくちゃ、と思うのだが、身体を起こすのがひどく億劫で、なかなか動くことができなかった。
まだ彼の余韻が薫の中にしっかりと残っていて、腰に力を入れられない。
「・・・・・・拙者、なにかしたでござろうか?」
言われた事の意味がわからず、剣心が不思議そうな顔をする。
「したじゃない、たった今!」
まだ、明るいから嫌だって言ったのに。抱きしめられて口づけられて(まぁそこまではよかったのだが)有無をいわさず帯を解かれて。夜まで待ってと言っ
たのにあっさり「無理」と返されて。
「よく、今まで何もなかったわよね・・・・・・」
「今までって?」
「何ヶ月もひとつ屋根で暮らしていたのに、ずっとわたしに指一本触れなかったじゃない」
それが今では今日のように、陽の落ちる前からも求められて。いったいどこでこの人はタガが外れてしまったんだろうか、と薫は首を傾げる。
「そりゃ、我慢していたから」
当然、といった口調に、薫は驚く。
「え、そうなの?」
「何を今更・・・・・・だいたい薫殿に最初に『あなたにいて欲しい』と引きとめられた時だって、実のところかなりどぎまぎしてしまったし」
「え、えええー・・・・・・」
剣心も、「男の人」なのだな、と。それは当たり前の事なのだが、薫は意外に感じ、眉をひそめた。
「・・・・・・まぁ、それは冗談として」
薫の渋い顔を見て剣心はくすくす笑う。
「でも、薫殿が欲しかったのはほんとの事でござるよ。好きだなぁと思うようになってから、ずっとね」
「・・・・・・じゃあ、どうして我慢・・・・・・していたの?」
口に出して言ったのは、出逢ってからずいぶん経ってからだけど。多分自分はさんざん剣心に対して「スキ!」という雰囲気を放っていたと思うのだが。
「・・・・・・嫌われたくなかったから」
ごろん、と薫のとなりに寝転んだ剣心は、肘枕をついて薫の乱れた髪を撫でつけた。リボンはとっくにほどけて、長い髪が肩をすべり、畳に艶やかな流
れを作っている。
「薫殿はひとまわりも下なんだから、軽率なことをして嫌われたらどうしようかと思うと怖かった。だから、我慢していた」
長い髪をひとふさ指に絡めて、引き寄せて口づける。その感触が伝わったわけでもないのに、薫はぴくりと肩を震わせた。
「それなのに、薫殿ときたら道場では晒しひとつで片肌脱ぎにはなるし、湯上りにはいい香りをさせながら薄物を着てそこらを歩きまわるし、寝過ごした
朝起こしに行ってみると寝間着の胸がはだけていたり裾がめくれあがっていたりするし」
「・・・・・・」
「今でこそ言えるけれど、ちょっとした拷問でござった」
「・・・・・・えーと、ご、ごめんなさい」
別に謝ることでもないのだろうが、なんとなくばつが悪くなった薫は首を縮めるようにしてつぶやいた。
「まぁ、そんなふうに無防備に振舞われているかぎり、手は出せないなぁと思っていたから」
「だ、だって。むしろ、わたしなんて剣心からすると子供にしか見えないんだろうなって、思ってたから・・・・・・女としてなんて、見られていないんだろうな
って、思っていたから・・・・・・」
薫の声がどんどん小さくなる。悪いことをしたわけでもないというのに、なぜか申し訳ない気分になってきてしまって。
「いいよ、別に」
よいしょ、と剣心は身体を反転させ、薫の上に覆いかぶさる。
顔の横に両腕をついて、薫の目をじっとのぞきこんだ。
「おあずけをくらったぶんは、今取り戻しているところだから」
薫は今度こそ途方に暮れる。
だって、今の話の流れでいくと、拒めるわけがなくて。
「ね、薫?」
からかうような笑みを浮かべた剣心の顔が近づく。
漸く暮れてきた陽が、部屋の中を茜色に染める。薫の頬も、負けないくらい赤く色づいた。
きみを想う気持ちを、もう抑えたりはしない。
欲しいと思う欲張りな自分も、隠さないで素直にきみを抱きしめよう。
そんなもの一度あふれてしまえば、我慢なんてできるわけないんだから。
(了)
2012.07.01
モドル。